待ち望める幸い

■聖書:ルカの福音書2:25-33   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ書4030-31節)

 

1. はじめに

 クリスマスクランツに2本目の明かりが灯りました。アドベントの第二週です。このアドベントというのは、「到来」を意味します。「もろびとこぞりて」では「主は来ませり」と賛美しますが、主が来られた、到来された、それを祝う日々です。もう少し正確にいうならば、このアドベントの期間は、到来の前、到来を待ち望む日々を過ごしているわけです。教会学校などの準備をしていますと、夏のキャンプが終わったと思ったらもうクリスマス、という感じです。あれよあれよという間に12月に入ってしまった。しかし改めてこの礼拝は心を静め、主が来てくださることの備えをしたいと思います。そんな中で本日の箇所が与えられました。一人の「待ち望んでいた人」シメオン。ルカはこのイエスの誕生にまつわる人々の賛歌をいくつか書き残しています。イエスの母マリヤの賛歌、バプテスマのヨハネの父ザカリヤの賛歌、さらに野原では羊飼いに向けての御使いの賛美が響き渡りました。それに続いてこのシメオンの賛歌があります。これは喜びあふれる確信と、希望に満ちた美しい賛美として、特にカトリック教会では親しまれているようです。本日与えられていますこのみことばから、待ち望むシメオンの心を、私たちの心としていただきたいのです。

2.       年老いたシメオン 

 まず、その賛美をささげるシメオンという人について見ていきます。シメオンという名前は、「主は聞かれた」と言う意味を持っています。まさしくふさわしい名前であると言えるでしょう。彼は、神様の約束を信じ待ち続けていた人物でした。当然、その間には祈りを持って待ち望んでいたことでしょう。彼はいつもこの日が来ることを祈り求めていた。そして、その祈り求める声を「主は聞かれた」。最後の預言者・マラキの時代から400年が経っていました。イスラエルの民たちは、救世主の約束、神様からの救いの約束が与えられ、それを待ち望んで苦難のときを過ごしてきました。しかし、多くの人はいつしかそれを忘れ、待ち続けることができなかった。いつとか、どんな風にとか、明確にわからないものを待ち続けるということはとても大変なことです。約束してくださったお方への信頼・信仰がなければ、半信半疑では、とても待ち続けることなんてできないのであります。

 しかし本日登場するシメオンは違います。「正しい人」と言われていますが、旧約時代このように呼ばれていたので思い出すのは、ノアという人物です。創世記6章を見ますと、「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神と共に歩んだ。」とあります。「その時代にあっても」、ということがポイントになってくるかと思います。その時代、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることが皆、いつも悪いことだけに傾」いていた(5)時代、わざわざ「ノアは神と共に歩んだ」と言われていますから、多くの人々はそうではなかったのでしょう。神から離れ、自分勝手な道を歩み始めていたのです。的外れの罪の生き方です。本来いるべき場所から離れてしまったのでした。その時代の多くの人々が神様とは無関係に歩んでいる中にあって、しかし神様を忘れず、神様を恐れて生きていた。それが正しい人と言われるノア、そしてシメオンの生き方です。多くの人が神様に期待し信頼して約束を待ち続けることができなかったその時代、しかし彼は約束に留まり続け、時代の流れ・風潮に呑まれることなく、愚直なまでに真面目に、ある一つのことを待ち望み続けていたのでした。

 彼が待ち望んでいたのはなんだったか。それは、「イスラエルの慰められること」でした。イザヤ書401-2節にはこうあります。ちなみに3節からを見ますと、有名な「荒野で叫ぶ者の声がする」とあり、メシアの道を用意するために先に現れる者についての預言があります。ご存知の方も多いでしょう、バプテスマのヨハネにおいてこの預言が実現しました(ルカ33節以下)。もちろんイザヤの預言は、バビロン捕囚からの回復というのが第一にあるのですが、この「荒野で叫ぶ者の声」からもわかるように、それだけでは終わらない回復、さらに大きな慰めを教えているのです。それをシメオンは待ち望んでいた。

 「慰める」と訳されている言葉は、直訳では、「そばに呼び寄せること」であります。つまり、ここでの「イスラエルの慰められること」、とは、イスラエルが傍に呼び寄せられる、とは、罪にまみれた罪人、道を見失い迷子になっている羊を、ご自身の元へと引き寄せる、本来いるべき場所に連れ帰ることを意味します。続く箇所にはアンナという女預言者が登場しますが、彼女は幼子イエスに出会った喜びを、「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人に」語ったとあります(38)。贖いとは、「買い取る、代価を払って自分のものとする」ことですので、これもやはり先ほどの慰めと似た意味を持っていることがわかります。それはどちらも、本来の場所に戻るということを意味しています。正しい人シメオンはその日を待ち続けていたのでした。

 彼は自分の意思で待ち続けていたわけではなく、そこには聖霊のお働きがありました。本日の箇所でも、この慰め主なる聖霊は、大切な役割を担われています。本日の箇所を読むとすぐ気づくことですが、「聖霊」なる神様のお働きに明らかに強調点が置かれています。聖霊は彼の上にとどまり、お告げを与え、そして彼の手を引いて待ち望んでいたイエスに出会わせるのでした。時代に流されない正しい人の上に聖霊はとどまり、いや、聖霊がとどまる人こそが時代に流されずに正しくあり続けるのかもしれません。いずれしても、彼の上に止まられ、その歩みを助けてきた聖霊は語られるのでした。シメオンが何歳であったかは記されていませんが、このお告げと、イエスに出会った時の賛美の内容から、おそらく老人であったのだろうということが伝えられています。先にも申し上げましたように、待つというのは簡単なことではありません。しかもその時代の大多数の人々は、待ち続けることをやめていました。イエス様はこの時、神殿に来ていて、そこには神に仕える人々、旧約聖書を隅から隅まで覚えている宗教的指導者が大勢いるはずでしたが、誰一人として、このお方が約束されていたメシヤだとは気づかなかった。メシヤを待っていたことは確かだと思いますが、切実に求めてはいなかったのでしょうか。あるいは、自分の思い描くメシヤ像があり、もっと権力を伴い力強い姿で来ることを待っていたのかもしれません。その目は塞がれていたのです。一方で正しい人シメオンは、その時代、周りの人々とは違って信じ待ち続けていました。それは時代の中にあって流れに逆らう者だったので、まだそんなものを信じているのかと馬鹿にされたかもしれない。「主のキリストを見るまでは死なない」とは、言い換えるならば、そのような時代の大波の中でも、揺らがずに待ち続けなければならない、それまで死ねないと言うことです。それ自体は嬉しいことでしょうが、やはり明確な「いつまで」がわかっていたわけではないでしょうから、苦しいことに違いはない。周りの流れと逆行する生き方は、弱い私たちにとっては大変辛いことなのです。

 しかし彼は立ち続けたのでした。すぐそばにいて下さる慰め主、聖霊に励まされながら、いよいよ時至り、やはり聖霊に導かれて約束のみどりごに出会うのでした。

 

3.       シメオンの賛歌  

 29-32節。シメオンは呼びかけます。「主よ」。ありきたりの呼びかけのようですが、原文を見ますと、聖書中10回しか出てこない強いことばが使われています。専制君主のような、絶対的な力を持つ支配者を意味する言葉で、聖書でも、主人と奴隷の関係の中で使われる言葉であります。奴隷というのは当時主人の所有物であり、生かすも殺すも主人次第のような扱いをされていました。そのいのちは主人が握っていたのです。イエスを身に宿すという衝撃的な知らせを御使いから受けたマリヤの言葉を思い出します。まだ若い乙女マリヤは言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」はしためとは女奴隷です。あのマリヤの告白、すべてを委ねて主の前にへりくだる謙遜と献身の言葉。その告白と同じ響きを、このシメオンの賛歌にも見ることができるのです。このお方に信頼してすべてを委ねることができることへの喜びに満ちた言葉です。私はもうあなたのものです。あなたの慰めを受けたのです。ですから彼は、救い主を見る日、すなわち世を去る日が来るというような中でも、喜びに満ちて歌うのです。本当に待ち望んでいた、待ち望み続けていたものは、このように歌うことができるのです。

 「安らかに去らせてくださいます」と言うとき、去るということをもっと直接的に言えば、平安のうちに、この地上での人生から解き放たれる、つまり死ぬということになります。多くの人々は死を恐れます。けれども、イエスに出会ったシメオンにそのような恐れはありません。それどころか、「安らかに」とさえ言います。これはヘブル語でシャロームという言葉と同じですから、満たされて死に向かうことができると言うのです。これは強がりでもなんでもなく、世の流れに立ち向かいながら、何よりも慰めを慕い求め続けていたシメオンのこれまでの姿勢そのものだと言えるでしょう。慰めとは、「傍に呼ぶこと」だとお話ししました。安らかに去るとは、罪にまみれ、苦しみ痛み悲しむことの多かった地上での生涯から解き放たれて、神様のかたわらに、懐に飛び込んで行くことであります。地上での旅を終え、これまで負ってきた痛みや悲しみのすべてから解放され、本当の居場所、私たちの国籍がある天の父のみもとへと帰還する。それはすなわち主のみそばで生きる、新しいいのちの始まりなのです。死で終わらないいのちが、この幼子イエスによってもたらされる。聖霊に満たされた彼は、この小さな幼子を抱き、見るときに、その大きな喜びを見つめていたのです。彼自身が神様のかたわらに行くことを何よりの喜び、楽しみとしていたのです。そしてそれが実現するや、心が本当に満たされて、平安のうちに生涯の終わりを迎えることができたのでした。人間の最大の敵は死であると言われます(1コリ15:26)。しかしそれにさえ勝利されるお方が主の御前に呼んでくださるのであるならば、私たちもまたその死と、死に関わるあらゆる思い煩いに勝利することができるのです。パウロは言います。「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」まさに幼子イエスに出会ったシメオンは、この勝利を確信した。最大の敵に対しての勝利が、この幼い子によって与えられるのだと。その意味で、これは非常に希望にあふれる賛歌であると言えるのです。

 続く30節の言葉は非常に重要な言葉であり、とても不思議な言葉です。肉の目で見るところでは、言ってしまえば、どこにでもいる赤ちゃんです。しかも、イエス様の両親がこのときささげていた「やまばと一つがい、またはいえばとのひな二羽」は、貧しい人たち用に定められた捧げ物でした。神殿に来ていた多くの人々は、だれもこのあかちゃんを気にもとめませんでした。しかし聖霊に満たされたシメオンがその霊の目で見たとき、この、どこにでもいるような赤ちゃんは、御救いそのものとして映ったのです。これはとても不思議な状況です。これはこの時に限らず、イエス様のご生涯のどこを見てもそうです。とりわけ、イエス様の地上での御生涯の最後、あの十字架は、はっきりと人々を分けました。パウロがコリントの教会に宛てた手紙を思い出します。十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリ1:18同じイエスを見ていても、まるで見え方が違ってしまうのです。それは的外れに生き、自分の罪過と罪の中に死んでいる私たちの霊の目は閉ざされてしまっているからです。それでも主の救いを求めている人々には、主が目を開かせ、この御救いそのものであるお方を見せてくださるのです。私たちは肉の目でイエス様を見ることができません。しかし、霊の目で見たとき、み言葉を通して知らせるこのお方の深い愛に気付かされたとき、このお方は救いそのものとして私たちに与えられているのです。

 そのようなことを考えながら、続く箇所でシメオンがマリヤに語った言葉を聞くと、その意味もより深くわかるのではないでしょうかこれは明らかに十字架の場面を言い表している言葉です。倒れとはつまずくこと、すなわち自分たちの求めていた姿とは違うメシヤの姿に失望し、このお方を信じることができない者、イエス様の十字架を愚かとする者たちの姿です。一方で立ち上がるとは、聖書ではいつも復活の様子を表すときに言われている言葉です。イエス様の十字架の苦しみが自分のためであったと、心から信じ受け入れる者は、イエス様とともによみがえりのいのちを歩むことができるのです。倒れるか、立ち上がるか。信じないか、信じるか。中立はありません。このお方を前にしたとき、明確に裁かれるのでした。

 イエス様は手を伸ばし、自分の罪過と罪の中に死んでいる私たちを立ち上がらせてくださるのです。繰り返しますけれども、まだ何もなし得ない赤ちゃんを前に、このように言うことはつくづく不思議なことです。イエス様の十字架はおよそ30年後。けれども、すでにクリスマスにはその十字架に至る道が示されていたのでした。正しい人シメオンはそれをしっかりと見ていたのであります。クリスマスというイエス様の誕生を考えるとき、同時に、そのイエス様の歩まれる先にある十字架をいつも覚えていたいと思うのです。それは、このお方が何のために世に来られたのかを見失わないためでもあります。

 前後しますが、この十字架によって御救いが万民に広げられるのです。異邦人の救いは旧約時代からも語られていましたが、新約の時代にこれを高らかに宣言したのは、このシメオンが最初です。先ほどのシメオン賛歌の後半部分をお読みします。31-32節。彼は幼子イエスを胸に抱いたとき、自身が平安のうちに主のみもとに帰ること、だけでなく、その救いが海を越え山を越え、全世界に広がっていくこと、それはまるで夜明けの太陽のように、全地を照らし出して行くような力溢れ、いのちに満ちる情景を思い描いたのでしょう。そして私たちにもその光が届いたのです。

 

4.       まとめ  

 正しい人シメオンについて書かれた少ない箇所から、イエスに出会った喜びはどのようなものであったのかを学んできました。それは、最大の敵である死を前にしても揺るがない喜びであるということ、さらには単に自分だけの救いなのではなく、世界中を照らす光であることを知った喜びです。そして、それは肉の目では見ることができず、聖霊によらなければ知り得ない、分かり得ない、驚くばかりの恵みでもありました。彼はこれを待ち望んでいた。説教台を『待ち望める喜び』としました。ちょっと日本語としてもう少し整った者にしたかったのですが、「待ち望むものがあるというのは喜びなんだ」ということをシメオンの姿から学びたかったのであります。そして、正しい人として主の前を歩み続けたシメオンのように、私たちも世の楽しみ、ほまれに流されることなく、しっかりとこの光の中を歩ませていただきたいと願います。お祈りします。