私たちはここに立つ

❖聖書箇所 イザヤ37章33節~35節   ❖説教者 川口 昌英 牧師

 

◆(序)この箇所について

①イザヤが預言者として召され(6章)、用いられたのは紀元前740年頃から約50年間である。その後半、母国ユダは、一帯に勢力を伸ばして来た大国アッシリアによって、存亡の危機にさらされた。姉妹国、北王国イスラエルは、すでに紀元前721年、アッシリヤによって滅亡していた。アッシリヤ王、セナケリブは、さらに勢いづき、ユダの国に攻め入り、主要な町々を陥落させ、中心地エルサレムに迫った。エルサレムは陥落寸前であった。

②イザヤは、この危機的状況の中で預言者として神の御心を王や民衆に伝えた。どれだけアッシリヤの力が強くても、主を信じ、従うなら、主がユダを守り、これを退ける、あなたがたはただ主に信頼せよと語り続けた。イザヤは次のように語った。

・「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。』30章15節

・「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来てあなたがたを救われる。』」35章3節、4節 

 しかし、ユダの民たちは、イザヤが語った神のことばに従わなかった。反対に、エジプトに逃げようとするなど人間的画策によって、生き残ろうと必死になった。

 

 本日の聖書箇所は、勢いに乗り、攻撃するアッシリヤの将軍に見られる力を誇る者たちと、イザヤが語る主のことばに立つ生き方が対照的に示されているところである。

◆(本論)残るのはどちらか

①攻撃者の言葉は鋭い。

・アッシリヤの将軍(ラブ・シャケ)は、力を誇り、ユダの高官たちに次のように言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何により頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれにより頼んで私に反逆するのか。」36章4節、5節 

・「おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救いだしてくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。ハマテやアルパデの神々(異教の神々)は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々(同じく)はどこにいるのか。彼らは、(その神々は)サマリヤ(北王国イスラエルの首都)を私の手から救い出したか。これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレム(南王国ユダの首都)を私の手から救い出すとでも言うのか。」36章18節~20節 と降伏を迫った。                                  

    圧倒的なアッシリア王の前には、どの神を信じていた民たちも滅んでいる、同じように、お前たちも主を信じると告白しても、何の役にも立たないし、何の力もない。そんなむなしいものに頼るよりも圧倒的な力を持つ絶大な王にひれ伏せと言うのである。

 これは実際に良く言われることばである。反対者、迫害者は、いつもこのような言動をする。生きて行くために必要なのは、現実の力、立場である、神を信じても何も状況は変わらないと言う。見えるところでは、アッシリヤの将軍、ラブ・シャケが言っていることが説得力があった。ユダの国が生き残ることは少しの可能性も考えられなかった。

②創造主は生きておられる。

 それに対して、主は、見えるところはそうであっても、主は生きて、主を信じる者の叫びを聞いておられると明らかにする。預言者イザヤを通して、強大な国アッシリヤはやがて、(罪のゆえに)自壊し、撤退するだろう(37章6節、7節)  ヒゼキヤが祈ったことに主が応え(37章15節~20節)、ユダは助けられると明言した。

 ヒゼキヤ王を始めおもだった人々は、その言葉を受け、ついに人間的に行動することをやめ、預言者イザヤを通して語られる主のことばに従い、信頼した。すると、そこに想像できなかった奇跡が起こった。(37章20節~38節)

 よく話すことだが、私にはこういう経験がある。重い病気になり、死を目前にして、恐怖を訴えた方がおられた。28年前、この教会に赴任したばかりの時であった。身寄りのない、一人暮らしの人だった。赴任して間もない頃であり、実はそれまで末期の人を看取ったこともなく、ことばが出てこなかった。しかし、その時、一つのことが心に浮かんだ。自分は何も言えないが、神の言葉、聖書を読もうと思った。それから、夜、病院のベッドのそばで、ただ、聖書、十字架の場面を読み続けた。そうすると本当にその人の表情が変わった。そして神様の愛と天国に対する希望を口に出した。ほどなく数時間して召されたが、すぐそばでみことばを通して聖霊が働かれたことをはっきり感じた。 そして、福音の力を感じた。神のことばは、重い状況の中でも働き、本当に人を変える。人の心の奥底に働くからである。それ以来、同じようなことを幾度か経験している。人を真に支えるのは罪の贖い、永遠のいのち、神の国を約束している神のことば、主イエスの十字架の死と復活であることがよく分かった。

③人は現実に起こっている客観的状態、今突き当たっている問題ばかり見る。そして、どうにもならないと落胆し、絶望的になる。そんな中で、みことばに信頼することには少しの保証もない。しかし、主に信頼して生きるなら、想像できないような道、人生が開かれるのである。 

 使徒パウロは、その理由について、次のように言っている。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8章32節) そして、自分自身の経験、クリスチャンとなり、伝道者になった後、出会ったあらゆる試練の中でも主に信頼し、豊かな慰めを受け、守られて来たと語っている。(第二コリント11章) バウロは、口から出まかせを言っているのではない。自分の経験から確信を持って語っている。

◆(終わりに)神のことばに立つ人生

   なぜ、圧倒的に見える現実の中でも、神のことばを信じることが力となるのか。 

 神のかたちを持つ者としていのちが与えられ、生かされている存在であるからであり、神のことばにはもちろん、厳しさもあるが、豊かな愛と生きて行く力が満ちているからである。

 神のことばを信じて生きることは、現実から逃避することではない。現実の中で、人の声や世間の声に惑わされなくなり、自分にとって一番大切な道を進むことである。そこに真の幸せがある。

 説教にあたって、人にとっての真の幸せとは何か考えた。それは心からの居場所が見つかることであり、そこで受け入れられていることであり、また生きる希望をもつことができることではないかと思った。それは私たちにとって、神のもとに迎えられ、神の愛の中で生きることである。 

 ある方は、四方八方が塞がれている厳しい現実の中で多くの人々の意見を聞いた。人々の意見は大体同じであった。客観的にもそうした方が良いと思われた。しかし、その方は、静かに、深く祈り、主イエスの十字架を深く思う時を持った。そして、その結果、多くの人の意見とは反対の道を選んだ。そこに光があった。壁が崩された。

 

 神のことばを信じることは、厳しさの中で、自分にとって一番大切なことにたどり着くことである。いなくなった一匹の羊を探し続け、見つかったならば大喜びをしてくださる神の愛を信じ、信頼する人生を選ぼう。人がどう見るかではない。真の希望があるかである。神様と現実を天秤にはかるような考えはやめて、私はここに立つという思いをもって生きていこう。