意欲と現実

❖聖書箇所  使徒の働き13章4節ー13節       ❖説教者 川口昌英 牧師

❖説教の構成 

◆(序)この箇所について

 

 パウロの第一回目の伝道旅行である。主から召命を受け、また教会の厚い祈りによって送りだされ、強い確信をもって出かけた旅であったが、二つの困惑することが起きた。一つは、バルイエスという人物の妨害であり、もう一つは一行からヨハネ、マルコが離脱したことである。主の御心に従って異邦人宣教を始めてすぐにこの二つの出来事があったと記されていることは、とても興味深い。福音宣教というすばらしい目的による活動であるが、現実は、妨害や思いもよらないことが起こるとそのまま伝えているからである。

◆(本論)出来事

①学者によるとパウロはこの時、救われてから14年経った44才頃であったと言われている。主の救いを受けた後、長い年月をかけて熱心に旧約聖書やイスラエルの宗教について学び、深く考える時を持ち、ますます主イエスによる福音こそが神が人に与えた罪の贖い、福音であるという確信に満ち、働き人として整えられ、異邦人伝道に備えていたのであった。そして、バルナバに招かれ、ともに働いていたアンテオケ教会から、聖霊の導きと教会の祈りにより、いよいよ異邦人宣教という大きなビジョンに向かって踏み出したのである。

 繰り返して言うように、使徒の働きは、このところからパウロが中心になり、異邦人宣教の進展、おもに地中海一帯のローマ帝国の全地域に福音が伝えられていった状況を記している。

   ところが、意欲と使命感を持って出かけた最初の宣教地において、魔術の働きによって人々に

恐れられ、影響力を持っていたユダヤ人魔術師が、その地に駐在していたローマ総督が主を信ずることを妨害したという出来事が起きた。12節にあるように結果として総督は主イエスを信じたが、福音宣教に対するこの世の人々の反応を示している。詳しいことが記されていないが、ユダヤ人魔術師とあることから、おそらく自分こそが神、あるいは神の使者だと言って魔術を行い、人々に影響を与えていたのであろう。

 私たちは、こんな人は特別だと思いがちであるが、背景は違っているが、昔も今も世界中に溢れている。中にはあからさまな人もいるが、多くは表面的には悪霊の働きとは見えない。むしろ、人々から信頼されるような振る舞いをしている。それゆえ、人々もその声、意見を求め、喜んで聞く。そんな働きをする者たちが目指すのは、人々に自分の利益こそ最も大切である、人生の最高の価値だと意味づけ、そして、指導者である自分無くしてそれは実現できないと思いこませ、その人生をがんじがらめにすることである。それは、罪を指摘し、悔い改めを迫る福音、神のもとに立ち返って生まれ変り、永遠のいのち、天国の希望をもって生きることを促す福音宣教とは正反対である。

 こうして、人が救われる唯一の道である福音宣教に対し、バルイエスが妨害したことに対し、パウロたちも厳しく対処した。主の働きを妨害してはならないと行動で示した。受け取り方によっては、厳しい感じがあるが、いたずらに人を畏怖させるためではなく、何人であっても福音を伝える働きを妨害してはならないことをはっきり示すためであった。

②さらにもう一つの予想外のことが起こった。マルコと言われるヨハネが三人しかいないチームから離脱したことである。その詳しい理由について記されていないが、マルコの個人的事情によることははっきりしている。

 この出来事は、伝道チームの中心であったパウロには容認しがたいことであった。人々に福音を伝えることよりも自分の気持ちで大切な使命を放り出すことは、理解できなかった。心構えも足りず、何が起こるのか、想像もしないで宣教旅行に加わり、そしてつらくなったからやめるとは、何のために加わったのかという厳しい非難である。

 このマルコはバルナバのいとこであったことから、自分で異邦人宣教の重要性を理解し、そのために自分も奉仕したいという思いを持って加わったのではなく、見知らぬ国に行き、見知らぬ人々と交流したいという思いで特別に願い、チームに加わったのではないかと思う。ところが、現実は、厳しい船旅であったり、各地での妨害であったり、指導者であるパウロからの叱責であったから、穏やかな故郷が懐かしくなったのかも知れない。ともかく、彼は、途中で一行から離れた。よく教会活動は一致が大事、誰かが大事な使命から離脱することは、その活動自体に無理がある、そのまま進めてはならないのではないかと指摘されることがあるが、まさにマルコの離脱は、一行の雰囲気を悪くした。

 実は、この出来事はこの時限りのことで終わらなかった。15章にあるように、二回目の宣教旅行に彼を連れて行くかどうかでパウロとバルナバは激しく対立し、ついに両者は別れて活動することになった。マルコの離脱は、パウロとバルナバの別離の原因となった。こういったことは現代でも起きる。神の召しによって、又人々の祈りによって送り出されて行う福音を伝える働きであるが、現実は、一番大切なチームの一致が崩れることがある。それぞれの経験と思いと心が違っているからである。福音はすばらしいが、それを信じ、伝える人の側は未熟であるゆえである。マルコはもちろん、パウロの側も未熟であった。マルコを気遣い、配慮したならば離脱しなかったのではなかったのではないかと思う。この出来事は、私たちに大切なことを教える。本当に霊的に成長していなければ福音宣教、ましてチームによる宣教は不可能であるということである。霊的に砕かれていない未熟な状態では人間的見方によって互いに裁いてしまうからである。

 

◆(終わりに)なぜこれらのことをルカは書いたのか。

 主によって召され、人々の熱い祈りによって送られ、確信をもって出かけた異邦人宣教旅行の始めに、著者であるルカはなぜこれらを書き記したのだろうか。いうまでもなく、実際にあったからであるが、これらをまず記したのはやはり意味がある。

 一つは、この福音以外に人が救われる道はないと確信をもって人々に伝えるのであるが、その地に住む人々の心を支配している者たちは必ず抵抗し、人々が福音を受け入れることを妨害することを知らしめるためである。こういったことは現在も世界中、また私たちの国でも日々起こっている。 日本のキリスト教の歴史を見ても、福音は自然に広がって今のようになったのではない。この世界は神が創造し、おさめている、しかし、人は神に背いた、けれども神はご自分の一人子を犠牲にするほどに人を愛された、悔い改めて神を受け入れなければならない、また神は最終的にこの世界を裁くという教えを、この国に生きる者の心は我々のものだと思っている者たちは徹底的に抑え込んだ。ルカは妨害者を伝えることによってこれが現実世界だと知らしめ、しかし、福音の力はそれを超える力があることを伝えている。

 

 もう一つは、未熟な者を、主は見捨てなかったということである。このところで大切なミッションを投げ出したマルコ、それゆえ、次の伝道旅行に連れて行くかどうかで、パウロとバルナバが激しく対立し、パウロから見捨てられたようなマルコが後にパウロから、彼は役に立つ人物と評価され(Ⅱテモテ4章11節)、そして何とマルコの福音書を書くまでになっている。この事実は、人の見方と主の導きは違うことを示している。この時、教会の中でのパウロの位置は絶対であった。そのパウロから文字通り落伍者と見做されたマルコが、教会の中で大切な存在となり、福音書記者になったのである。ルカが使徒の働きを書いた時には、マルコのその後の姿を知っていた。その上でこの時のマルコの脱落を書いたのは、人は足りなさ、弱さのゆえに失敗をするが、神は成長させてくださる方であることを伝えるためであった。これらをこの箇所は今も伝えている。