岩から湧く水

■聖書:出エジプト記171-7節      ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネの福音書737-38節)

 

1. はじめに

 出エジプト記を少しずつ読み進めています。エジプトの地から連れ出されたイスラエルの民が、神の民としてふさわしく整えられて行く、その旅を共に読んでいます。今日でこの旅が始まって3回目のメッセージになりますけれども、どうでしょうか。もうすでに、似たような話が続いていることに気づかれたのではないでしょうか。神様が民たちを整える旅、時々はかっこいい信仰の姿を見せてくれればいいのですが、いつも不満やつぶやきを見ることになります。しかしそれもまた、私たちの信仰の歩みと同じなのかもしれないなと、準備をしながら思わされています。ひょっとしたら信仰生活の成功、勝利なんてほんの少しで、その多くが失敗や敗北の連続なのかもしれません。1日の終わりのデボーションの時に、多くの失敗を思い出して、あの時ああ言えばよかったとか、こうすればよかったとか考えながら、ちょっと落ち込むと言うこともあります。ただただ主の前に自らの罪深さを知らされ、罪の理解を深めて行く。パウロだってそうだったのです。しかし同時に、大切なことは、その失敗において、主により頼むことを学ぶということなのではないかと、このイスラエルの民たちを見ていて思わされます。罪に生きていた自分を悔い改め、神様と一緒に生きて行くこと、神様により頼んで生きて行くということを覚える。なんども覚える。逆に言えばそれこそが、神様が求めておられるまことの神の民らしい生き方、この旅の目的であると言えるのだと思うのです。そのようなことを心に留めながら、早速本日の箇所を見てまいりましょう。

2. 主を試みるとは

 さて、そのように本日の箇所でもイスラエルの民たちの不信仰が出てくるわけですが、これまでと似たような状況であっても、少し違った表現が書かれています。171-3節をお読みします。

 民たちが直面している問題や、それに対しての彼らの怒りの言葉である3節はこれまでとほとんど同じです。彼らはいつも同じ問題を、同じ感情をもって受け止めることしかできないのでした。しかし注目したいのは2節にありますモーセの言葉です。なぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか。民たちは水をくださいと言っただけです。それはとても正当な、というか当たり前の訴えでしょう。私たちでも、何か現実の困難に直面した時に、なんとかして解決の道を探そうとします。けれども、ここでモーセが指摘していることは、「なぜ私と争うのか」ということなのです。誤解を恐れずに言うならば、争うこと自体が問題なのではないんじゃないかなと思います。このような時に落ち着いて達観していられるような超人性が求められてはいないようです。格闘しながら祝福を求めたヤコブのような必死さが神様の御心にかなうことだってあるでしょう。ただし争う相手を間違えてはいけないのです。モーセではありません。人間ではない。海を破り、雲の柱と火の柱で自分たちを導いてくださるお方、苦い水を甘くし、夕には肉を、朝にはマナをもって自分たちを満ち足らせてくださるお方です。彼らはこのお方を知らなかったわけではありません。忘れてしまったわけでもないでしょう。だって彼らの旅はいつも雲の柱・火の柱が先導していたのです。それこそまさに、神様がいつも共にいてくださることの、何よりの証拠でした。それでも彼らの格闘する相手、真っ先にその不安や願いをぶつけた相手は、モーセだったのです。だからモーセは、「なぜ、私と争うのか」と言い、そしてそのことが「主を試みる」ことであると告げるのでした。

 主を試みると言うことを聞いて、どのように思われるでしょうか?そもそも主を試みると言うのはどう言うことなのか。信じるに足る存在かを試すと言うことでしょうか?自分にとって都合の良い存在なのかを試験すると言うことでしょうか。少し質問を変えて、私たちは主を試みるということをしてはいないでしょうか。あからさまに、文字通りの意味で試みると言うことはないかもしれません。けれども、少し飛ばして7節、この地名の由来を説明する箇所ですが、ここを読みますと、主を試みるということがどういうことなのかが分かります。イスラエルの不信仰が地名になった箇所です。それは、この振る舞いを忘れないようにとの意味があったのでしょう。彼らの試みは「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」とのものでした。神様は本当にいてくださるのだろうかということを疑ったのです。困難な中、現実の不足、渇きの中で、たとえ雲の柱・火の柱に導かれているにしても、たとえうずらが飛び、マナが与えられていたとしても、本当に主がおられるんだろうかと疑っている。イスラエルの民の不信仰がくっきりと現れている言葉ではないでしょうか。と同時に、このような意味で、改めて先ほどの質問、私たちは主を試みるということをしてはいないでしょうか。神様の恵みを知りながら、神様の愛を歌いながら、しかし「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」とぐらついてしまう。頼るべきお方は二の次にして、民たちがモーセに向かったように、目に見える助けに駆け込んでしまうことはないでしょうか。改めて問いたいと思うのです。

 試みると言うことにもう少し注目すならば、この約束の地を目指す旅のポイントとして、神様が民たちを試みると言う表現が度々登場しています。これまでにも1525節、164節などにある通りです。おきてと定めを授けて試みるとか、マナを集める際、必ずその日の分だけを集めることであるとか、いわばルールを与えて、それに従うかどうかを試されるのです。しかしそれは、意地の悪い、従わないものをかたっぱしからはじいていくような試み方ではありません。もちろん今後読み進めていきますと、そのように、従わないものを懲らしめると言う場面も出てきます。彼らが重大な罪を犯す時、義なる神様はそれに対して見て見ぬ振りをされはしないのです。なんでもかんでもいいよいいよと許されるあいまいなお方ではない。しかし、大前提としてはそうではなかった。従わないものを排除して、従順なものだけを選別するという目的ではなかったのです。もしそうでしたら、誰一人として神の民として残ることはできないのです。あくまでも、神の民として整えるための試し方であり、彼らはそこで信仰や信頼を学ばなければならないのです。そこの地名にするまでして自分たちの不信仰を覚え続け、悔い改め、頼るべきお方をいつも覚えなければならない。そのような試し方をされるのでした。

 一方で人が神を試す時はいつも、自分にとって都合の良いことをしてくれる神かどうか。その神がいるかどうか。の試しであります。罪人には、神様と自分の関係がわかっていないから、このようになってしまうのです。神様よりも、試す自分の方が上の立場になっているかのようになってしまうのです。まるで自分が神のようになってしまう(創世記3:5)。このような誘惑、それはある意味でアダムとエバの時からのサタンからの試みでありますが、本当に日常の様々なところに張り巡らされているのではないでしょうか。イエス様ははっきりとそれをしていけないと教えておられます。本日の出来事を用いて、あの荒野でのサタンの試みの中で言われ、誘惑を退けられました。『あなたの神である主を試みてはならない』(マタイ4:7)。このような誘惑に対して、みことばをもって勝利していくイエス様のお姿は、私たちが頼るべきお方から目を離さず、サタンの誘惑に負けずに日々を生きていく大切な力になるのです。

 

3. それでもなお、あわれまれる神

 さて、そのように民たちはモーセと争い、神を試みました。民たちがすぐさまモーセにぶつかっていったのに対して、モーセはすぐに神様に向き合います。民たちの怒りのエネルギーはものすごかったようです。4節では、神様が立てられた、彼らを約束の地にまで導く指導者を殺そうとしている。こんなところにも、神を試み、全く信頼していない彼らの本質が見えるようです。ともかく、ここでモーセが神様に叫ぶと、神様はすぐに答えられました。5-6節。先ほどは、試みる民たちについて見ましたが、一方で神様はと言いますと「それでも、なお、あわれまれる神様」の姿が描かれているのです。先ほどもお話ししたことですが、神様が民たちを試みるとき、人間が神を試みるように試みるなら、もう彼らを切り捨てて、放っておいたことでしょう。それどころか厳しい罰があってもおかしくないくらいのことを彼らは繰り返しています。人間による試みはいつもそうです。自分が中心になって、相手が自分にとって役にたつか、自分にとって益になるかを計るのです。そのようにして他者をさばき、評価していることが非常に多いと思うのではないでしょうか。ところが神様は違うのです。わたしの目にあなたは高価で尊いと言われる神様。このイザヤ書の言葉はバビロン捕囚の民たちに語られました。度重なる罪を繰り返し、預言者たちの悔い改めを求める声に聞き従わずに突き進んで言った彼らですから、そこに、愛される資格、高価で尊いなんて言われるようなものは何一つないわけです。多くの人の目にはそう映るでしょう。しかし、「わたしの目には」、神様の目には、本当に救われなければならない、大切な一人一人であると映っているのでした。

 エジプト王パロと対決する時、モーセの手にはいつもこの杖がありました。特別な杖だったわけではありません。それまでにもモーセが使っていたものです。しかし神様はご自身の力を示す道具としてこれを用いられました。同じ杖を持って岩を打つ。するとそこに水が流れ出るのでした。渇く彼らを潤し、疑い試みる彼らをもう一度呼び戻す、神様の力がここに表されたのでした。試みる民です。これまでの恵みを忘れ、養い導いてくださる方を見失い、いるのかいないのかなんていう者たちです。にも関わらず神様は、彼らのために、水を与えてくださるのでした。

 

4. 岩が叩かれ、水が流れ出る

 さて、本日の箇所はここまでとなりますが、この出来事は新約聖書の光の中ではどのような意味を持ってくるでしょうか。前回マナが与えられた時にも、それは、まことのパン、いのちのパンであると言われるイエス様の「型」であるとお話をしました。一箇所聖書を開きたいと思います。新約聖書、コリント人への手紙第一、10章の1節からお読みします。そこで、兄弟たち。わたしはあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。あの海を割ってエジプトの地から解放されたことはバプテスマ、洗礼であった。荒野の中でマナを食べ、本日の箇所での、岩から湧く水をのむ、そのようにパウロは御霊によって解釈しているのです。洗礼を受け、古い自分は死に、新しいいのちが与えられた。神の子どもとされたのです。しかし、その中でもたくさん失敗をします。けれども神様は、神の子どもたちのために、御霊の食べ物と御霊の飲み物を用意してくださり、私たちを養い育んでくださる。神の民であるイスラエル人も、神の子どもである私たちも同じなのです。4節の後半には、本日の箇所での岩とは、私たちにとってのキリストであると教えられています。キリストの予型、キリストを指し示すものだと言うのです。彼らの渇きを癒す水が与えられるためには、岩が叩かれなければなりませんでした。イエス様も打たれ叩かれました。多くの辱めと苦しみを受けて十字架につけられたのです。そしてそれによって、もう一人の助け主である御霊が与えられました。私たちはみなその御霊によって育まれているのです。決してあなたがたを孤児にはしないと約束されたイエス様が天に上げられることで注がれた御霊です。弱い私たちが祈れない時にも助けてくださるお方が、試みの中にあってそれでも主に向くことができるように助け教えてくれるお方がおられる。今日も生きて働かれる。目に見えないこのお方のことを私たちは時に、「私の中にいるのか、いないのか」と思ってしまうことがあります。それは神様を試みることであります。何よりイエス様の十字架を無意味にしてしまうものであります。しかし、このお方を信じて生きる時、たとえ環境・状況がどうであったとしてももうかつてのように渇くことがなく、不足におびえることもなくなるのです。 

 イエス様を信じるものは、この渇いた時にだけ水が与えられるのではありません。本日の中心聖句もさせていただいた箇所が週報の左上に記されています。ヨハネの福音書738節。イエス様の言葉を前の箇所からお読みます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」イエス様を信じる時、それまで何をしていても満たされなかった心が満たされ、カラカラに渇いていた自分が潤されていきます。それは何か特別な場所に行く時に満たされるとか、何か特別なことをしたから潤されるのではありません。その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。その川の源が私たちの心にできるのです。流れ出る。こんこんと湧き続ける泉をイメージします。枯れることがない泉が、私の心の中に与えられる。それは私を生かし、それだけではなくて、私たちを通してさらに広く流されて行く生ける水の川なのではないでしょうか。イエス様を信じ、洗礼を受ける時に、私たちは本当の満たしと、本当の平安を経験するのです。と同時に、この命を知っているものとして、この泉の水を届けるという大切な役割が与えられているのです。

 

5. おわりに

 もう最後にしますけれども、本日は聖餐式があります。まさにイエス様によって与えられた、御霊の食べ物と御霊の飲み物を、皆で食するひと時です。先ほどの1コリント103-4節は、明らかに意識して「みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲んだ」と言われています。与えられている恵みを覚え、感謝していただきたいと思います。昨年天に召された兄弟のことを思い出していました。教会に来ることが難しくなっていた兄弟のもとへ、月に一度訪問聖餐に伺わせていただいた際、このあと賛美する天つ真清水をよく一緒に賛美したことを覚えています。私たちそれぞれは多くの問題を抱え、それぞれの弱さを抱え、悩みを抱えていたとしても、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲むと言うことがどれほど幸いなことであるのかを、私は、その兄弟との聖餐式を通して本当に強く学ばせていただきました。神さまが今日も私の中に、私たちの中に、生きて働かれていることを信じ、感謝を捧げつつ、新しい週の歩みを始めてまいりましょう。