罪の報酬、神の賜物

❖ローマ人への手紙6章15節~23節      ❖説教者 川口 昌英 牧師      

◆(序)この箇所について

 繰り返して話すように、主の十字架の死と復活が自分のためであったことを信じ、義とされた者は、完全な救いの中にいる。そして聖化、主の恵みによって成長する過程にいる。それゆえ、義の器として神に従う歩みをするよう勧められている。

 けれども、初代教会当時だけでなく、いつの時代にも神の恵みを曲解して、なお罪をおかしても良いという考えが根強くある。律法に縛られることもなく、裁かれることもなく、主から義とされるという恵みが与えられているのであるなら、自分の思う通りに生きたら良い、それが罪の行為であっても構わないと考えるのである

 明らかに、義とされることの意味の曲解にほかならない。著者パウロは、そういった理解がいかに重大な誤りであるかを示すために、本日の箇所において、10回も奴隷ということばを使用しながら、特別な立場にあった奴隷の例を用いて丁寧に語っている。

 新約聖書で言う奴隷は、私たちが思い浮かべやすい、近代、アフリカから強制的に連行した肌の色が違う人々ではなく、戦争に敗北し、戦利品として連れて来られたり、同国民でも経済的に没落して奴隷にされた者たちである。農業や土木工事など過酷な労働だけでなく、家庭教師などを行った者もいたが、人格を認められず、財産と看做されていた、ローマ社会の最下層に置かれた者たちであった。パウロは、いくつかの書簡の中で触れているように、当時の奴隷の置かれていた実態を知っていた。仕える主人によって奴隷の状況が全く異なることを知っていた。奴隷を思う気持ちを一切持たない主人のもとにいる奴隷と奴隷を思う気持ちを持っている主人のもとにいる奴隷の違いを知っていた。主人の善し悪しによって奴隷の人生が大きく変わる姿を見ていた。 

 

 そんな奴隷の姿を思いながら、主の十字架と復活が自分のためであったと告白し、義とされた者は、もはや、不安と恐れに陥れる、罪責と後悔の念ばかりをもたらす罪の奴隷ではなく、反対に、人生に喜びと希望をもたらし、生きる目的をはっきりさせる神の奴隷として歩みなさいと勧めるのである。現代の私たちにとって奴隷ということばは、良いイメージはないが、パウロは、良い主人のもとにあって大切にされ、主人を心から慕い、従っている姿を思い、同じ奴隷でも全く違うようになっている姿を思いうかべながら、義とされたあなたがたは神の奴隷、しもべとして歩みなさいというのである。

◆(本論)罪の奴隷、神の奴隷

①ここにおいてパウロは、神のしもべとして生きることの大切さを明らかにするために、はじめに罪の奴隷として生きていた時の姿をとりあげ、その状態とそういった生活の結果を示し、再び、悲惨に陥れる罪の奴隷になってはならないと強く言う。

 最初に、その罪の奴隷、完全に支配され、従っていた姿について、それは「死にいた」るものであったと言う(16節)。死後、永遠の滅びにつながる裁きを受けるだけでなく、羊飼いのもとから離れた羊が飢えや渇き、野獣の攻撃など常に不安、恐れ、死の危険の中にいるように、本来の生きる喜びや平安を少しも持てない状態であったことを明らかにする。

 続いて、それは「自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進」んでいた姿であったと指摘する(19節)。律法、最も分かりやすいのは十戒であるが、それらに違反することばかり、神との関係だけでなく、人との関係においてもみこころにそむくことばかりであったと断言する。さらに「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由に振るまっていました。」(20節) と指摘し、神の義、神様との関係について自分の思いのまま考えていたと言う。 神が基準ではなく、自分が基準になっていたのである。これこそ罪の本質である的外れの状態であった。 

 これらを確かめたうえで、パウロは、罪の奴隷として生きることについて、「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらの行き着く所は死です。」(21節)と言い、そして「罪から来る報酬は死です。」(23節)と、罪の奴隷であることは、絶望、死をもたらしていたと明言する。

 真の救いを得るために、私は、信仰において、この罪認識が一番重要であると思う。しかし容易ではない。特に、天地その中にあるものすべてを造られた創造主を信ずることを愚かとする現代に生きる者にとって、又、さまざまな宗教が溢れているが、すべては人間を中心とする考えに行き着く宗教にたどりつく日本社会のような風土においては、とりわけ困難だと思う。確かに、自分の行って来たこと、又内側深く、中心にあるものを見つめるならば、何かおかしいということに気づくが、すぐに自分がこうなったのは環境が悪い、廻りの人が悪い、或いは自分だけでないという考えが湧いてくる。近代思想は、神などいない、人が中心であり、基本であることから、自分が人本来の生き方をしていないという罪人であるという指摘は容易に受け入れられないのである。

 このように自分が罪人であること、そして実は罪の支配の中にいる奴隷であることを、人は受け入れないが、みことばは容赦ない。自分がどう思うのか、風土、文化がどうかではなく、上述のごとく、罪の中にいて、罪の奴隷となっている姿をさらけ出し、創造主を否定し、自分を中心とする生き方から何か良いものを得たかと問うている。そして、放蕩息子がそうであったように、罪から来る報酬は死であると結論づける。それは砂漠の中に水があるように見えて、近づくと何もない偽オアシス、逃水を頼りとしている生き方であると断言する。

②そのような罪の奴隷となっていた姿と比べて、義とされた今の状態は、罪のように人生を蝕み、価値なきものにする悪い主人ではなく、生きることに喜びと平安をもたらす良い主人である神のもとに移っている姿であると明言する。それは「従順の奴隷になって義(の生涯)に至る」状態と言う(16節)。  自分の罪を認めて心から悔い改め、ともにおられる主の守りと支えのゆえに情欲や誘惑に支配されることがなく、主のみこころに従うことを喜ぶ、義の奴隷として主に喜ばれる生涯であると言う。愛されている、救いの恵みを受けたことが心底分かった時に、人は心から変えられる。ザアカイが主イエスに発したことばにこの状態が現れている(ルカ19章8節)。むりやりではなく、主の救いを受けて心からそうしたい、主に従って行きたい、心の底からそうしたいと思ったのである。

 そして結果として「今は、罪から解放されて、神の奴隷となり、聖潔に至る実を得」ている(22節)、又賜物として「私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」が与えられている生き方と言う(23節)。 聖潔に至る実を得る生き方とは、ガラテヤ書5章22節~23節に記されている聖霊の実を結ぶことができる姿である。人間的に立派な人という意味ではない。心底、生きることが喜びとなり、神を愛し、隣人を愛することが喜びになることである。永遠のいのちを持つ人生である。

◆(おわりに)恐ろしい主人か、恵みの主人か、どちらのもとに生きるのか

 結局、人はどちらかである。罪の奴隷か、神の子として神の国に生きるか、どちらかである。その違いは何か。表面的なものではない。罪は、巧みに偽装する。創世記3章のように、自由があり、喜びがあるように思わせる。しかし、そのもたらすものは、恐れ、死である。

 

 救われた者は、もはや惑わされてはならない。私たち一人ひとりのために御子をさえ惜しまずに十字架に渡された方から何があっても離れてはならない。実際の信仰生活については、親と子の関係を用いると分かりやすい。厳しくせず、ただ自由にさせる姿と、子供を愛するがゆえに必要に応じて厳しくする姿では、自由にさせる方が良いように見える。しかし、それは子供のためになるように見えて、子供の人生をだめにする。神は、厳しいように見えるが、私たちの存在を認め、人生や永遠に良きものを与える方である。神を無視する者たちの誘いに惑わされず、豊かな恵みを受けた者として、日々神のしもべとして歩みましょう。