根本問題の解決

❖聖書箇所 創世記3章1節~19節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖説教の構成

◆(序)人生の諸問題と世の解決

 多くの人がさまざまな理由によって悩んでいる。居場所を見出せないこと、自分や身内の病気のこと、過去におかしたあやまちや罪のこと、更には人間関係などさまざまなものがある。死の意味や恐怖など死の問題で苦しんでいる人もいる。老いも若きもさまざまな理由で悩み、人生に疲れを覚えている。

 それに対して、いろいろな問題解決の方法が示されている。原因が探られ、同じ経験をした人の意見など、見合った解決方法が示される。時には答えなどないのだから深刻にならないようにせよというアドバイスがなされることもある。確かにそれらの方法も力になる。苦しんでいるのは自分だけではないのだと分かるだけでもほっとする。閉塞した窮屈な空間に新鮮な風が吹いてくるような感じで気が楽になることもある。

 

 しかし、こういった問題の解決方法は、私の経験からしても、又多くの人々の経験からしても一時的なものである。時が経つと再び同じ問題で、或は別の問題で悩み、人生に疲れを覚えるのである。私たちは、悩み、苦しみに対して、こんな対症療法しか出来ないのであろうか。

◆(本論)問題の真の原因

①実は、私も聖書、福音を知るまでそう思っていた。人である限り、最初に話したような悩みから逃れられない、そうであるならそれらにとらわれない、支配されないように書物を読み、人々の意見を聞き、あまり深刻に考えないようにしようと思っていた。その考えは、社会人生活を始めるにあたって、これから聖書を読もうと決意し、教会に通うようになっても変わらなかった。

 しかし聖書を読み、集会に出席するに従って、私はそんな考え、人生の悩み、苦しみについての考えが変わっていくのを感じるようになった。それまでは、繰り返すように人生の根本的なことは何をしても決して変わらないと思っていたが、聖書が伝えている福音が私の心の奥底に届いた時に、暗い部屋の中に光が差し込んで来るように、希望を感じるようになった。

 何が変わったのかと言うと、それまでは全て自分を基準、中心として人生のいろいろな問題を考えようとしていた。しかし、聖書、神のことばに親しんで行くうちに、聖書が伝えているのは、今まで考えもしなかったこと、自分を基準、中心にして人生の問題を考えていたことが問題であることが分かった。出発点であった自分そのもの、自分の考え、感じ方が人生の諸問題の根本であることが分かった。当然のように思っていた考え方が問題の根本であると知らされたのであるから本当に驚きだった。それが分かった時に、なぜ生きることがこんなに苦しいのか、なぜ、いろんなことで悩むのか、すべてのことがすとんと腑に落ちた。出発が的外れだった、その状態の中でもがいていたのだ、そんな者のために救いの道を開いてくださった神のもとに帰ろうと自然に思え、主イエスの福音を受け入れることができた。 

 分かるまで年数がかかったが、創造主がおられ、人ははじめ、神のかたちとして造られ、生かされ、愛されていたが、自分が神のようになりたいと神に背き、自分が善悪の基準となり、神と断絶し、すべてが変わり、罪と死の支配の中に生きるようになった、けれども、神はなお人を愛し、旧約時代、イスラエルを通して救いの道を示し、新約時代、神の時が満ちた時に、愛する一人子を人の罪の救い主として送られ、この方による新しいいのちを与えてくださったことを知ることができた。人生の180度の方向転換であった。

 この経験は、私にとって非常に大きい意味を持っていた。自分の置かれた状況であるとか、死など避けることができないこと等が、悩みや苦しみ、生きる疲れだと思っていたが、 もっと根本的な理由があると分かった。ただし、具体的問題が深刻であることを否定するのではない。

 確かに、直接にはそういった問題によって人生に苦しみ、悲しみを感じるのであるが、それらが究極的に人をがんじがらめにするのではなく、それらは人生を暗くさせる導火線であると分かった。人が生きるうえにおいて、もっとも重要なのは、神のかたちとしていのちが与えられていながら、まことの神に背いていること、聖書が言う罪だと分かった。そして、主は、そんな罪の実を結んでいる者に対して、罪の贖いを成し遂げてくださっていることが分かった。

②本日の箇所は、人の根本であるその罪について、罪とはどのようなものか、罪をおかした後、人はどのように変わったのかを明らかにしている重要な個所である。物語的な感じがして、現実的でないように思えるが、実は全ての人にとって関わりが深い、大切な聖書箇所である。

 ある神学者がこの箇所について説き明かしていることを紹介したいと思う。この人は、暴力、戦争など目的のためには手段を選ばなかったヒットラー率いるナチスに抵抗して、聖書の信仰を守ろうとしたドイツ教会闘争を支えた指導者の一人であり、終戦前に処刑された人物であるが、この箇所をこう説明する。

 『創世記三章に伝えられているように、エバとアダムは蛇(サタン)にそそのかされて神の戒めを犯し、楽園の中央にある木からとって食べ、善悪を知る能力を手に入れた。創造の状態においては、人間は罪を知らず、何の問題もなく心から喜んで神と神の創造の秩序と一致して生活していた。神は、この創造の世界を中心であった。すべては、神に向けてまた、神から秩序づけられており、互いに良く調和していた。楽園の中心にある知識の木と命の木は、神が現実の中心に存在することをあらわすものであった。

 しかし、いまや、創世記第三章が伝えているように、次のことが起こる。人間自身が中心に存在し、その中心に基づいて世界がいかに相互に結び合わされているかを自分で見ることができるようになりたいという欲望と熱望とが人間に襲いかかる。その中心からなら、何が善か、すなわち、何が快楽に満ち、人生を促進するか、何が悪で人生を阻害するかが、区別されるのである。こうして、いまや人間は、自分自身を誤って中心にすえ、善と悪、人生を促進するものと阻害するものを確定しようとした。それによって、現実における人間の位置は根本から一変してしまった。……いまや、人間自身が自分自身を中心に位置づけたときには、彼は、自分の現実全体を自分から規定し、自分に向けて立てられたものとして認識するようになった。…蛇(サタン)が告げていたのは「神のようになる」すなわち、あなたたちは神のようになり、善悪を知るものとなろうということであった。いまや、人間は現実の中心に立つようになり、その結果として、現実は彼らにとってばらばらになり、彼ら自身、それらのただ中にあって自己疎外に陥った。』長い引用であるが、罪をおかし、生きる位置、立場、基準、関係がすべて変わってしまった人の姿を的確に明らかにしている。全ての人が持つようになった罪である。この罪が生きることを苦しく、窮屈にさせているのである。

 

◆(終わりに) 聖書が伝えるもの

 

 最初に話したように、私は教会に通うようになっても心に抱いている事柄について解決などないと諦めていた。例えて言うならば、ただ痛みがあるからその痛みを和らげてくれるようなものを求めたのであった。しかし、聖書、教会が伝えているのはそんなうわべの問題解決ではなく、根本の原因の解決であった。罪の実ではなく、実をならせている木そのものが真の問題であると明らかにし、その罪の性質を持つようになった人のために、神様の側が旧約時代からさまざまな救いの技をなされ、既に御子イエスの十字架の死と復活によって解決を与えられていることを知ることできた。考えてもいない福音であった。聖書が伝えていることを間違えないでほしい。聖書は清い人生のための倫理道徳の書ではない。一人ひとりの人生を根本から新しく、力強くする神の愛を伝える、真の希望に満ちた神からの一人ひとりに向けてあてられた命の書である。