真の愛を示した方

❖聖書箇所 ルカの福音書7章36節~50節              ❖説教題「真の愛を示した方」 

 

◆(序)この箇所をクリスマス礼拝において開く理由

 救い主誕生とは関係がない箇所ですが、時が満ちてお生れになった救い主がどういう方か、何をするために世に来られたのかということをとてもはっきり示している箇所と思うゆえです。

 

◆(本論)内容を見て行きます。

①36節「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。」 

 律法やそれに関連する伝統を学び、守ることによって「神の義」を得ると考えていたパリサイ派に属する この家の主人が(後でシモンという名前であることが明らかになる)何故イエスを招いたのか、その理由について聖書は何も記していません。バリサイ主義に限界を感じ、食卓で親しく主に尋ねようとしたのかも知れないし、或いは人々が主イエスに寄せていた評判、名声を傷つけようとしたのかも知れません。

 

 はっきりしたことは分かりませんが、ただ一つ分かっていることがあります。それは、彼、パリサイ人であるシモンは、普通、お客を招いた時の礼儀(足を洗う水を出すこと、口づけなど歓迎の挨拶をすることなど)を示していなかったことです。

②37節、38節「すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来た。そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら、イエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして、香油を塗った。」

 この37節、38節は、すると見よという言葉から分かるように、そのとき、想像もしていなかったこと、驚くべきことが起こったことを伝えています。そこに居合わせた者たちが驚いて息を呑みこんだ人がシモンの家に入って来たのです。(この地方の習慣として、お客を招いた場合など、戸が開けられているなら他の者たちも入っても良かった。) 彼らは一目で、この婦人が誰か分かりました。大人から子どもまで、町の中で知らない者がいないぐらい、不道徳な生活をしていることで評判の女性でした。特にパリサイ派、シモンとその仲間にとっては最も歓迎せざる人でした。

 勿論、この婦人も普段から自分がどのように見られているのか、特に行こうとしている家の者たちからどのような厳しい視線を受けるのか、分かっていました。けれども人々からどのように見られても、彼女は、主イエスにどうしてもお会いしたいと思ったのです。

 聖書は、その理由を何も記していませんが、文脈から、実は彼女はこの時、既に、主イエスのことば、あるいは御業によって救いの恵みを受け、これまでの生き方、生活を悔い改め、生まれ変わっていたと思われるのです。それは、後の42節、43節でイエス様がシモンに多く赦された者は多く愛することを示していることや、また「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50節)で過去完了形が用いられていることからそのように言うことが出来るのです。

 彼女は、罪の生き方がしみついて、どうすることもできなかった自分の過去、現在、将来を根底から変えて下さり、自分の人生に生きる希望を与えてくださった主に何としてでも感謝の想いを表したいと勇気を振り絞って来たのです。 

 そして、この婦人はお客で一杯の部屋の中、人々の驚きと射るような視線の中、ようやくイエス様の後ろまで来ました。本当はイエス様の頭に香油を塗ることを願っていましたが、主を目の前にした時、思わず身をかがめたのです。その時、自然に涙が溢れ、流れ、主の足に落ちました。それは彼女の心の思いでした。彼女はさらにひれ伏し、髪の毛で、涙でぬれた御足を拭い、そして口づけし、持って来た香油を塗ったのです。

 その一連の行動の間、主は何も言われませんでした。そして、主の無言は、この婦人を深く慰めました。洗い水も出されていなかったので、御足は汚れたままでした。彼女は、その御足に

涙を流し、髪の毛で拭い、口づけし、香油を塗りました。心からの感謝、喜び、献身の現れでした。女性が束ねていた髪を人前でほどくことは、当時、不謹慎な態度とされていましたが、主を目前にして知らずのうちにしてしまったのです。主は、無言で、しかし溢れるほどの慈しみをもって彼女の行動、思いをしっかりと受けとめました。これらは、周りに大勢の者たちが驚いて息を呑むようにして見つめていた中で、静かに行われました。

③39節「イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、『この人がもし預言者だったなら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深いのだから』と心の中で思っていた。」

 この光景を見ていた家の主人、パリサイ人シモンは心のうちに苦々しさを覚えていました。そしてこのイエスという人物は、神によって立てられた特別な存在ではないという結論を出したのです。あんな女のあんな行いをそのままにしている、清い神の働き人ならあんなことはさせないと思ったのです。

④そんなシモンに対して、本文は省略しますが、主は一つの譬えをもって、シモンに神を信ずる信仰についてを語っています(40節~43節)。 金を借りていたが、返せないので返済を赦してもらった二人の者の譬えです。一人の借り入れた額は、もう一人の十倍でした。主はこの話をされ、どちらがよけいに金貸しを愛するかとシモンに尋ね、そして、より多く帳消しにしてもらった方ですと答えたシモンに、あなたの判断は正しいと言われ、44節から47節にかけて、主イエスをお客として招きながら、当然しなければならないこともしなかったシモンの態度と、この女性がした一つひとつのことを対比して取りあげ、この婦人は、神に多く赦された者として一連のことをしたのです、しかし、愛と赦しが与えられていることを知らない者は、神に感謝することも献身を示すこともしないと言われたのです。

④最後に、主は、この女性とシモン、そしてその場に居合わせた全ての者たちに大切なことを告げています。48節から50節。「そして彼女に『あなたの罪は赦されています』と言われた。すると、ともに食卓にいた人たちは、自分たちの間で言い始めた。『罪を赦すことさえするこの人はいったいだれなのか。』イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。』」

 主のこのことばは、この婦人にとってこれ以上ない、確かな罪の赦しの宣言でした。この場面以前のいつか、どこかで主の語ることを聞き、信じた時、既に支配から救われていたことを宣言し、これからはもう安心して生きなさいと伝えるすばらしい送る言葉でした。

◆(終わりに)一人ひとりのために世に来られた主

 この出来事はさまざまなものを私たちに伝えています。一つは、神の見方と人の見方は違っているということです。人は、うわべを見ます。そしていったん、この世的な評価をくだすとその思いをなかなか変えません。しかし、神でありながら、人の罪の贖い主としてこの世においでくださった主は、その人のあるがままの姿、悔い改めの姿勢を見る方です。どんな歩みをしていても、神の招きに心を開き、罪を認めて悔い改め、主のもとに来るならばだれでも救われるのです。

 

 救い主、救世主というと、この世の多くの人々は、イスラエルの民がそうであったように抑圧されている現実から解放してくれる存在とか困難な現状を打破して新しい流れを造ってくれる存在と考えます。しかし、本物のメシア、救い主は力によって人の世を変えようとした方ではありませんでした。預言の通り、ユダヤの小さな町、ベツレヘムの暗く、寒い、汚れた家畜小屋で生まれ、冷たい飼い葉桶の中に寝かされていた方は、力ではなく、恵みとまことによって人を愛し、その愛によって、人の世、一人ひとりの人生と永遠を変えてくださった方です。この方を知ることは私たちにとって大きな恵みを知ることです。この方のご誕生を心から感謝し、お祝いしましょう。そして、まだの方は是非この方はあなたのために来られたことを知っていただきたいのです。