大切な存在

■聖書:コリント人への手紙第一 1212-27節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

(コリント人への手紙第一12:27

1. はじめに

 昨日は金沢中央教会の誕生日、66回目の創立記念日でした。オープンチャーチにはオーストラリアチームのみんなも加わってくださり、たくさんの方が来られ、楽しいひとときでした。そんなこの時期に、改めて教会とはどのようなものなのかを、みことばから教えられたいと願っています。先程お読みいただいた最後の27節には「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」とありました。手紙を受け取るコリントの教会、あなたがたはイエス・キリストのからだである。イエス様を信じたあなたがたは、イエス様につながる生きた共同体であるというのです。一体どういうことなのか、見てまいりましょう。

2. 教会は一つである  

 12-13節をお読みします。ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みなひとつの御霊を飲んだのです。教会は一つであると言われていますが、これは当時のコリント教会の状況を考えると、信じられないことばでした。110-11節にはこうあります。さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストが語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家のものから知らされました。あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。初めて教会に来られた方は驚くかもしれません。多くの人は、クリスチャンはいい人、優しくていつもニコニコしていて怒ることなんてあるのかしら…そんなイメージを持たれているかもしれません。けれども、そうではないのです。もちろん外から見ていてそんな素晴らしい人柄の方もいらっしゃいます。しかしそうではないことは、実は自分自身が一番よくわかっているのです。クリスチャンであっても罪人である。いや罪人だとわかっているから苦しみ、その罪を悲しむからこそ、私たちは救いを求めてイエスさまにすがりついたのです。コリントの教会でも、仲間割れするな、一致しなさいと言われなければならない事態になっていました。誰につくのか、誰のグループなのかで争っていたのです。聖書とはきよい書物である、自分たちとは遠い世界の書物である。そのように感じられるかもしれませんが、実は、今日の私たちとはなんら変わらない人間の汚い姿がたくさん描かれていることに気づきます。いろんなことでぶつかり合い、受け入れ合うことができない。

 それは、自分が中心になっているからなのだと聖書は教えます。それは今日でも変わることなくあり、だからこそうまくいかない人間関係に悩み苦しむ人は多くいます。独りよがりをしているからしんどいのです。どんなに科学が発展しても争いは無くなりません。どんなに経済が豊かになっても、別の場所では食べることができずに死んでいく子供たちがいる不平等があります。悲しみは減らないどころか、いっそう深刻になっていく一方です。私たちにしても満ち足りるということが本当に少ない。何かがあればすぐになくなってしまうような不安定なものなのです。自分が中心という考えを変えなければならない。

 この手紙を書き送るパウロは、気に入らない人でも我慢して、自分を殺して、受け入れなさいと言っているわけではありません。何が何でも愛しなさいと、愛を押し付けているわけではないのです。今日の箇所に戻って見ますと、「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。」もう、そのようになっているんだと言うのです。仲たがいがあり、分裂があったコリントの教会に対してこれを言っているということに注目しましょう。あなたの罪を告白して悔い改め、そんなあなたの身代わりとなって十字架で死なれたイエス様と一緒に生きていきたいと願う時、あなたは御霊を受けた。あなたの今がどうであれ、確かに聖霊を受けたのだ。あなたがあなた自身のことをどう思おうと、もうすでにそれはなされているのだとパウロは言うのです。12章の3節後半、「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」ということはできません。」とありますが、自分が自分の主なのではなく、イエスさまが自分の主である、自分の中心は自分ではなく、私のために死んでくださったイエス様なのだと受け入れることと、聖霊が与えられることは深い関わりがあるのです。

 

 最後の晩餐、つまりイエス様が人々の罪のために十字架にかけられる前の夜、イエス様はこの聖霊について約束して言われました。「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」この聖霊は、いつまでもあなたがたとともにいるようにと与えられたお方なのです。罪の中に死んでいた私たち、神様との関係も人との関係も壊れていた私たちです。自分中心で生きていたものは、誰をも信頼できないのです。愛することも、愛されている安心することも、本当にはできない。いつも自分を中心に考えてしまう。頼るものを知らないから、何かがあれば簡単にぐらつくのです。頼りにしていたものがなくなると恐れるのです。そんな私たちを、もう一人にはさせないと聖霊を与えてくださった。この助け主は、慰め主とも呼ばれるお方です。私たちの悲しみや苦しみや痛み、誰にもわかってもらえないと思っていた様々な思いを全て知って、知った上で慰めてくださるのです。その聖霊が一人一人に与えられているから、私たちは一つであるのだとパウロは断言するのでした。今日は聖餐式がありますが、まさに、主にあって私たちは一つであるということを覚える大切な時間です。イエス様が十字架で流された血と、裂かれた肉を覚えるのです。私のために死んでくださったイエス様を一人一人が覚え、私たちのために死んでくださったイエス様を知る大切な時。今一度、それを覚えたいと思います。天国での食卓は、きっとこういうものなんでしょうね。国を超えて、言葉や文化を超えて、皆がイエス様のゆえに一つに集まり、ともに食する。いや、すでに召された信仰の先人たちともともに食卓を囲むのです。その幸いな時を、この地上で味わいたいと思います。

 

3. 教会は多様である

 教会は一つである、ということをこれまで見てきました。同じイエス様を信じ、同じ御霊に生かされる私たちです。と同時に、教会は様々な部分であるとも言われています。14-19節をお読みします。面白い表現が使われています。手には手の役割があり、耳には耳の役割がある。それぞれが必要な役割なのです。私たちは時に、自分が持っているものと他の人が持っているものを比べてしまいます。時に優越感を覚えたり、時に劣等感に苦しんだりする。そうではないでしょうか。人の価値を、その人の能力や持っているもので勝手に測ってしまうのです。同時に、自分自身の価値も自分自身で定めてしまう。時に自分を誇ったり、時に自分なんてと落ち込んだりする。私自身がそうでした。教会の中でさえ、あの人の信仰は素晴らしいのに自分は …英語もできないし、楽器もできないし、何にもないなと落ち込むことがありました。あるいは自分がこんなにやっているのにあの人はこれしかしないのかと勝手に怒ることもある。でもそれはとても不自由なのです。いつも周りを気にしていなければいけないから苦しい。そうしなければ自分の価値を確認できないから辛いんです。

 でも、私は聖書を読む中で、神様が私をどのように見ておられるのか、その暖かい眼差しを知りました。もう自分がそのように周りを見て、自分を見て、苦しむ必要はないんだということを知ったのです。一人一人に、大切な役割がある。しかも、18節にあるように、それを備えてくださったのは神様です。神様って、けっこう不平等ですよね。いまだに、こんなことができたらなぁ、あの人はこんなことができるのになぁなど、自分が持っていないものを考えてしまうことがあります。でも、神さまは「みこころにしたがって」、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださった。全部必要なもの、なくてはならない部分部分なのです。太陽と地球の距離が少し違っているだけで、人はこの地球には生きられなかったと言われています。この世界を絶妙なバランスで造られた神さまは、私たちに対してもそれぞれに必要な役割を与えてくださっているのです。だから20-22節。からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。これが、神様が私たちを見つめる眼差しです。私自身がどれだけ価値がない、愚かなものと思っていても、神様の目には、大切な、なくてはならない、かけがえのない存在として映っているのです。

 昨日のオープンチャーチ、一人一人の賜物が生かされて、本当にカラフルな、彩り豊かな教会の素晴らしさを見た気がします。特にオーストラリアチームの方々がキッズゴスペルと楽しそうに賛美をしているのを見るときに、神様のなさることは私たちの想像をはるかに超えているんだということを実感しました。こんなにも大きな神様の計画の中で、一人一人に役割がある。それらは互いにぶつかり合うことがなく、それぞれをより豊かにしてくださるものです。たくさんの色が塗り重ねられていって、深みのある、鮮やかな作品が出来上がるのです。一つの音だけでは表現できない奥行きを、多くのハーモニーが加わることによって美しい作品ができるのです。神様の計画は、私たち一人一人に与えられたそれぞれの役割を通して完成へと進んでいくのです。

 

4. まとめ

 そんな神様の素晴らしい計画によって、大切な存在として置かれている私たちは、25-26節にあるように生きることができるのです。かつての自分勝手な生き方ではなく、一つの部分が苦しめばすべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ、そんな生き方です。人の成功を妬み、人の失敗を心の中で喜ぶような社会。人を蹴落としてでも上に立つことが求められる競争社会の中で、こうした考えは出てきません。そうした競争の中で、何かがおかしいと感じている人は少なくないし、疲れてしまう人も多くいます。時に自分の命を絶ってしまう人も、この国には多くいます。けれども、神様の眼差しはまるで違うことをこれまでに見てきました。その眼差しを、私たちを持っていきたいと思うのです。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」私たちの教会の大切な姿です。国や言葉、文化が違っていても、いや同じ国でも、これまで生きてきた道がまるで違っていても、同じイエスさまに出会い、同じ御霊に生かされている私たちは、互いに喜びも悲しみも分かち合うことができるのです。神様の計画された素晴らしい設計図の完成を目指して、置かれているところで、それぞれの役割を果たしていきたいと思います。神様によって一つにされました。神様によって役割が与えられています。神様の目には一人ひとりが大切な存在なのです。そのことを覚えつつ、66年目の教会の新たな歩みを始めてまいりましょう。