ともに生きる幸い

■聖書:使徒の働き237-42節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。(詩篇1331節 *新改訳2017

 

1. はじめに

 結婚式が祝福のうちに終わり、改めて教会が人生の大切な日に関わることができる幸いを感じています。もちろん結婚だけではなく、先日新しい命が与えられたことも大きな喜びです。子供たちの成長を共に感謝し、祝福を祈る児童祝福式を始め、成人祝福式やキラキラの日、同じ立場の方々と各会での交わり、それぞれの必要のためを覚え考える福祉委員会など、人生のあらゆる場所で、あらゆる人に関わっていく教会であることを思わされていますし、また人々に寄り添える教会であり続けたいと願っています。

 このようなことがあった最近、教会とはどのようなところなのだろうと改めて考えていました。そんな中で、まず今日の中心聖句となる箇所が思い浮かびました。詩篇133篇。2017版はヘブル語聖書の語順を極力そのままに翻訳して、この詩人が、歌の冒頭で喜びを爆発させていることをよく描き出しているように思います。そして、そのしあわせ、楽しさは、みなが一つになってともに生きることから生まれるものであると続けているのです。わずか3節しかないこの133篇、その終わりは「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」と結ばれています。とこしえのいのちの祝福、何か「とこしえ、永遠」と聞きますといきなり私たちの想像を超えてしまいますが、当然、私たちの地上の歩みも全てここに含まれるということです。兄弟、姉妹も、大人も子どもも、人生のあらゆる局面において、一つとなってともに生きる。そこにとこしえのいのちの祝福が置かれている。このさいわい、楽しさがあふれて歌となっているのです。では、ここで一つとなってとはどういうことでしょうか。先ほどもお話ししたように、みなが同じような人というわけではありません。大人もいれば子どももいる、青年も老人も、女性もいれば男性もいる。いろいろな立場の人がおられます。しかし同時に、一つである。

 そこで与えられたのが、本日のみことばです。使徒の働き2章には、あのペンテコステの日の出来事が書かれています。教会の誕生日ともいわれるこの日、本日の箇所でも最後の41,42節は最初の教会の姿を描いていました。その最初の教会が産み落とされた時を記述している本日の箇所から、教会とはどのようなものなのかを見ていきたいと思います。教会が生まれた日、群衆たちに何が起こったのか。三つのことを見ていきます。一つ目は、彼らはペテロの説教によって心を刺されたということ、二つ目は、心刺された彼らは「どうしたらよいでしょうか」と救いを求めたこと、三つ目はそんな求めに対して、ペテロが示した悔い改めとバプテスマです。このあと詳しく見ていきますが、これによって教会は生まれたのでありました。教会とはどのように始まったのか、一つずつ見てまいりましょう。

2. 心を刺された人々 〜罪の自覚〜

 本日の37節は、「人々はこれを聞いて心を刺され」と始まっています。直前までのペテロのメッセージに対しての、ユダヤ人たちの最初の反応が書き出されているのです。「心を刺され」という言葉は聖書中ここにしか出てこない、極めて強い言葉が使われています。何か小石のようなものが当たってコツンと震えた、とか、響いた、程度ではないのです。刺されたとありますから、それまでの心に穴があいた、あるいは「砕かれた」ということです。心に穴があくほどの衝撃を受けた彼らは、いったい何を聞いたのでしょうか。すこし遡って、ペテロの説教をざっと見ておきましょう。

 ペンテコステの日、イエス様によって約束されていたもう一人の助け主、聖霊が降りました。聖霊が下り、人々は皆違う国の言語で話し始めます。異様な光景を目撃したユダヤ人たちは、「彼らはおかしくなった、酒に酔っているのだ」と言います。対して、イエス様の弟子であったペテロは群衆たちもよく知っていた旧約聖書の預言から語り始めるのでした。群衆が目撃している出来事は、あなた方もよく知っている旧約聖書の預言の成就であることを、預言者ヨエルの書をひもとき、示すのでした(17-20節)。群衆が目撃したのは前半部分(17-18)ですが、後半部分は、「太陽はやみとなり、月は血に変わる。」と続き、世界の終わりが預言されているのです。そしてこのヨエルの預言は、さらに大切な一文が続くのです。「…しかし、主の名を呼ぶものは、みな救われる」。群衆たちが目撃したことは旧約聖書の成就に他ならない。とすれば、世の終わりは必ず来る。だから、主の名を呼ぶことでしか救われる道はないのだ。こう説くのです。しかし23節、さらに36節を見ますと、唯一の救いの道であるはずの主、待ち望んでいたはずのメシヤを、あなたがたはその手で殺したのだとペテロは厳しく突きつけるのです。それが彼らの頑なな心を刺し貫いた。彼らがイエスを十字架にかけたのは、まさにその頑なな、固い心のゆえでした。彼らはメシヤが来られることはよく知っていましたし、信じて待っていました。けれども、メシヤがこんな大工の倅であるはずがないと考えていた。弱く貧しい人々、罪人たちばかりと仲良くして、律法をこんなにも守っている自分たちの方に来ないはずがないと思っていたのです。そんな彼らの自己中心な心が、彼らの心を固くし、彼らの霊の目を曇らせ、救いのためにこられたお方を殺害したのでした。自分たちは正しいと思い込んでいるのです。本当は、「あなたはどこにいるのか」と探されているにも関わらず、自分を中心に全てを考えてしまうのです。

 私たちはどうでしょうか。私たちも、自分の勝手な思いを神様の思いに優先させてしまい、捻じ曲げてしまうことがあるように思うのです。ローマ1415節。パウロはここで、食べ物について色々な考え方があることを認めた上でこのように言っています。それがどのような立場であってもよいが、それによって兄弟の心が痛んでいるのであれば、それは明らかに間違っていると言うのです。そのあとの言葉がとても印象的です。あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」。イエス様は特定の誰かのために死なれたのではありません。イエス様の十字架を信じるすべての人を救うために、贖いとなられ、救いの道となられたのです。それなのに、あなたは、あなたの食べ物、言い換えればあなたの自分勝手な考え方のゆえにその十字架を無意味にするのか。これは本当に重い言葉ではないでしょうか。イエス様が十字架にかかられたのは、私たちを救うためでした。そこに命の道が開かれたのです。そうであるにも関わらず、その備えられた命の道を歩むことせず、なおも自分勝手な道を進んでいくならば、やはりそれはイエスの十字架、そこに表された深い愛を軽んじていることになるのです。私たちは自分がいかに間違ったことをしているのか、恥ずかしげもなく悪を行い続けているのか、いやわかっていながらも神様を悲しませ続けているのか、時には痛みを伴いながらでも気づかなければならない。そんな時、私たちの心は強く刺されるのです。そうして心が刺し貫かれる時、大きな痛みを経験します。自分の罪深さを知り、犯してしまった取り返しのつかない過ちを悲しむ。群衆たちも自分のしてしまった大きな罪を、固い心を知り、刺されました。しかしそれだけでは終わらないことをも本日の箇所は教えているのです。

 

3. どうしたらよいのですか 〜救いを求める心〜

 二つ目の群衆の反応は37節、人々は鋭く罪を指摘する説教を聞いて心を刺され、ペテロと他の使徒たちに尋ねます。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」。心刺された彼らは、すぐさま「どうしたらよいでしょうか」と尋ねたのであります。尋ねたというよりは、何が何でも救いの道を教えてもらおうと必死に求めている、すがりついているというイメージでしょうか。真剣に罪に向き合い、真剣に罪を悲しむなら、真剣に救いの道を求めることにつながるのです。

 

4. 悔い改めとバプテスマ

 そのような群衆の真剣な問いかけに対して、ペテロは二つのことを告げます。38悔い改めること、バプテスマを受けることです。心が刺され、救いの道を求めるならば、悔い改める、生きる方向を変えると言うことが必要なのです。これはバプテスマのヨハネ、またイエス様が教えられた「悔い改めて、福音を信じなさい」ということと同じです。先ほどの心が刺されたユダヤ人たちは、自分たちが犯してしまった大きな過ち、そして過ちにも気づかずに自分勝手に生きていたかたくなな心を知り、心刺されたのでした。心が砕かれた彼らは、悔い改めて生きる方向を変え、古い自分は死んで新しい自分がイエス様とともに生き始める、バプテスマへと導かれるのでした。バプテスマを受けると言うのは、悔い改めを公に告白し、唯一の神を信じて生きると言うことです。昨日の結婚式でも誓約、誓いの言葉がありましたが、バプテスマ、洗礼式でも「何を信じているのか、何を信じていくのか」という誓約をしていただきます。つまり、「あなたは何を信じているのか、何を信じていくのか」ということです。同盟教団では全部で五つの誓約をしますが、最初の三つはこのようなものです。

「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか」

「あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信しますか」

「あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか」

 要するに、唯一の神を信じ、神の前に自分が罪人であることを認め、その罪を救い出せるお方はキリストだけであることを確信しているか、ということ。さらに罪赦された者として、私たちのうちに生きて働かれる聖霊に導かれて生きることを願うのかということ。これが誓えるかどうかなのです。使徒信条も、洗礼を受ける際、自分が何を信じているかを表すものとして作られたと言われています。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子我らの主、イエス・キリストを信じず。…我は聖霊を信ず。」何を信じているのか、どのように生きるのかを誓い、洗礼を受けているのです。少し飛ばして40-41節。彼らは事実、ペテロの教えに従って悔い改め、バプテスマを受けたのでありました。

 

 以上、ペテロの説教を聞いた人々の三つの反応を見て来ました。彼らは自分の罪に気づかされて心刺されました。そこには痛みがありましたが、それでもなお「どうしたらよいのでしょうか」と救いを求める思いが与えられた。そしてペテロが示すように悔い改め、バプテスマを受けたのであります。教会の出発がここにありました。気があう仲間たち、仲良しで、何かの共通の目的を持つサークルのようなものなのではなくて、神様の前に罪を認めるところから、その痛みを覚え、悔い改めるところから教会は始まった。自分たちが嘲り十字架につけたあのお方こそ、生ける神の御子、救いのために来られたキリストであると、生きる方向を変え、このお方と共に生きていくことを願った。ここにキリストの教会が立て上げられていくのでした。

ここに「兄弟が一つとなって生きる」土台があると言えるでしょう。

 ところで38節には、悔い改め、バプテスマを受けよというとき、そうすれば与えられると約束されているものが二つあります。一つは罪が赦されるということ、もう一つは賜物としての聖霊が与えられるということです。特に聖霊について、最後に見ていきたいと思います。

 

5. 神様に名前を呼ばれているものが持つ「約束」

 さきほどお読みしました洗礼式の誓約の最後にも、聖霊に導かれて生きることを願うかというものがあります。悔い改め、洗礼を受けた時に聖霊が与えられる。エペソ書1章を読みますと、このもう一人の助け主と呼ばれるお方が、天国へ行くためには必要なお方であることがわかります。この、「聖霊が与えられる」という約束は誰と結ばれているのでしょうか?言い換えるならば、救われて、キリストのからだである教会に連なるのはどのような人なのでしょうか。39節。大人も子供も。当時、子供達は集会から排除されていました。イエス様の弟子たちでさえ子供達を追い返した。しかし、ペテロはここで子供達も神様に召されているのだということをはっきりと伝えています。神が召されるというのは名前を呼ぶということです。自力で来るのではありません。先ほどのヨエル書の最後は「しかし、主の名を呼ぶものは、みな救われる」というものでしたが、自分の力で主の名を呼び求めることができず、それどころか自分中心の考えで救いの主を殺してしまうような罪人の名前を、神様の方から呼んでくださっている。旧約と新約で神様の愛が変わったのではなくて、「あなたはどこにいるのか」とエデンの園を探し廻られる時からすでに、私たちの名前は呼び続けられているのです。

 

6. まとめ

 度々お話しすることですが、私の好きな箇所に、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい」というローマ書のみことばがあります。この言葉には「互いに一つ心となり」という言葉が続きます。それは神様に名前を呼ばれ、自らの罪深さに心刺され、主を求め、悔い改めて洗礼を受ける時に与えられます。聖霊が与えられたときに一つ心となり、ともに喜び、ともに泣くことができる。

 戦後73年が経ちますが今尚、一つとは程遠い、平和はどこにあるのかと言いたくなる現実があります。一方では、今尚悲しみや憎しみが燃え、一方ではあたかもそれを忘れてしまったかのように高ぶっている。しかし私たち教会は、主の前に真に悔い改め、一つとなって歩んでいきたい、そのために祈り続けたいと思うのです。全ての人が神様に招かれている。イエスキリストを十字架にかけた彼らでさえ、悔い改めたときに赦しが与えられ、一つになったのです。もちろん多くの欠けはある地上の教会ですが、それでも与えられている恵みに感謝し、また歩みを新たにしていきたいと願います。