幸いな告白

❖聖書箇所 第二テモテ1章1節~12節       ❖説教者 川口昌英 牧師

❖説教の構成 

◆(序)この箇所の背景

 テモテ第二の手紙は、使徒パウロがローマの獄から一旦釈放されたが、再び捕えられ、投獄された時に書いたものです。

 このローマにおける二度目の投獄の時、クリスチャンを取り巻く状況は非常に厳しいものになっていました。時のローマ皇帝ネロが自分の乱脈な治世にローマ市民の間に不安や不満が噴き出ていたことに対し、偽りを流し、怒りの対象をまだ多くの人に知られず、不安視されていたクリスチャンに向けさせ、人々の目を逸らせようとしたのです。

 なかでも異邦人宣教の中心になっていたパウロは、最も警戒する人物でした。それゆえ、パウロは一旦、釈放されていましたが、直ちに捕えられ、再び投獄されたのです。そして、今回は、上述の、当局側の思惑があり、釈放される見込みはなく、むしろ処刑が確実視されていました。(4章6節で「私はいまや注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」と告白しています。)  

 

 新約聖書に収められているパウロ書簡の中で最後に書かれたこの書は、このようにクリスチャンや教会を取り巻く状況が厳しい中、親しい弟子の一人テモテに対して送られたものです。ちなみにこの時のパウロの年齢は60才ぐらいです。

◆(本論)死を目前にしての平安の表明

①しかし、このような厳しい状況を認識しながら、パウロはこの状況を「恥と思っていません」(12節)と断言します。抑制した表現ですが、今の状態を受けとめているというのです。 

 この「恥とは思わない」という表現は聖書では重要な意味があります。有名なローマ1章16節「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」でも言われています。

 この箇所は、パウロが、実は自分も以前は、福音、神の御子が人を罪と死の支配から救い出すために、十字架の死を受けて下さり、三日目に死より甦り、罪と死に対する勝利を与えてくださったと信ずることを恥と思っていたが、今は決して恥などと思っていないと言っているところです。

 主イエスが示した福音こそが、神の前に背き、大きなあやまちを犯して来たユダヤ人であっても、又人間中心的考えが強く、数々の偶像に満ちていたギリシヤ人であっても、どんな民であっても信じるすべての人を救う神からの力であると言っているところです。

 それゆえ、この第二テモテでも「恥とは思いません。」と言うのは、以前は投獄されることは、社会の中で罪を犯した者とされ、恥、不名誉と考えていたが、主イエスの福音を知り、真の人生を知った今ではその福音の宣教のために捕えられ、投獄されることは決して恥などではない、むしろ誇るべきことと思っていると言うのです。

②続いて処刑による死が近いことを意識しながらそれを受け入れている理由について説明しています。「なぜなら、私は自分が信じて来た方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ってくださることがおできになると確信しているからです。」(1章12節b) と二つの理由をあげています。

 始めの「自分が信じてきた方をよく知っている」とはどんな意味でしょうか。念のため、パウロは直接的には主イエスについて語っていますが、御子を惜しまないで与えた父なる神、そして信仰者それぞれに働く聖霊なる神も含んでいることは言うまでもありません。

 福音を与えた父なる神、福音を実際に示した御子なるキリスト、そして福音のうちに働く聖霊の三位一体の神を思い、とりわけ救い主イエスについて、私は自分が信じて来た方を深く知っていると言っているのです。

 旧約からの、人を救うための神の御心全体、そこに示されているいつくしみ、あわれみ、恵み、そしてそれらを実際の生涯を通して全てを実現した主イエスを思って豊かに慰められていると言うのです。

 では、主イエスの何を知っているから厳しい状況も受けとめていると言っているのでしょうか。勿論、主イエスの全体です。主についての預言であり、実際の誕生であり、語られたことばであり、なされた行いです。特に救いの成就としての十字架の死と復活であり、永遠のいのちです。

 その生涯において明らかにされた、大きな犠牲を払って、人を罪と死の支配から完全に永遠に救いだして下さり、御霊を与え、新しい人生を与えてくださったことです。それゆえ今、苦難に直面し、死が目前に迫っていてもその状態を受け入れることができたのです。

 尚、この「知っている」ということは、自分の人生の中で経験的に深く味わっている、確かであるという意味です。パウロは、イエス様にお会いし、信じて以来、その真実を心から信じ、そしてそれが彼の人生の支えとなったのです。(Ⅱテモテ2章13節、 4章17節) 

③もう一つの理由、「その方は、私がお任せしたものを、かの日まで守ってくださることがおできになると確信している」ということです。「かの日」とは、主の前に出て裁きを受ける時のことです。まず、地上の命を終えて神の前に立つ時です。(Ⅱコリント5章10節) そして、終末の大審判の時です。(黙示録20章12節) いずれも創造主によって全てが裁かれる時です。

 けれども、罪を認め、砕かれ、主イエスの福音を信じ、悔い改めた者は、パウロ自身が強く確信していたように、その裁きの時も恵みの時となる(Ⅱテモテ4章6節~8節) 、その時、神が義の冠を与えて下さるだけでなく、任せるもの、それぞれに一番大切なものを神が大切に受けとめてくださると言うのです。この変わることがない約束、希望があるから、人間的には絶望に見える状況ですが、決して後悔などしていない、恥などと思っていないと言っているのです。

 

◆(終わりに)私たちにとって主という方

 使徒の働き、新約に収められているパウロの13通の書簡を読んでいると、彼の人生が鮮やかに浮かび上がってきます。

 パウロは本当に福音によって人生が変えられ、又福音と共に死を迎えた人物でした。

 信じた時のことについてこんなふうに言っています。元々、恵まれた状況でしたが「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。」(ピリピ3章8節) 又、主の福音を知った後の生き方について「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリビ1章21節)  更に生涯の終わり、死についても先述の4章6節~8節のように希望をを告白しています。主イエスの福音がいつも人生の中心にあったのです。

 私自身のことを話すと、私は、教会に通うようになっても、心の深くにあった絶望が希望に、不安が平安に、恐れが喜びに変わることなどないと思っていました。それゆえ、深いところで求めていても、自分がクリスチャンになるとは思えなかったし、又教会の人々はどこか無理をしていると思っていました。しかし、さまざまなことを経験し、聖書のことば、特にローマ5章8節(朗読)を通して豊かな神の愛を知ったとき、救いの確信が与えられ、中心が本当に変わったのです。それまでずっと心の深くに鉛のようなものがありましたが、それが消え、喜びと平安が与えられました。その時、福音には本当に人の奥底を変える力があることをはっきり感じました。

 主は今も生きておられ、一人ひとりを招いています。まだ、主イエスを知らない人は、この方を受け入れて、そして、新しい人生を送っていただきたいのです。

 

 主が与えてくださった福音は、罪の赦しと共に人生の最後の敵である死に対しても平安と希望をもたらし、真の勝利を与える力があります。この恵みを拒まないで欲しいのです。