聖書とは何か

❖聖書箇所  ヨハネ3章16節                    ❖説教題  「聖書とは何か」

◆(本論)聖書が伝えていること

(1)創造

 初めに神が天と地を創造した。神のことばによってすべてが無から創造された。

 最後に神は人を神のかたちとして創造した。創造のはじめは「見よ、それは非常に良かった。」人は、いのちの木と善悪の知識の木が置かれた園において、自由を持つ者として、神のもとで親しい交わりの中で生きていた。 

(2)堕落(サタンの誘惑)

 サタンの巧みな誘惑により、人は、神の命令に背いた。その結果、神との関係が断絶し、神を恐れ、身を隠すようになった。善悪の基準が自分となり、人同士の関係も壊れた。また、与えられた自然環境を欲望によって貪るようになった。

 罪をおかしたことにより、人は、創造の姿を失い、罪と死に支配されるようになった。そして、神の園から追放された。

 罪に支配された人が各地で増え、地上で悪が満ちたことに対し、神は洪水により、全世界を滅ぼした。ただ、ノアとその家族が御心にかなっていたので、箱舟を造るように命じ、ノアとその家族、決められた動物を救った。

 こうして、厳しい裁きを受けた人であったが、ノアの子孫たちは高ぶり、バベルの塔を築いた。それに対し、神は互いにことばが通じないようにし、人を地の全面に散らした。

(3)アブラハムの選び、選民とする契約、律法の賦与

 神は、そんな罪の性質を持つようになった人に対する憐れみを忘れず、すべての人の中で、創造主を信じたアブラハムを義と認め、契約を結び、その子孫を通して、全世界に神の祝福(贖い、救い)を与える約束をした。(創世記12章、17章)

 

 神はその約400年後、出エジプトをしたイスラエル民族を聖なる国民、祭司の王国、宝の民とする契約を結び、神の民としての生き方を示す律法を与えた。(出エジプト記19章)

 

(4)イスラエルの歴史

 こうして、神の民となる契約を結んだイスラエルであったが、その歴史は、全体的に神の民としてふさわしい歩みであったと言えない。繰り返し、神を忘れ、偶像礼拝を行い、神を知らない諸国の民たちと同じように生き、その結果、神の裁きを受け、北王国イスラエルは滅亡し( BC721年)残った南王国ユダもおもだった人々が捕囚され、実質的に滅亡した。(BC587年)

(5)神の約束は不変

 このように神の民とされた者たちに対し、神は、不信の者たちに厳しい裁きをなされたが、イスラエルによって全世界を祝福するという約束を撤回することはなかった。折りにかなった時に、神の人(みこころにかなった士師、王、預言者、例えば、サムエル、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、エズラ、ネヘミヤなど)を送り、神の約束に立つように悔い改めを迫った。

 中でも、何より注目すべきことは、世界の最初から救い主、メシアに関する預言を何度も告げていることである。

 メシアに関する預言は、旧約聖書に満ちている。時代も立場も全く異なる人々によって繰り返し預言されている。(最も有名なのは、イザヤ書である。)それらを一つひとつ取りあげると、実際にこの地上にこられたイエス様の誕生、生き方、最後の姿が浮かび上がってくる。

 このことは、不信を繰り返した神の民たちにもかかわらず、神の側は、罪と死に支配された人を贖うご自身の計画を破ることはなかったということである。

(6)約束の実現

  時が満ちて、ついに神は、人の罪を贖うために、約束通り、ご自分の御子を救い主として送られた。これまでの、選民であるイスラエルに与えた律法を学ぶことや行うことによってではなく、預言の通り、御子イエスによる完全且つ永遠の救いの御業を実行しようとされたのである。

 人となったイエスは、公生涯を開始し、神が初めから伝えていた罪の贖いの実現、神の国の到来を告げ、特に除外されていた人々を救いに導いた。同時に、主イエスは、これまでの宗教の指導者を厳しく責めた。御子は、行いによらない、知識によらない一方的な神の愛を伝え、救われるためにただ一つ必要なのは、罪を認め、悔い改め、神の愛を受け入れることであるとはっきり語った。しかし、その主の福音宣教は、指導者層から理解されることはなかった。彼らは、イエスという人物は、伝えられてきたイスラエルの信仰からはずれ、汚れたことを教えているとし、イエスをなきものとしようとし、ついに重い犯罪人を死刑にする十字架刑につけた。

 しかし、指導者層にとって勝利と思えたイエスの十字架刑の死は、実は、神が世界の初めから預言されていた、人の罪を贖うために計画されていたものであった。神は、人を覆っている罪と死の支配、罪より人を救い出すために、これ以上ない大きな犠牲、ご自分の愛する御子を人の罪の身代わり、人が受けねばならない刑罰の代価として、十字架刑に渡し、死に至らしめたのである。これは、使徒パウロが言うように、人にはとうてい想像できないことであった。神は、人を愛し、大きな犠牲を払ってくださったのである。

 御心に従い、十字架の死を受け、黄泉に下り、完全に罪の刑罰を受けてくださった主は、しかし、預言の通り、三日目に死より甦り、十字架の死により、罪と死に対する贖いが実現したことを明らかにした。

 この神の御子による十字架の死と復活は、人間の存在の根幹に関わる大きな変化であった。これまで、人が罪をおかして以来、人を覆っていた罪と死に対する勝利の道が、主の十字架が自分のためであったと信じ、受け入れる者に開かれたのである。

(7)聖霊降臨、教会の誕生

 神の御子が十字架を受け、復活し、罪の贖いが実現したことにより、旧約から新約の時代になったが、主を信じる者たちの力は弱かった。そのため、神は、主イエスが約束された、もう一人の助け主、三位一体の第三位格の聖霊を信じる者たちに与え、主を救い主として告白する者たちの集まりであり、キリストをかしらとする教会を誕生させ、信者を強め、教会によって福音を伝えるようにした。

 福音宣教も始めは、神の民、イスラエル中心であったが、主はやがて、少しも律法の背景がない異邦人にも救いの道が開かれていることを明らかにし、異邦人宣教が開始された。この出来事、福音、救いの道は、元々の神の民、律法の背景がある者たちだけでなく、全世界のすべての人に開かれていることが明らかになったことは、最初から、アブラハムに約束されていたことの実現にほかならない。神の真実の現れである。このようなことから今は聖霊の時代、教会の時代と言われている。

(8)再臨、終末

 こうして、罪の贖いの御業が成就し、また全世界の人々に対する救いの道が開かれ、恵みの時代となっているが、その時代も終わる時が来る、主が再び、今度は裁き主として来、すべてを裁く終末を迎える。福音書の中で、主ご自身が語り、また聖書の中で、唯一、実現していない書、黙示録が伝えている。

 黙示録は、さまざまな象徴や預言の解釈が難しくて理解するのが困難な書であるが、世界の最初について記す創世記に対応している。無から有を創る神は、すべてを裁く権威を持っていること、終わりのときに大審判を行い、いのちの書に名前が記される者が新天新地を入ることを明らかにする。時間や世界について、始まりも終わりもなく、ただ流れ、人はその中で一体化して生きるという考えを持っている者たちには理解できないが、聖書は、創造主である神の権威を明らかにしている。

 

 人を創られた神は、これまで生きたすべての人のすべてを裁く権威をもっておられる。なぜなら、人はすべて創造主である神によってて命が与えられ、生かされている存在だからである。聖書はそれを伝える書である。