救い主の姿

❖聖書箇所  使徒の働き13章26節ー43節   ❖説教者 川口昌英 牧師

❖説教の構成 

◆(序)この箇所について

   本来は14節からですが、長くなるため26節から朗読していただきました。このところにおいて使徒の働きの著者ルカは、マルコ、ヨハネが一行から離れてエルサレムに帰った後、パウロとバルナバが内陸のピシディアのアンテオケに行き、その町にあったユダヤ人会堂において奨励を行った様子を伝えています。

  15節に律法と預言者たちの書の朗読とありますが、神を信じるユダヤ人たちは、安息日ごとに共に集まり、聖書を朗読し、また奨励、聖書のことばによる奨めによって神を礼拝していたのです。当時、多くのユダヤ人がローマ帝国内の諸都市に住んでいました。ディアスポラと言われた人々です。彼らはそれぞれの地で会堂を建設し、安息日ごとに集まり、聖書朗読や、また聖書にもとづいた奨めによって、神の民として生き方を守っていたのです。

 ピシディアのアンテオケでもそういう人たちが安息日ごとに集まり、神を礼拝していたところにパウロとバルナバがその集会に出席したのです。その二人を見て、集会全体の責任を持っていた会堂司たちが彼らに集会の中で奨励をするように依頼したのです。

 なぜ、会堂司たちがそんな依頼をしたのか、ルカはその理由を記していませんが、主の十字架や聖霊がくだって教会が生まれてから十数年も経っていた頃であり、ユダヤから離れていた彼らのところにも主イエスによる福音や教会のことは当然伝わっており、会堂司たちは自分たちの会堂に出席したその二人がクリスチャンであることを知って、キリスト教会の者たちはどんなことを信じ、教えているのか知りたいということで奨励を頼んだものと思われます。 

 

 このところでパウロが語った内容が残されている意味は非常に大きいものがあります。主イエスによる福音が実現し、ユダヤ人は勿論、異邦人の中にもキリストを信じる者たちが多く起こされ、キリスト教会が増えている中で、依然として神の民、選民としての意識を持って律法や安息日や会堂を大切にして生きていたディアスポラ・ユダヤ人に対してパウロたちが何を伝えようとしたか、知ることが出来るからです。また、パウロが旧約を大切にして、福音は旧約の実現であること、遠い昔からの実現であると語っているからです。

◆(本論)パウロがユダヤ人たちに伝えたかったこと

①内容を見ていきますが、パウロは、この説教においてユダヤ人たちをとても尊重しています。あなたがたはアブラハムの子孫であり、また英雄ダビデ王を先祖に持つ人々であることを強調しています。否定から入らず、肯定から話を始めています。そのように、ユダヤ人に対する配慮をしたうえで、神が送ってくださったメシアは、罪の贖いを成し遂げ、罪を赦してくださった主イエスであることを間違えてはならないと言います。36節から41節をお読みします。ここにおいて、パウロは、ユダヤ人が愛する、彼らが特に誇りとしている英雄、ダビデは死んで先祖たちと同じようになったが、人の罪のために十字架にかかり死んだイエス、神が甦らせた方は朽ちて滅びることがない方であり、真のメシアである、そして、この方によって、信じる者はみな、ユダヤ人や異邦人もなく、義と認められると強く言います。

 

②なぜ、パウロは、特に後半において、預言されていた主イエスがその通り、実際に来られたのに

エルサレムの人々はそれを認めず、その方を十字架につけたことや、しかし、神はその方を死より甦らせたこと、そしてその方は何日にも渡って現れ、多くの人々が福音を信じたこと、このイエスこそが真のメシアであることを強く言っているのでしょうか。

 それは、エルサレムの人々のように頑なではないが、選民であること、契約の民であることに誇りを持っていたピシディアの人々に、旧約の時から神が預言していたメシア、救い主は、ダビデのような力強い王、植民地とされているユダヤを解放してくれる軍事的解放者ではなく、人の真の問題である罪の贖いを成し遂げる方であること、そしてこの方はすでに来られ、十字架の死と復活によって、すべての人を罪と死の支配から救い出す御業をなされたことを知って欲しいと願ったからです。

 確かに、外国との戦いに勝利し、母国に安定と繁栄をもたらした、イスラエルの歴史において大きな功績を残したダビデ王のようなメシア、その時のディアスポラの彼らにしてみるならば、ローマ帝国の支配から母国を取り戻し、再びユダヤを強い国にするようなメシアを待ち望む思いは理解出来るのですが、神が旧約時代から何度も預言されていたメシアは、イスラエルを外国の支配から救い出すというただイスラエルのためだけでなく、全世界の人々のために、人間の根本問題である罪よりの救い主であることを伝えようとしたのです。

 大事なことですが、旧約聖書の中で約束、預言されている神の国、またメシアの姿を間違えてはなりません。とかく、人は、救い主というと現実の抑圧、支配からの解放者を想像しがちです、実際にごく少数の神に導かれた人々を除いて、イスラエルの多くの人々はメシア、救い主を抑圧されている、困難を強いられている母国の状態から救い出す存在と考えていました。

 彼らイスラエルの人々は、旧約時代より、神の民とされていること、そして律法が与えられ、「宝の民、祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト記19章5、6節)とされた意味を神が自分たちの国を世界の中で強い国、強い民とすると考えたのです。それゆえ預言されているメシア、救い主も自分たちの国、民族を抑圧から救い出す存在として捉えたのです。神がアブラハムやモーセに与えていた約束は自分たちを祝福する、繁栄させる約束として理解したのです。

 しかし、神が与えたメシア、救い主は、人にとっての真の問題である、罪よりの救い主であり、

全世界の人々の罪を贖う方です。神のかたちとして創造されていながら、神に背き、罪と死の支配の中に生きるようになった人を罪より救い、神の国に生きる、新しいいのちを持って生きるという福音を実現するために、神は、イスラエルを用いたのです。そして、その本来の目的のために、神の御子が人の罪のために身代わりの十字架を受け、三日目に復活するという真の救いを実現してくださったのです。聖書が伝える中心を間違えてはなりません。神が与えた福音は、イスラエルという枠を超えて、全世界の人々のためであったことを間違えてならないのです。

 ◆(終わりに)救い主の姿を間違えてはならない

 私は、ここで言われていることは非常に重要と考えます。救い主の姿を正しく理解するように言われているからです。

 私たちは、契約の民とされたイスラエルではありませんから、彼らのように救い主を現実の抑圧からの解放者として捉えることはありません。しかし、現在の困難な状況から救い出す方として見ていることはないでしょうか。まるでアラジンの魔法のランプの物語のように。

 

 神の救いは、自分が現実に経験している苦しみ、人間関係、経済的問題、健康などの苦しみからの救いと思っていることはありませんか。いうまでもなく、神は愛する者のために最善をなしてくださる方であり、それらに対しても主は最善をなしてくださる方ですが、あえて言うならば神が私たちに与えて下さるのはそれらが最優先ではありません。神が私たちに与えてくださるのは、繰り返し言っているように、人の根本問題である罪を贖い、神のもとに買い戻し、神の国に生き、そして、この世の平安や希望ではない、神の平安や希望を持って生きるという、あたらしい人生です。そして、これこそが人にとっての真の幸いです。残念ながら、今も多くの人が、中には信仰告白している人が神の救い、救い主を誤解し、信仰の喜びを失っています。救い主の姿を間違えてはなりません。私たちの根源を新しくしてくださり、真の平安と希望を与えてくださる方なのです。