神が造られた世界

■聖書:創世記126-31節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記128節)

 

1.  はじめに

 今週火曜日、1016日は国連において世界食料デイと定められた日であります。週報にも川口先生が載せてくださいましたが、近代化、科学の発達がどれだけ進んでも癒されない大きな痛み、困難があります。いや、ますます深刻になっているといったほうがいいかもしれません。ハンガーゼロのサイトを見ますと、様々な数字で、飢餓に関わる情報を教えています。その中に一つ、25億トンという数字が登場します。これが何を意味するかお分かりになる方はいるでしょうか。これは2016-17年における世界の穀物生産量だそうです。計算では、世界人口で分けると一人344kg。一年に一人が必要な量は180kgと言われていますから、倍以上の食べるものはあるのです。にも関わらず、1分間に17人の方がなくなっているという現実がある。これは遠い世界のことでしょうか。私たちと関係のないことでしょうか。今朝はみことばから考えたいと思います。これはこの世界が抱えている問題の一つであります。これが解決すればすべてが円満というわけではもちろんありません。言い換えるならば、この問題の根本がどこにあるのかを知る必要があるわけです。

この世界が最初からそうだったわけではありません。聖書が教える世界の始まりは、全く違っていた。本日の箇所は度々開かれる箇所です。天地創造の大詰め、第六日目の記述です。この日に人間は造られ、創造のわざは完成しました。神様が造られた世界は完成したのです。どんな世界だったか。31節をお読みします。神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常によかった。夕があり、朝があった。第六日。それは非常に良かった。これが神様の感想です。これまでも造られて来たものをその日その日に見回してこられました。そしてそのたびに、満足そうにうなずきながらだったのでしょうか、「良しと見られた」とあります。これまでずっと良しと見られた世界が、六日目に人間が造られたによって「非常に良い」となり、完成したのでありました。この人間が造られたことによって完成された「非常に良い」と言われる世界について、本日はみことばから教えられたいと願っています。冒頭でもお話ししたように、神様から「非常に良い」と言われる世界でしたが、罪が入ったことによって大きく変わってしまいました。とはいえ、では創世記12章に残されています天地創造の記事はもう意味のないものなのか、失われてしまった楽園なのか、というと、決してそうではないと思うのです。これから詳しく見ていきますが、確かに罪によって世界は大きく変容してしまいました。けれども、私たち人間は、この堕落した世界にあってなお神様の愛を受け、贖われ、救われるという希望が与えられているのです。それは人間の回復であり、新しい創造であると聖書は教えています。救われたものは、神様が非常に良かったと言われる世界における役割・使命を、もう一度、この堕落した世界でこそ果たしていくことが求められている。そのチャレンジを、非常に良かったと言われる世界のみことばからともに受け取りたいと思います。

 

 2.       神様が造られた「非常に良い」と言われる世界 

 どのようにして、非常に良いと言われる世界は完成されたのでしょうか。改めて第六日目の技を見ていきたいと思います。この日にまず動物が造られ、いよいよ人間が創造される土台、といいますか、舞台が完成したのでした。第一日に「光」、第二日目には「天」、第三日目には「地と海、植物」、第四日目には「太陽と月星」、第五日目には「海の生き物、空の鳥たち」そして六日目に「動物」。これはすべて、人間が造られるための備えであったのです。こうして並べてみますと、何もないところにポンと人間を生み出したのではなく、秩序を造り、整え、そうしていよいよ満を持して、人間が形造られるのでした。26-27節、神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女とに彼らを創造された。これまでに造られたものとの違いがいくつも見られます。「さあ、人を造ろう」。いよいよ準備万端!天地を創造した最大の目的に取り掛かろうとでもいっているようなニュアンスが伝わってきます。

 最も大きな違いは、「神のかたちに」造られたということでしょう。神の似姿に造られた、ということです。「われわれ」というのは、三位一体の最初の記述であると言われたり、ヘブル語文法の尊厳を表す複数形だとか説明されています。詳細な議論は避けますけれども、ここで神様は明らかに、ご自身を指して、ご自身のかたちに造られたわけです。そして、神のかたちに造られた人間に、使命を与えられた。他にも数多くの命あるものを造られた神様ですが、神のかたちに造られたのは、人間だけです。これが何を意味するか、多くの説明が必要ですが、一つのことをお話ししたいと思います。それは、私たちが交わりの中に生きる存在として造られたことです。

 第一に神様との明確な交わりがあります。神様が、神様のかたちに似せて造られた。つまり、自分自身に似たものを造られたわけです。もちろんまったく一緒ではありません。多くの欠けがあり、何よりも永遠なる神様の前に、あくまでも造られたものに過ぎない人間です。土のチリから造られた存在、でした。そこまでは動植物と一緒です。しかし2章によりますと、ここに神様はいのちの息を吹き込まれた。別の訳では霊を送られたのです。これは人間だけになされたことでした。

 さらにこの神と人との交わりに加えて、人を男と女に造られ、いわば横の交わりをも造られたのです。神様の創造は男性を造って終わりではありませんでした。それだけでは「非常に良い」とはならないのです。それどころか「人が一人でいるのは良くない」とさえ言われています。不十分だ、この世界は未完成だと言われるのです。男性と女性がいて、そこに人間同士の豊かな交わりがあって、初めてこの「非常に良い」世界は完成するのでした。この神と人、人と人の交わりの中で、26節、さらに28節にあります、人間の使命が与えられたのです。ある牧師によりますと、この使命のためにこそ神様は人間を他のものとは全く違う特別な存在、神のかたちに似せて造られたとさえいっています。神様が造られた世界は非常に良かった、はいおしまい、ではなくて、そこでの使命を果たすことが意図されていた、と言うことです。言い換えれば、人間が人間に与えられた役割を果たし続けることで、「非常に良い」と言われる世界が続いていくことが望まれていたのです。続けて、この使命についてもう少し詳しく見てまいります。

 

 3.       人間に与えられた使命と堕落 

 28節をお読みします。特に「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」という命令・使命に注目したいと思います。これまでに神様が秩序立って造られてきたもの。それらが人間の創造のためであり、人間の創造で完成するということをこれまでお話ししてきました。それらを神様ご自身が、直接支配するのではなく、神のかたちに造った人間に支配を任せられたのです。人間がこれらのものを従える、支配するというのは、自分の欲望のために、力づくでそれらを支配し、それらを利用するということではありません。神のかたちに造られたものとして、人間自身が神との交わりの中に生かされ、神を礼拝し、神の御心を知り、その神の御心に従って神が創造された生き物を管理するということであります。砕いていってしまえば、この世界を神様が喜ばれるように導いていく、管理していく役割が与えられているのです。まるで羊飼いが羊を正しく導くように、この世界を正しく導き管理していく。そんな役割が与えられていたのです。2章での人の役割は、動物たちに名前をつけるというものでした。タマとかポチとかつけるんじゃなくて、猫とか犬とかをつけていったわけです。名前というのはそのものを表すものですから、名前をつけるというのは、その相手をよく知るということです。これもやはり、この世界を管理する、支配する人間の大切な役割だったのでしょう。それぞれの生き物の特徴や役割をよく知って、それにふさわしく養い、それぞれの生き物がその特性を持って神の栄光をあらわすべく管理するのです。神のかたち、すなわち神に似せて造られた者に与えられた使命ですから、当然、その使命は、神様ならばどうされるかを考えながらのものとなります。もちろんおよびもつかないことは多々ありますが、それでも、神様が、神様の羊たちをどのように扱うのかを考えるならば、そこに愛と慈しみが溢れているのはよく知っている通りであります。

 ところで、堕落以前は仕事がなかったと考えられがちですが、そうではありません。楽園と呼ばれますから、何か裸の男女が楽しそうにしている、その程度に考えられています。しかし、今見たところからもわかるように、人には役割が与えられていました。また215節には、エデンの園を耕させ、守らせた、とありますから。土にまみれていた、汗を流していたということがすでに言われているのです。もちろんここに苦しみが入るのは、堕落後ですが、とにかく仕事はあった。言いかえれば、神の園は、神のかたちとしての使命を帯びた人間によって耕され、整えられていくのです。エゼキエル書や黙示録を見ますと、やがての日には神の都が完成すると言われています。またイエス様は神の国について宣べ伝えられました。本日は詳しくお話しすることはできませんけれども、神の園から神の都へ、非常に良かったとされる世界を管理し、整えるという役割が与えられていたのです。神の都では、都を照らす太陽も月も必要とせず、神の栄光が照らす、子羊が都の灯りであると言われています。ある牧師は、神は作曲家であり、人間はその作曲家の意図に従って演奏するオーケストラの指揮者であると表現します。そして一つ一つの生き物はそれぞれの音色を奏でる楽器である。すべての生き物は調和して「神への賛美」をささげるのだといっています。あの長い詩篇の一番最後、1506節は、息のあるものはみな主をほめたたえよ。ハレルヤ。と結ばれているのです。この賛美を導く役割こそ、神のかたちに造られた人間の使命であるのです。もちろんここでの賛美、動物や植物は歌えませんから、それは神様が良しとされる、喜ばれるものになっているということでしょう。

 しかし、です。世界に目を向けましても、決してそうなっているとは言えない悲惨な現状があるのです。わざわざその管理者を神のかたちとして造られたのですから、神様だったらどのように管理し、整え、導くのかを考えなければなりません。しかし多くの時代において、このことは捻じ曲げられてきました。しかも教会が自分たちに都合よく解釈してきたのです。この世界は神様によって人間に与えられたのだから、人間は何をしてもいいんだと、神様からの役割を果たすどころか、自分たちが神様のようになって好き勝手に振る舞ってきたのです。まさしく創世記の三章で、神様に禁じられていた木の実を食べた時から、自分を神としてしまうようになる。堕落してしまったのです。神のかたちとして造られた人間は、交わりに生きる存在として造られたとお話ししましたが、神様との関係は壊れ、人との関係も壊れてしまった。さらに、神を褒め称えるように託された世界を自分の意のままに扱い、神のかたちに与えられた役割も放棄してしまったのです。だからこそ、世界のあちらこちらにほころびがあり、痛み悲しみ、苦しむ人がいて、今日も血が流されている。たくさんの子供達が、食べることができずに死んでいく。不平等が広がりつづけています。非常に良かったと言われる世界からは大きくかけ離れている。話を飛躍させすぎたかもしれません。しかし、ここにこそ、世界が抱える困難の、大きな原因があるということを私たちは忘れてはいけないのだと思うのです。決して表面的な問題だけではない。もちろんそれらの現実の困難は解決されなければならないことですし、そのために助けの手を伸ばし、パンを分け与え、様々な支援が必要になります。でも、その飢餓をはじめとする世界が抱える様々な問題は、遠い世界の遠い人たちの問題なのではなくて、私たちの罪の問題と直結するものなのです。

 

4.       まとめ  

 そんな中で私たちに何ができるでしょうか。もうそろそろ終わりにしますが、一箇所開きましょう。こんな世界で私たちに何ができるのかをもう一度覚えたいと思います。エペソ人への手紙2章の1節から。1-3節。背きと罪の中に死んでいた私たちは自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行っていた。それがかつての私たちであり、今の、他者の苦しみに無関心な自己中心の現実です。使命を果たすどころか、かえって世界をめちゃくちゃにしている。しかし、あわれみ豊かな神はと4節は続きます。4-10節。大切な言葉がたくさん並んでいます。特に10節。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。イエス様の十字架と復活によって、私たちに新しい、永遠のいのちが与えられました。それは、考え方が変わった、価値観が変わった、程度の話ではありません。この造られたという言葉、旧約聖書のヘブル語では、あの天地創造の時に使われている言葉「創造」を表す言葉が使われています。非常に良かったと言われる世界に造られた人間は、罪に死んでしまった。そんな私たちが、しかしあわれみ豊かな神によって、新しいいのちが与えられているのです。そんな私たちには、神のかたちとしての役割、かつて失われ、今のなお、それを果たすことができない「地を従えよ」との命令が、今再び与えられているのではないでしょうか。神様が喜ばれる生き方、神の国の完成を目指す生き方が、私たちの置かれている、いや遣わされているそれぞれの場所において求められているのだと強く感じます。CSの試み。小さなことを、でも神様の愛を知ったものとして行動していく。人はそんなことをして何になるんだというかもしれません。焼け石に水という言葉が私の中にもちらつきます。けれども、神のかたちに人をお造りになり、非常に良かったと言われた世界を管理させよう、完成させようとされる神様は、私たちのその小さな歩みを決してないがしろにはされないのです。ご自分でされた方がはるかに確実なのに、それでも、あえて造られた器に過ぎない私たちにその使命を託してくださっている。そしてそれを、幾倍にも増やしてくださり、よくやった、良い忠実なしもべだと共に喜んでくださるお方なのです。決して遠い世界の話ではなく、私たちがどう生きるのかに直結することであることを覚えつつ、また新しい週の歩みを始めてまいりましょう。お祈りします。