祈りの力

180909礼拝説教(聖餐式)

■聖書:出エジプト記178-16節  ■説教題:『祈りの力』

■中心聖句:主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。(詩篇914節)

 

本日の箇所は、これまでになかった危機がイスラエルの民を襲います。それが、他民族であるアマレクの攻撃でした。これまでエジプトから逃げ出して来た彼らが、飲み水や食べるものに困ることがありました。しかし、実際に攻撃されたということはありませんでした。その理由の一つには、民たちを導く神様の配慮があります。13:17 パロがこの民を行かせたとき、神は彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」民たちの心をよくご存知だった神様は、あえて約束の地までの最短ルートではなく、回り道をさせるのでした。子供の成長段階に合わせての教育ということは今日でも大切にされていますが、神様もそのようにされるお方です。決して十把一絡げに取り扱われるのでは無くて、私たち一人ひとりを見て、それぞれに必要な道を通らせられるのです。与える食べ物にしても、赤ちゃんには乳が必要ですが、大人になったら固い食物を食べさせる。そのようなお方が、かつてのエジプトを出たばかりの時には遠回りをさせてまでして戦いを遠ざけられたのでした。

 ところが、本日の箇所では、アマレクが戦いを挑みます。それも正々堂々の真っ向勝負ではなかったようです。この時の状況は、のちにこのように言われていました。申命記25:17節からお読みしますと、「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたの後ろの落後者をみな、切り倒したのである。」エジプトから神の奇跡によって助け出された民、神の民である事を知った上で、神を恐れる事なく、襲いかかって来た。しかも民が疲れ弱っているとき、さらにその中でも群れから離れた弱い羊のような者たちを襲うように攻撃をして来たのです。アマレクというのはシナイ半島の南にいた、好戦的な民族であったと言われています。遡っていけば、あのヤコブの兄弟エサウの子孫です。ヤコブという人はイスラエルの名前の元になった人物ですから、まあ何かと因縁深い相手であると言えるでしょう。ここでの戦いの後にも、サウル王やダビデ王の時代、やはりイスラエルの敵として名前が出て来ますし、さらに申しますと、先週の祈祷会で開かれたエステル記、イスラエル民族を滅ぼそうとする高官ハマンと言う人が出て来ましたが、彼もまたアマレク人だと言われています。とにかく、そのような民族が、自分たちの領域に入って来たイスラエルの民たち、エジプトでの長い奴隷生活で戦い方も武器もほとんど持たないようなイスラエルの民を攻撃して来たのでした。

 

1.「祈りの戦い」 …三つの役割

 この危機は、これまでになかった種類のものであると先ほどお話ししましたが、それに対して、どのように立ち向かっていくのか、ということも、これまでには見られないものでした。この危機に直面した時、彼らはどうしたのでしょうか。9-10節、モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て言ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言った通りにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。これまでなんども神様に呟いて来たイスラエルの民たちでした。それに対してモーセが神様に祈り求め、神様が解決を与えてくださった。もう少し突っ込んで言えば、あのエジプトの地でエジプト王パロと対決した時も、海を割って乾いたところを歩き出てきた時も、その後の旅で水やパンや肉が与えられた時も、イスラエルの民たちは何もしていないのであります。どの道に進むかの進路の選択さえしていません。雲の柱、火の柱がいつも彼らの前にあり、それについて来たのです。いつでも神様が彼らのために戦われ、民は注がれている恵みを両手で受けるだけでよかったのでした。

 しかし本日の箇所で、モーセはヨシュアに、武器を取って戦うようにと命じます。もちろんこの背景には、神様がモーセにそのように示されたと言うことがあるのでしょう。これまで回り道をさせて、戦いを避け、安全な道へと導かれた神様ですが、何もないところでさえ水とパンと肉を与えて彼らを養い、力を与えられたお方は、いよいよ現実に直面する問題に対して戦うようにと命じておられるのであります。それぞれに必要な道を通らせられると言う事を先ほどお話ししましたが、私たちの信仰生活においても、私たちが進んで困難と戦わなければならない時があります。神様はできるだけ安全な道を通してくださいますが、しかし確かにサタンの攻撃はあり、私たちが戦わなければならない時があるのです。本日の箇所でもそうでした。しかしそれは、私たちの戦いでありながら、神様抜きの戦いではありません。神様の手が届かないから戦わなければいけないのではなくて、神様と共に戦うのです。本日の箇所、実は戦いの場面では神様の言葉や奇跡のようなものは一切出ておりません。けれどもこれは確かに、信仰の戦いでした。それは、ここに祈りがあるからです。この戦いにおける三つの役割を続けて見ていきたいと思います。一つ目はヨシュア、二つ目はモーセ、そして三つ目は、アロンとフルによる役割です。それぞれ見てまいりましょう。

 

① ヨシュア

 一人目は実際に戦場で戦うヨシュアです。神の民を怯えさせ、神から引き離そうとするアマレク人に対して、戦わなければなりませんでした。この時モーセはすでに80歳を過ぎていましたから、若いヨシュアを戦いの指導者として立たたせ、やがてこのヨシュアが、イスラエルの民たちを約束の地に導く器となります。先ほども申し上げましたように、私たちの現実において戦わなければならない事があります。もちろん実際に武器を持っての戦いではなく、私たちの日常におけるサタンとの戦い、霊的な戦いです。神様から私たちを引き離そうとするサタンの力は現実に多くあります。神様がいると知っていながらも恐れ不安になることもある。そんなときに、神様を信じているからと言って何もせずに指をくわえて待っていることが、決して信仰的なのではないのです。自分自身の戦いもそうですが、そこに苦しむ人がいるなら、その人のために戦うと言うことも必要になります。また、この世の罪に囚われている人々を積みの束縛から勝ち取るという伝道の戦いへとも召されています。ヨシュアと言う名前、これは「主は救い」とか「主は救う」という意味です。クリスマスの劇で幼稚科の子供達が元気に歌うのを思い出していましたが、これは新約聖書では「イエス」という名前です。イエス様もまた悪霊と対決されました。神の言葉を捻じ曲げて、人を誘惑する悪霊との戦いです。それは世から退いての戦いではなく、現実の困難、日常の苦しみの真っ只中に入っていき、現実に苦しむ人、悲しむ人に手を伸ばす戦いでもありました。その戦いは、病の人を癒したり、罪人を許し受け入れたり、神の国を宣べ伝えたりと、様々な形で表されています。私たちもまたこのお方に倣う者であり、戦う者でなければなりません。パウロもまた、神の武具を身につけるようにと言います。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:11-12)。このような戦いが私たちにも迫られているのだと言う事を、まず最初に覚えておきたいのです。

 ただこれは、私たちの戦いですが、人間の力により頼んだ戦いではありません。この信仰の戦いの背後には、いつも祈りがなければならないのです。続けてモーセの役割について見てまいります。

 

② モーセ

 本日の箇所で大切なのは、現実に戦うヨシュア、以上に、その背後にはモーセの祈りがありました。11-13節をお読みします。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。明らかに、このモーセの手の上下によって戦いの状況が変わったと言うように書かれています。手をあげると言うのは、祈りの姿勢を表しています。祈りの人であったダビデは、その詩の中でこのように歌っています。神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。…あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります(詩篇63篇)もちろん祈り方はこれだけではありませんが、やはり本日の箇所での手をあげると言う言葉は、祈っていたと見るのがよいでしょう。現実に剣を持って戦うヨシュアと、神の杖を持ち、手を高く掲げて祈るモーセ。このどちらもがなければなりません。新約聖書の使徒たちも「絶えず祈りなさい」と勧めています。先ほどのエペソ書、神の武具を身につけよと言う箇所でも、すぐ後には、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」「忍耐の限りを尽くし、祈りなさい。」と言われています。この戦いは祈りの戦いでもあるのです。

 しかし私たちはこの祈りを辞めてしまうことがあります。日常の忙しさの中で、また、祈ることよりもしなければいけないことがあるんじゃないかという焦りの中で、祈りの手を降ろしてしまうのです。しかしそれは、神の戦いにおいて致命的なことになります。私は本日の箇所の備えをする中で、この祈り続けることが様々な理由で難しい私たちであるということと同時に、そんな私達に助けが与えられていると言う事を、改めて気づかされました。それが三つ目の役割を果たす、アロンとフルの存在です。

 

③ アロンとフル

 ヨシュアが剣を持って戦い、モーセが神の杖を持って祈る。そしてその祈りを支えるアロンとフルという人物がいました。アロンというのはモーセの兄ですが、フルと言う人については詳しいことがわかっていません。ちゃんとした形で名前が出てくるのはここだけです。しかし、祈りを支えると言う意味ではとても重要な役割を果たしている人物だと言えるでしょう。祈りの重要性をわかっているからこそ、彼らは他のことではなくこのことに専念しているのです。自分で祈れないときがあります。祈りの戦いというのは簡単ではないのです。ある意味では現実で戦うヨシュアよりも、多くの試みを受けると言うこともあるでしょう。モーセは老齢のゆえに、その祈りの手を降ろしてしまったようですが、先ほども申し上げたように、本当に様々な力が、私たちの祈りを妨げようとします。しかしそんな中でモーセの祈りの手を支えた二人、言い換えれば、モーセの祈りを支え、モーセとともに祈りの戦いに加わった二人の人がいました。彼らは私たちにとっての祈りの友と言ってよいでしょう。ここにこそ、弱い私たち、わずかな時間でも祈ることができない私たちが、信仰の戦いを戦い抜く秘訣があるように思うのです。

 先日もキリスト者学生会の夏期学校がありましたけれども、私自身が学生自体、そのような信仰の友、祈りの友に出会えたと言うことは大きな力であると感じています。先ほども言いましたが、自分が祈れないときでも祈ってくれる友人がいる。それは決して当たり前ではないと思うのです。ふとしたときには祈ってくれている友人の顔を思い出し、自分も祈らにゃと励まされます。この金沢中央教会に遣わされてきて、さらにその思いは強められています。祈祷会で祈りを共にさせていただくとき、自分の務めが本当に多くの方の祈りに支えられていると強く思わされていますし、私もまず祈りをもって支える者でありたいと、思いを新たにさせられます。祈りには力があるのです。それを信じているから、私たちは真剣に祈る。自分のためだけでなく、自分では祈れない兄弟姉妹のために、祈る相手を知らない多くの方々のために、とりなし祈ることができるのです。

 そしてその祈りは、現実の力となり、アマレク人を退け勝利を得るのでした。これが神の戦いである事を皆がわかっていました。実際に戦っていた俺たちの手柄だなどとは誰も言いません。15節。モーセは祭壇を築きました。これは礼拝をささげたということです。この戦いは主の戦いであり、主は祈りを聞き、勝利を与えてくださった。そこに感謝の礼拝を捧げているのでした。

 

2. まとめ

 もう最後にしますけれども、本日の箇所では、モーセの祈りの内容は出ていません。しかし、モーセが残したとされる詩篇をお読みして終わりにしたいと思います。本日の中心聖句にもさせていただきました詩篇91篇をお開きください。標題がありませんので、正確には誰による詩篇なのかはわかっていません。また直接の祈りの言葉ではありませんけれども、私たちが祈る相手はどのようなお方なのかを教えている詩篇であります。詩人が自分を言うところは漢字で「私」、後半、神様がご自身のことを指して言うときはひらがなで「わたし」とあります。祈りは神様との会話だと言われますが、それが現れているようでもあります。漢字は「わたくし」と読んで区別しながらお読みします。詩篇91篇。

 私たちはこのお方の暖かい御腕の中に抱かれて生かされているのです。このお方に信頼して祈り、日常の戦いを戦うことができる。それを今朝共に味わいたいと思いました。この夏は本当に様々なことがありました。とりわけ、自然災害の被害の大きさを前に、どのように祈れば良いのかわからないことも多くあった。祈ることしかできないけれどもと言う言葉も多く耳にします。けれども、私たちはこの祈りには力があると言う事を確かに信じ、大きく祈り、私たちに与えられている地上での役割を果たしていきましょう。