いつも喜べるか

■聖書:ピリピ人への手紙4:4-7   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ44節)

 

1. はじめに

 本日の説教題を「いつも喜べるか」と、問いかけるものにしました。「いつも」に限らず、本日の箇所には「すべての人に」「何も思いわずらわず」「あらゆる場合に」などの表現がたくさん出ています。このような言葉を聞くときに、それをどのように受け止めているでしょうか。そうは言われているけど無理だよねと初めから尻込みしている自分もいます。特に一番目に掲げられている「いつも喜びなさい」という言葉を中心に今日は見ていきますが、実はとても難しいんだということを思わされるのです。喜びなさいと言われて喜べるほど、私たちの心は単純ではない。「いつも、常に、絶えず」。聖書にはこのような表現がなんども出てきます。先程お読みいただいた箇所もそうですし、時がよくても悪くても、しっかりやりなさいという言葉もあります。調子がいい時、都合がいい時には喜びなさいとかは言われていないのです。いつもという言葉を聞きながら、どこかでそれを、理想はそうだけれどというようにしてしまっている自分に気づきます。真剣に考えていたら、「いつも喜べるか」と問わずにはいられないのです。

 こういう表現に出会うとき、私は結婚式の誓約を思い出します。いよいよ結婚式が近づいてまいりました。最初から最後まで神様の御腕の中で守られ、導かれてきたお二人の大切な誓約の時であります。神様と証人の前で誓う言葉はこうです。神の教えに従って、夫・妻としての分を果たし、常に妻・夫を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなるときも、病のときも、富めるときも貧しきときも、いのちの日の限り妻・夫に対して固く節操を守ることを約束します。「常に」妻を愛し、敬い、慰め、助けて「変わることなく」など、期限付きの愛ではないのです。当たり前のように思われるかも知れませんが、これは大切なことです。そして単に時間的に無期限の愛を誓うだけでなく、「健やかなるときも、病のときも、富めるときも貧しきときも」と、どんな状況・状態であったとしても、常に、変わることなく、愛し、敬い、慰め、助けると言うことを、神と人を前に約束するのでした。こういう誓約を改めて思い出すということ、あまりないかもしれませんが、自分は今、どうだろうかと問い直すものです。いつも、どんなときにでも、これができるのか。皆さんはいかがでしょうか。

2. 喜ぶことのできない背景

 勘違いしてはいけないのですが、この手紙を書いたパウロは、ピリピの人々が素晴らしく、いつも幸福で足りないところな何一つないから「いつも喜びなさい」と言っているのではありません。今日読んでいただいた箇所の少し前、2節から読みますとこうあります。ユウオデヤとスントケという女の人たちがいて、喧嘩をしていたようなのです。しかも彼女たちは最初から仲が悪かったのではなくて、昔はパウロと一緒に、イエス様のことを伝える大切な働きをしていた。福音を広めることをパウロに協力して戦っていたのです。戦ったとありますから、ときにイエス様を伝えることで嫌なことを言われたり、攻撃されたこともあったのだと思います。それでも、手と手を取り合って励まし合い、あきらめずに伝道し続けてきた。それなのに、何があったのかは知りませんが、今ではもう一致することができなくなってしまったのでした。

 喜ぶことなんてなかなかできない状況がたくさんあります。誰かに喜びなさいと言われても、こういう悲しいことや嫌なことがあるときには、なかなか喜べないのですよね。そんなに私たちの心は単純じゃないんです。喜びなさい、と言われて、はい喜びます!とはなかなかいかないのです。この前の大雨の時もそうです。あの中で、喜ぶなんてとてもじゃないけどできない。そう考えると、私たちはなかなか喜ぶことが難しい存在なのではないかとさえ思ってしまいます。いつも何かに心揺さぶられている。いつも喜んでいるということもさることながら、6節にあります「何も思い煩わないで」という言葉も、私たちにとっては決して当たり前のことではありません。私たちは神様のことを知っていて信じていて、ついていきますと誓っていながら、このお方だけを見ていくということがとても難しいのです[1]。じゃあそんな私たちは、一体どうすればいつも喜ぶことができるのでしょうか。いつでも喜び続けることができるのでしょうか。

 もう一度、本日の御言葉をお読みします。(4-7節)その答えは「主にあって」という短い言葉にあるようです。「主にあって」という言葉は、主によってとも訳される言葉ですが、同時に、「〜の中に」という場所を表す意味もありました。そのニュアンスを感じながらこの言葉を捉えると、「主にあって」という言葉には、主の中にいるというイメージがあるのです。私は、イエス様の御手の中に私たちが抱かれているという姿を想像します。小さい子供は、お母さんの腕の中で安心して眠ります。それこそ周りがどんな状況でも、すやすやと眠っていることもあります。無条件の愛が注がれていることを知っているから、安心している。あたかもそこが自分の居場所であることを知っているように、安心しきっています。もちろんそうではない悲しい事件があることも事実ですが、しかし私たちのために命をも捨てられたお方のみ腕の中は、私たちが一切の心配を忘れて、この人で大丈夫なんだろうかという恐れを捨てて、この身を委ねることができるところなのです。そんなイメージを、この小さな「主にあって」という言葉のうちに読み取りたいと思うのです。何もないところで、カラ元気を出しなさい、いつも喜びなさいと無理に言われているわけではなく、喜ぶために、主が共にいてくださっているのだということを私たちは知るのです。喜びの理由と言いますか、いつも喜びが次から次へと湧き続ける源泉は、私たちのうちにもう十分に準備されているのだということなのです。

 

 ここでもう一度、結婚式の誓約を思い出したいと思います。常に変わることなく愛し、健康なときも病の時も、富める時も貧しいときにも、つまりどんな状況・状態であったとしても、いのちの日の限り固く節操を守る。このような約束でした。やはりここでも、本日のピリピ書と同じくいつでも、どんなときでもとあります。節操を守るという言葉は難しいですが、辞書を引きますと、「物事に対する考え方や相手を思う気持ちなどを固く守って、他へ移さないこと」とありました。「心を他に移さない」ということが肝心なのです。向けるべき相手にだけ向ける、と言ったほうがいいかもしれません。これは創世記で女が作られた時、「ふさわしい助け手」として作られたとこととも一致します。その「ふさわしい」とはまさしく「向き合う」と言う意味でした。さらに助け手とは単なるヘルパーや補助係ではなく、他の箇所では「神は我助け」というような場面で、神様について使われています。ですから、単なる欠けを補うのではなくて、本当にその人を生かす、その人生を彩り祝福する存在として言われているのです。互いが互いにとってそのような存在として、向き合っている。神様が出会わせ結びあわせてくださったのです。そんな相手から、他へ心を移さないことこそ、誓約される「節操を守る」ということなのです。この誓約でもやはり、この約束は何もないところに与えられたものではないということを覚えたいのです。

 これは結婚にかかわらず、すべてのクリスチャンに当てはまる教えでもあります。結婚を教える大切な箇所としてエペソ書5章があります。一箇所だけお読みしますけれども、夫が妻を愛することを教える箇所ではこのように言われています。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。夫が妻を愛する見本は、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた、あの十字架の愛なのだというのです。少し言葉を変えるならば、その愛を知っている者こそ、本当に愛することができるのです。何もないところからしぼり出せというのではない。だれかを愛するために必要な愛は、すでにイエス様から教えられ、与えられているのです。それを、向き合うふさわしい相手から他へ移すことなく、ささげ続けることが結婚式の誓約であり、そして私たちが、イエス様から他に心を映すことなく、このお方を愛し続けるための土台であると言えるのです。

 しかし一方で、そんな注がれている恵みにも関わらず、別のものを見てしまうということが多くあるのだということも知らなければなりません。「固く節操を守る」という誓約についてみましたが、正反対の言葉に「二心を持つ」というものがあります。いやそれが、罪人である私たちの大きな問題であるといって良いとおもいますし、それこそが、私たちが「いつも喜んでいる」ことを妨げているものであると行って良いでしょう。二心、文字通り二つの心を持っているのであり、聖書ではそれが罪であると教えられています。山上の説教でイエス様は語られました。(マタイ6:24)。本当に大切なものは一つだけであるのに、他のものに目や心を奪われてしまっている。他のものも並び立ててしまっている。それは私たちが本当に多く犯してしまう罪であると言えるでしょう。イエス様の愛を注がれていながら、その愛に気づいていながら、時にたくさんの感動を受けながら、しかし、そのお方だけを見ることができない。向き合うべき相手と向き合うことができない。ついつい他の魅力的なもの、自分の計画や自分の願いにとらわれてしまう。そんなことはないでしょうか。それこそが、十分なものが与えられているにも関わらず、いつも喜ぶことをできなくさせてしまうのです。

 

3. 「いつも喜ぶ」

 本日の箇所に戻りますが、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」このことも同じなのです。喜びから目をそらさせるもの、喜びを忘れさせてしまうものがある。向き合うべきお方と向き合わず、その御腕の中に招いてくださっているお方から引き離そうとするものがあり、私たちの中にある罪がそれを見えなくさせようとしているのでした。

 ここでの喜ぶという言葉。改めて喜ぶとは、何でしょうか。聖書の中でも旧約聖書で247回、新約聖書で137回と、繰り返し語られているものであることからも、聖書を喜びの書と言う人もいるそうです。中でもパウロと言う人物を考えるならば、それはひときわ輝きます。それはパウロが暴行され、石で打たれ、激しいむち打ちをくらい、痛めつけられた。そればかりか自由を制限された獄中にいることを余儀なくされた人物だからであります。今まさに、この手紙を書くパウロは牢獄の中にありました。自由がないこともさることながら、これから自分がどうなっていくのかもわからない状況です。にもかかわらず、彼は喜ぶことを勧めるのです。彼は、彼にできないことを勧めているわけではありません。喜びの書と呼ばれることもある聖書の中で、さらにこのピリピ人への手紙は喜びという言葉が至る所にちりばめられています。2:18「あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」同じように、いっしょに。喜びをともにしてほしいとパウロは願うのです。パウロは困難な中でも喜んでいました。そして自分だけが喜ぶのではなく、和解が必要である、不一致という大きな痛みを抱えるピリピの教会とも、いっしょに喜び合おうではないかと歌うのです。それに必要なものは十分に与えられている。私たちはともにイエス様の御腕の中に抱かれている。時間が経てばなくなってしまうような喜びではないのです。状況が変われば、喜べなくなってしまうような程度の喜びではないのです。

 

4. 主を喜ぶことが力となる

 改めて、なぜパウロはそんなことを勧めているのかを考えて終わりにしたいと思います。ピリピの教会は確かに信仰に厚い教会であり、多く良い模範的な教会として取り上げられていましたが、彼らに何の落ち度も問題もなく聖人たちのきよい交わり、喜びやすい状況にあったわけではないのです。それどころか、すでにお話ししてきたように大きな困難を抱え、喜ぶことが難しい状況があった。であるならば、なぜ喜ぶことを勧めるのでしょうか。それは冒頭からお話ししていますように、ピリピの教会、そして私たちが、大きな困難の中にあってもイエス様の愛を注がれているからに他ならないのです。パウロ自身がそうでした。使徒と呼ばれる資格のない者、すべての聖徒の中で最も小さなもの、さらにはすべての罪人のかしらであるとまで告白したパウロ。しかしそんな彼自身が、そんなちっぽけな者にも変わらずにいつも注がれ続ける神の愛を知り、イエス様の御手の中にいること、主にあることを知ったのであります。だからこそ、いつも喜んでいられる。

 そして、この主を喜ぶことこそ、現実を生きる私たちの力になるのです。ネヘミヤ8:10は、バビロン捕囚から帰って来た民たちが悲しみに信ずんでいる場面です。そんな中でネヘミヤは言います。2017年版でお読みしますと「…今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だから。パウロがそうであったように、どのような状況であっても主を喜ぶことこそ、あらゆる状況でも希望を生み、天国までの地上での道のりを走りきる力になるのです。この箇所は、何がなんでも喜びなさい、喜びを絞り出しなさいというのではなく、どんな状況であっても喜ぶことができる、それに十分なものが与えられている、ということを教えている箇所であります。神様以外のものを見せようとする力が、私たちの内にも外にもたくさんあります。そういうものを見てしまうときに、いつも、どんな時でも喜ぶことなんてとてもじゃないけどできないことはあります。しかしそんなときにこそ、覚えたいのです。いつも喜びなさいと言われる神様が、何よりも先に私たちのことを愛し、恵みを注いでくださっています。喜びの源泉はすでに私たちに与えられているのです。どんなときにも喜ぶことができるだけのものが与えられている。この恵みに感謝し、力をいただき、また新しい週の歩みを始めてまいりましょう。



[1]これは、私たちを思い煩わすものは何もない、という意味ではありません。そんなのは、それこそ私たちが天国に行った時にやっと実現することでしょう。やはり私たちの周りには、私たちの心をざわつかせる様々なものがありますし、私たちの内にも、そのような様々なことで思い煩ってしまう弱さが依然としてあるのです。思い煩うと言う言葉は心配するとも訳されます。ルカ10章では有名なマルタとマリアと言う姉妹の話が出てきます。忙しく立ち回るマルタは、何もしないでイエスのもとで話を聞くマリアを怒り、イエス様に注意するよう訴えました。しかしイエスは言われます。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」この「一つだけのこと」から目をそらす時に、心配し、思い煩うということができます。神に心を向けることが大切なのであるし、そこにこそ喜びがある。逆を言うならば、このことをしていなければどれだけ多くのことをしていたとしても、満たされることなく、いつも何かに追われ、焦り、心配するという思いわずらいの多い生き方なのです。(725祈祷会メッセージ