共に歩く方

❖聖書箇所 マタイ11章28節~30節          ❖説教者 川口昌英 牧師

◆(序)この箇所の背景

 待降節第三週です。本日は降誕の場面ではありませんが、誕生された主が何を人々に伝えたのか、よく知られているところから共に教えられたいと願っています。

 主がお生まれになった当時、ユダヤの人々は、神の民であることを誇り、選民としての中心にある律法を重視して生きていました。旧約時代、姉妹国がアッシリヤに侵略され、消滅したこと、又母国のおもだった人々がバビロンに捕囚され、更には帰還し、国を再興したものの再び三百年以上に渡って、周辺の国々、ギリシヤ、シリヤ、エジプトに占領され、従属させられたという歴史を持ち、そして現在もローマ帝国に支配されていましたが、自分たちは神から選ばれた特別の民であるとし、また、律法が与えられていることを誇っていたのです。 

 このように、この時代の人々は、旧約時代の先祖たちのような偶像礼拝をせず、選びの民であることを強く意識し、律法を重視し、その解釈や言い伝えまで生活の規範として生活しようとしていたのです。

 

 そんな姿勢の現れとして、ユダヤの人々は、安息日ごとに会堂に集まり、礼拝をささげ、律法を学び、またこどもたちに宗教教育をしていたのです。そして、律法を専門的に研究する律法学者と言われる人々が信仰生活の中心となり、律法を厳格に守ろうとするパリサイ主義が強い影響力を持っていたのです。ちなみに、パリサイの語源は、ファリサイ、分離する、特に汚れから分離して神にある取り分けられた道を歩むという意味です。

◆(本論)そんな人々だが、満たされていなかった

①このように御子が救い主として生まれた時代は、表面上では父祖アブラハムからのイスラエルの歴史全体の中でも比較的、神、主を中心とした時代でした。

 しかし、人々の実態はどうだったかと言うと、彼らは、律法に基づいた生活、神殿礼拝や各種の祭り、安息日の定めを厳格に守っていましたが、心や霊は疲れていました。というのは、生きていく中での試練、苦しみや悲しみを経験しても、神にあって受けとめられ、理解され、慰められることはなかったのです。反対にいつも正しく清くあるように求められ、非常に疲れていたのです。中でも、少なからずいた、律法教育を受けていなかった者や取税人などの特定職業、特定の病気にかかった者は、汚れた者と看做され、社会の交わりから除外され、一欠片の希望を持つことができなかったのです。

 そして、何よりも問題なのは、教えられて誠実に律法と取り組み、その中心にある、神を第一とする、力の限り愛する生活をしようとしても、又隣人を自分と同じように愛する生活を送ろうとしても、罪のゆえに実行することができなかったのです。そのため、神の前における自分の不足している姿や死後、神の裁きを受けることを思うと、人々の心から喜びは無くなり、苦しさと自己否定の思いがいつもあったのです。

 このように一見、この時代は霊的に見えましたが、実際は、始めから律法に背いている者たちは勿論ですが、律法を大切にしようとしていた人々も、だれもが疲れ、重荷を負うような日々を送っていたのです。

②神でありながら、真の問題である罪と死の支配より救うためにお生まれになった主は、福音を宣べ伝えて行く中で、人々を深く慈しみ、愛しました。主の生涯について記す福音書には、そんな箇所が随所にありますが、本日の箇所は、特に主の慈しみと深い愛を示しているところです。

 主は、まず「すべて疲れた人、重荷を負っている人」と言っています。

 先程、話したようにそれぞれ、疲れ、重荷、生きていく力を失っている理由は違いますが、根本は同じです。どこにも救いなどない、希望などないと苦しんでいたのです。具体的に、試練に会っている人は、こんなつらい試練に会うとは神は愛ではない、又社会から除外されている人は、

神も又自分を排除している、更に律法を実行できずに苦しんでいる人は、いつの日か神の裁きを受けるという思いで心が一杯になっていたのです。いずれも、神は愛ではなく、罰を与える、裁く方という思いです。信仰が支えではなく、かえって苦しみとなっていたのです。

 そんな人々の思いに対して、救い主としてお生れになり、神の国の到来をのべ伝えた主は、世界を創造し、いのちを与え、生きる使命と目的を与えられた真の神は、一人ひとりをかけがえのない者として見られる愛なる方であると言います。そしてその神の愛には一人として例外はないと言います。すべて疲れた人、重荷を負っている人たちよと言われる。神の愛は人の愛とは違うといいます。

 続いて、主は「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言っています。そしてその真の平安の理由として29節、30節を告げています。

 生きることに希望を感じることができない人々に対して、主が与えるくびきを負うことによって、言い換えれば主が一人ひとりとくびきを共にしてくださることによって、たましいに安らぎが与えられると言うのです。くびきとは、重い荷物を運ぶために牛や馬を二頭立てにする時に互いを繋ぐ木のことです。このくびきに一緒に繋がれることによって、一頭だけでは運べない重い荷物を運ぶ事が出来、大きな力を発揮することができるのです。

 主は、疲れ、重荷を負っている全ての人に対して、わたしがあなたとくびきを共にし、共に歩き、共に重荷を負います、そうする時に、あなたの心の奥底に安らぎ、本当の平安、希望、力が与えられると言うのです。自分はだめだと思いこんでいる者たちの心の底に、わたしがあなたの隣にいて、あなたの全てを受け入れ、あなたと共に歩くと言うのです。神ご自身である方が小さな弱い、悩む者と一緒になって人生を歩いてくださるというのです。イエス様が誕生した時にインマヌエルの主と言われている通りです(マタイ1章22節~23節)

③大事なことですが、では、主はどのようにそれを実現してくださるというのでしょうか。神の御子である方が人間の根本問題である罪の身代わりとして十字架を受け、罪を贖うことによってです。神によっていのちが与えられた者でありながら、神に背き、神から離れ、自分を中心にしていた者を御子の十字架によって神のもとに買い戻し、神の子としてくださることによってです。

 この十字架によって、勿論、復活も含みますが、主はありのままの私たちと一緒につながってくださり、私たちは主とつながるようになるのです。

 始めからから話しています、主が生まれた時代のイスラエルの人々のように、なぜ、人は生きることに対して、疲れ、重荷を感じるのか、それは突き詰めていくと、自分の存在、生き方を肯定できない、真に安心することができる居場所がないからです。人は試練や苦しみにあっても、生きる意味を見出すことができるなら、自分の人生を肯定できる、本来の生きる場を持つならば耐えることができるのです。しかし、生きる意味を見出せないならば、自分の人生を肯定できなければ立つことができず、前に向かって歩けないのです。主はその中心は罪、神に背いているゆえとし、そして、わたしは十字架によって、あなたの罪を贖い、あなたを神の国に生きるものとする、あなたは全く新しい者となると言うのです。

◆(終わりに)絶望しているすべての人に

 

 生まれて間もないイエス様を神にささげるためにマリヤとヨセフが神殿に行った時、救い主が生まれるまで死なないと言われていたシメオンとアンナから呼び止められ、幼子について神の預言を知らされました(ルカ2章)。母マリヤはそれを心に深くうけとめました。イエス様は人が、私たち一人ひとりが神にあって生きる者となるために、死ぬことを目的としてお生れくださった方です。それは、神様の側の一方的なめぐみとまことに他なりません。クリスマスを浅く、軽くしてはなりません。人の歴史を変えた十字架による罪の贖いのはじめであり、言い尽くしえない神の愛の現れです。そのクリスマスは絶望している全ての人のためであったことを知って欲しいのです。