変わらぬ愛

■聖書:イザヤ書461-7節      ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と、あなたをあわれむ主は仰せられる。イザヤ5410

 

1. はじめに

 『変わらぬ愛』という説教題をつけました。キリスト教は愛の宗教であると言われますが、その愛はどのようなものであるのか、もっと言えば、神様の愛がどのようなものであるのかをご一緒に教えられたいと願っています。それは単なる理論的・教科書的な「愛」ではなくて、温もりの感じられる、いわば血の通った愛です。そういうことを考えながらこの箇所を準備してきましたが、先週のキラキラの日でもある姉妹がこのみことばを出してくださいました。多くの方に親しまれている聖句ではないでしょうか。特に4節、あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。このみことばは、直前の3節と合わせて、私たち自身や、私たちを取り巻く環境は色々変わるけれども、神様の愛は変わらないんだ。変わらずにともにいてくださり、私たちを支え、導き、助け出してくださる。ということを教えています。私はここに、ともすると曖昧になりやすい、抽象的になりやすい、神様の愛の本質が描かれているように思うのです。人は変わり、できないことも多くなります。また環境に左右されやすいものです。でも変わらずに運び続けてくださるお方がおられる。疲れて歩けなくなった子供を、親がおんぶして家路を急ぐように、背負って、心から安心できるところまで運んでくださる。そんな箇所を、ご一緒に読んで参りましょう。

2.       イザヤの預言と「何に寄り頼んでいるのか」 

 本日の箇所、イザヤ書を読んで参りますが、最初にこの御言葉の背景を押さえておきたいと思います。イザヤという人物は、紀元前700年頃にイスラエルの片割れ、南ユダ王国で活動した預言者であります。預言者というのは、いわゆる未来のことを予言するというものではなくて、神の言葉を預かる者という意味です。だからそれは、きっとこうなりますという不確定な占いではなく、神様はこうされる、このように裁かれるという宣告、宣言のようなものでした。南ユダ王国は、あの世界史などでも有名なバビロン捕囚によって崩壊するのですが、実はそれが起こる前にバビロン捕囚を予告しています。しかもそれは、単なる時代の流れなどではなく、まことの神ではないものを信頼し、拝んだからだと示されています。偶像がイザヤの住む南ユダ王国にまで入り込み、神様はそれを裁かれる、それがバビロン捕囚であると告げるのでした。

 イザヤの活躍した時代、かつては一つの国であったお隣の北イスラエル王国がアッシリヤによって崩壊します。当然その強国の手はイザヤのいるユダにも伸ばされていました。アッシリヤの将軍はイスラエルを滅ぼした後、ユダ王国にやってきて告げます。「いったい、おまえは何により頼んでいるのか。」(イザヤ36:4)。こう言って、そんなわけのわからない神なんて信じてないで、この世の力、現実の力を持つ我々に従え、降伏せよと言ったのでした。この「何により頼んでいるのか」という問いかけはとても大切です。私たちも自分自身に投げかけたいと思います。この時には、民たちは神様を信頼することを選び、神様の守りがあって助かりますが、しかしいつまでもそうではなかった。強国は次から次に起こされていき、民たちは堕落していき、まことの神以外のものにより頼んでいきます。そんな中で裁きとしてバビロン捕囚が語られるのでした。なにやらややこしい話をしてしまいましたが、要するに、先ほどのアッシリヤの将軍が奇しくも告げたように「いったい、おまえは何により頼んでいるのか」ということが重要なわけです。目には見えませんが、これまでイスラエルの民を守り導いてこられたまことの神に信頼し、礼拝するか、それとも目に見えるものにより頼むのか。

 この出来事は今から2700年ほど昔、遠くパレスチナ地方の話ですが、しかし今日の私たちも聞くべきメッセージであると感じています。私たちが頼りにしているものは何か。私たちが、私たちの歩みを支えていると感じているものは何でしょうか。しがみついているものはなんでしょうか。実際の宗教的な神々ではなくても色々なものを心の中心に置いているように思います。お金や地位、肩書き、学歴というものが価値観の多くの部分を占めていますが、それもまた一つ、私たちを振り回す偶像となります。こうしたものがすべてである、これさえあれば幸せである、成功であると私たちの目を惑わすのです。実に色々な偶像があるのです。しかし、それは本当に私たちを救いうるものなのでしょうか。私たちはそれによって幸せになれるのでしょうか。

 

 そのようなことを踏まえながら、本日の箇所、1-2節を、もう一度お読みします。「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。少し説明が必要な箇所です。ベルはひざまずき、ネボはかがむ。ベルもネボも、バビロンで信仰されていた神々の名前です。ベルが太陽神であり、ネボはその子どもで学問の神様とされていました。この信仰はバビロンの歴代の王とも密接に関わっていて、有名なネブカデネザルやベルシャツァルといった王たちも、この神様の名前を使っていました。その勢力は強大で次々に周辺国を倒し、領土を拡大していきます。その背後には、バビロンの神々の力があったと信じられていたのです。彼らの拠り所であったと言っても良いでしょう。戦いの時にはこの偶像を戦場に運んだと言われていますから徹底しています。彼らがより頼んでいるのはこれらの偶像だったわけです。ところがここで言われているのは、彼らの力の源、彼らを守り、戦いに勝利させてきたと信じられていたこれらの神々はひざまずき、かがむ。敗北すると言われていることです。敗北するだけでなく、逃げるバビロンの民の重荷となり、人々を助け出すどころか、人々に連れていかれると言われているのです。立てられていた像は倒され、ただの荷物として運ばれて行く。

 

3.       運ばれる神と運ぶ神 

 そんな運ばれて行く偶像と対比して浮かび上がってくるのが、真の神様の姿です。3-4節をお読みします。わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家の、すべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。人々に運ばれて行く荷物に過ぎない偶像に対して、人々を運び続ける神様の姿が描かれています。胎内にいる時、生まれる前から、しらがになってもと、人の生涯のどこにあっても同じようにすると言われています。胎内にいる時、生まれる前から運ばれた者という言葉をとりわけ強い思いで読んでいました。胎の実を宿した母親は、本当に色々なことに気を配り、この小さな小さな命を守ります。その体はいろいろな痛みを覚えますが、それでもその命の誕生を待ち望むのです。神様もそのようにして私たちを運んでおられるんだ、ということを改めて思わされています。人は変わります。今見たような年齢の変化で見ても、これまではできていたことが、年を重ねてできなくなるということも多いわけです。時にそれに失望し、さらに先のことを考えて絶望している方は多いのではないでしょうか。先ほど私たちにとっての偶像、より頼んでいるものの話をしましたけれども、例えば力や能力といったものにより頼むということもあるでしょう。また、人が人を、そのような価値観で判断するということも多くあります。そうした人は、これらの信頼していたものが失われて行く時に希望を失うのです。私たちにたくさんの愛を注ぎ、それこそ実際におぶってくれた両親や家族というのは大切な存在です。それは確かですが、いつでも、いつまでも、どこでも、ともにいられるものではありません。友人や知人といった人々も同じです。決していてもいなくてもいいということを言っているのではありません。その存在は大きな力であり、慰めであり励ましです。しかし、必ず失われて行くものであるということも事実なのです。死の間際などを考えれば、財産や肩書きがなんの役にも立たなくなるときがあります。そうした時に、私自身が拠って立つところ、私の中心はなんなのだろうと考えざるをえないのです。

 

 そんな中で、この4節は、力強く「わたし」ということを繰り返します。ひらがなで書かれた「わたし」 は、神様がご自身を指して言っていることばです。この短い1節の間に5回も登場していますから、明らかにここを見るようにと言われている。これは原文ヘブル語でもそのように書かれています。あなたがたがより頼んでいる目に見えるところ、様々な偶像は倒れ、あなたを助けるどころかあなたを苦しめる重荷となっている。そんなものを中心に置いていてはいけない。本当により頼むべきは、わたしである。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。それは自分に従う信仰者を獲得しようと、わたしだわたしだと猛アピールしているのではなく、ここにしか私たちの救いはないということであります。言い換えれば、神様の方はいつでも私たちを救おうとしてくださっている。一人で苦しんでいると思っている私たちの信仰の目を開かせ、あなたは一人でははない、私がともにいる。あなたがどんなに変わったとしても、あなたの環境がどれほど困難であったとしても、わたしは変わらずにあなたを背負い、あなたを救い出す。そのような愛に溢れたメッセージなのです。

 そのようなご自身を明らかにされた上で、再び5-7節では私たちがより頼んでいた偶像はどのようなものなのか、無残な姿が語られています。わたしを誰になぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩に担いで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。自分たちの手で作ったものに、自分たちが救えるだろうか。生活の助けになるものは生み出すことができても、私たち自身を救い出す、本当に解決されなければならない問題を解決することはできない。そんなことはできるはずがないのです。

 しかしこう考える方もいるかもしれません。「いやいや、偶像にではなく、神様にお祈りしていても少しも悩みは解決されない、救ってくれないじゃないか。神様が背負ってくださると言っているけれども、現に私は一人で頑張っている。戦っているんだ。」私自身そう思うこともあります。そんな時に、思い出したい一つの詩があります。ソングブックの中の賛美にもなっている詩です。アメリカのマーガレット・F・パワーズという女性が作ったとされる詩で「Footprints」というものです。日本語では「あしあと」と訳されます。

 

4.       Footprints 一人で歩いているような時も… 

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、

私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

 

 足跡が一つしか見えない時、私が一人で、神様の助けも得られずに苦しみの日々を生きていると感じている時がある。でも、そんな時でさえも神様はともにいてくださり、私が自力で歩いていると思っていた道は、実は神様が背負ってきてくださったんだ。今もなお、背負ってくださっているし、これからも、変わることなく背負い続けてくださるんだ。それに気づいたクリスチャンの詩です。

 

5.       まとめ  

 もう最後にしますけれども、本日のイザヤ書は、バビロン捕囚が起こる前にバビロン捕囚のことを預言し、さらにそのバビロンでの苦しみから解放される、回復の日が来ることを預言しています。神の言葉通り、バビロンに捕囚として連れて行かれた民は、この約束されている神様のことばを思い出し、希望を持ち続けました。自らの罪を悔い改め、本当により頼むべきお方を信じて待ち続けたのです。最後はこのように閉じています。わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え。イスラエルにわたしの光栄を与える。」「わたしの救いは遅れることがない」。神様が定められた時に、この救いはもたらされます。これまでそうでしたし、これからもそうです。何度も繰り返すようですが、私たちは体も心も変わりやすく、神様の約束を忘れ、寄り頼むべきお方を見失うことがあります。一人で歩いているように思うこともあります。けれども神様は変わらない。中心聖句、イザヤ書5410節。だから私たちは、安心してこのお方に信頼し、背負われればいいのです。救い出し、なお、運ぼうとしてくださるお方は変わることがない愛を注いでくださいます。このお方の恵みを、この週も覚え歩んでまいりましょう。