さなぎから蝶へ

❖聖書箇所  使徒の働き13章1節ー3節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

①新しい展開

 使徒の働きは、十字架で死に、三日目に復活された主の天に昇られた後、約束の聖霊が与えられ、教会が誕生したことから始まっている。

 その後、聖霊に導かれた使徒たちによる力強い説教やすばらしいわざによって、エルサレムで多くの人々が救われ、教会に加えられた。教会に加わる人々が増えたことに対し、危機感を持った指導者たちは、生まれたばかりの教会を迫害し、福音宣教を禁止しようとしたが、主イエスのことばや聖霊によって確信が与えられていた使徒たちは、この世界には主イエス以外に救い主がいないと拒否し、宣教に励んだ。それにより、信者の数が目に見えて増えていった。

 しかし、割礼や律法を重視する旧来の指導者たちも黙っていなかった。必死に主イエスによる福音が広がるのを阻止しようとした。教会の中で期待されていたステパノを石でうち、殺害し、エルサレムの教会に対する大々的な迫害を実行した。その迫害により、使徒たちを除く信者は、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。しかし、彼らは、行くところにおいて福音を宣べ伝え、その結果、教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの各地、イスラエルの全地において築き上げられるようになった。

②こうして、イスラエル全地に福音が伝わるようになった一方、主は、人々が想像したこともない扉を開き、新しいビジョンを示した。ピリポとエチオピアの高官との出会い、この後、異邦人宣教の柱となるパウロの救い、さらにコルネリオとペテロの出会いを通して、割礼や律法との無縁の異邦人にも信仰による神の義が与えられる、救われるという新しいビジョンを示した。それは、使徒1章8節(朗読)、またマタイ28章20節(朗読)で言われていたことであり、はるか遡って、イスラエルの父祖となったアブラハムに対して約束されたことの成就であった。創世記から示されていた救いの約束(創世記12章1節~3節)が遂に実現したのである。

 割礼や律法の背景がない異邦人でも、主の十字架の死と復活が自分の罪のためであったと信じ、悔い改める者は、神の義を受ける、救われるという信仰による義の道が開かれたことは、キリスト教会にとって新しい段階に入ったことを意味した。有名なローマ1章16節、17節(朗読)にあるごとく教会の中心は、民族、国籍、知識、経験ではなく、全世界のすべての人に開かれている信仰による義だということが明確になった。

 

 本日の箇所は、その神の御心が明白になった後、教会全体の中心もこれまでのエルサレム教会から異邦人信者が多く集っていたアンテオケ教会に移っていること、異邦人にも救いの道が開かれて、教会が大きく転換しつつあることを伝えている。

◆(本論)生き生きとしたアンテオケ教会

 ①このアンテオケ教会は、使徒11章19節以下に出ている大勢の異邦人が救われ、生まれた教会である。本日のところを見ると、アンテオケ教会の雰囲気が伝わってくる。民族や律法ではない、信仰による義が教会の中心だと明らかになった教会の新しい姿を見ることができる。新しく生まれたアンテオケ教会は、これまでの中心であったエルサレム教会と大きく異なっている。何が違っているのか。

 第一に、すぐ気づくように、教会を構成している者たちが非常にバライティにとんでいる。1節はこの教会の人々の中心となっている者たちを伝える。(朗読)民族、国籍、階層を超えている。 

名前があげられている人々を見ていくと、バルナバは、よく知られているようにエルサレム

教会の有力指導者であり、警戒されていたパウロを引き受けた人物である。すべてを主にささげ、人を偏りみることがないバランスがとれた人物であった。このバルナバの名前が真っ先にあげられていることには意味がある。昔からの考えにこだわらない、教会において大切なのは、個人の信仰であることを表している。続いてニゲルと呼ばれるシメオンが出ている。このニゲルとは、肌の色が黒い人のことである。ユダヤ人とは明らかに違う民族である。アンテオケ教会では、このニゲルであるシメオンが教会の柱の一人、重要な存在であった。それはどの民族にも開かれているという教会の姿勢を示している。続いてクレネ人ルキオ、このクレネ人とは遠く離れたアフリカ、エジプトにある街である。それは出身地域にこだわらないことを示す。さらに国主ヘロデの乳兄弟マナエン、ヘロデ王と乳母が共通であった人である。断定はできないが、相当に社会的立場が高い人であろう。このような人も教会を代表していた存在であった。それは、教会は立場、身分に固執せず、それらを超えて、ともに主を告白し、主のしもべとなっていたことを示している。そして、最後にサウロ、パウロのことである。よく言うように、以前は激しく教会を破壊し、クリスチャンを痛めつけていたが、救われて改心した人物であるが、そのパウロが中心になっていたことは、過去にとらわれず、ただ信仰を中心にしていたことがよく分かる。

 アンテオケの教会は、これら、さまざまな違いを超えて、ただ信仰によって一致していた、まさに新しい教会であった。

 

②続いて、このアンテオケ教会がこれまでのユダヤの教会と違っているのは、ビジョンに溢れていた、宣教のスビリットにあふれた姿勢である。それは、2~3節に出ている。誠実に礼拝をささげ、断食していたこと、又、主の御心を熱心に求めていたことに対し、聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた時に、アンテオ教会の人々はただちに従い、一致して実際に熱心に祈り、送り出していることである。

 私たちはあまり意識せず、このところを読むが、実際は容易なことではない。なぜならバルナバとサウロは教会の中心的存在であり、彼らを送りだすことは、教会の思い切った決断であった。新しいビジョンによって生まれた教会であるとはいえ、アンテオケ教会は誕生したばかりであり、そこに集っている人々はさまざま違う人々であった。そんな中で、最も重要な働きをしている人たちを送ることは、聖霊の導きであるが、その背後には送る側の者たちも異邦人宣教の重要性をよく認識していたということを示している。彼らにとっては自分たちのことよりも、まだ救われていない異邦人宣教が大事であったのである。

 福音宣教の姿勢は、厳密に言うと、今まで中心であったエルサレム教会にもあったが、これまでは同じユダヤ人に対する宣教であった。それに対して、アンテオケ教会の場合は、民族や地域にこだわらない伝道、宣教の姿勢である。福音にはすべての人を救う力があることを確信していたゆえであった。

 

◆(終わりに)現代のアンテオケ教会を

  私は、新しく生まれたアンテオケ教会は教会の本来の姿を表していると思う。民族や肌の色や出

身地方、社会的立場、さまざま違うが主の福音によって一致している姿である。

 

 よく話すが、ナチスがドイツを支配していた時代、アーリア人条項という法律を成立させた。ドイツ人のルーツ、アーリヤ人以外の者は公職についてはならないというものであった。そして、ナチスはそれを教会にも適用させ、それ以外の教職者を罷免させたのである。聖書が伝える主の教会から逸脱した姿である。本来の教会は、ただ一つのことで一致しているが、その他のこと、民族、国籍、経歴などにはいっさいこだわらない。それは創世記から主が始めから伝えるものである。(創世記12章) 主はすべての教会が現代のアンテオケ教会となることを願っておられる。