神の言葉は我らの力

聖書個所  詩篇119篇17節~24節          説教者 川口 昌英 牧師 

中心聖句 「私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。」詩篇119篇17節

◆(序)この箇所について

    聖書の中で一番長い章、詩篇119篇の特徴についてはよく話している。ヘブル語文字22のアルファベットの順番に、同じ文字から始まる文章8行を一つの段落として、全部で176節からなる。また176全ての節に表現は異なるが、神のことばのことを折り込み、神のことばの重要性を伝えている。そういった意味で、非常に技巧的に造られている詩であるが、しかし、その内容は神にあって生きる者としての志や思いが満ちている。この詩が作られた時、異邦人に支配されていたという苦しい状況であったと思われるが、詩人は、そんな中で主を信じて歩むことは喜びであり、力であると伝える。本日は、特に17節「私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。」人生を旅と言い、そしてその中で神のことばを切に求めていることに注目したいと思う。

 

 本論に入る前に一言説明すると、詩人は、とかく日本で人生は旅であるという時のように、はかない、むなしい、それゆえ現実の生涯を重視しなくても良いという意味で言っているのではない。そうではなく、この地上の歩みを終えた時に帰るべき永遠の家がある、又人のすべてを知り、すべてを裁かれる方がおられる。それゆえ、人生をおろそかにしない、流されないという意味である。つらい立場に置かれているゆえに現実逃避として人生は旅である、仮の家と言っているのではない。反対である。私たちは、必ず永遠の家、目的地に帰るから、神のことばをさげすむ者たちに流されない、自分自身の生き方をいいかげんにしない、神のことばを大切にして生きると言うのである。

◆(本論)人生は旅であるという意味

①人生は旅である、私たちは旅人であるという考えは、実はこの箇所だけではなく、聖書全体に満ちている。そういったことを言っている箇所をあげると、

・詩篇119篇54節「あなたのおきては、私の旅の家では私の歌となりました。」

・詩篇39篇12節「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びの耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。」

・第一歴代誌29章14節、15節「まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手からでたものをあなたにささげたにすぎません。私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。」

・ヘブル書11章13節「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」

・第一ペテロ2章11節「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」

 又、直接そのような表現を用いていなくても、その考えに立つ箇所が多くある。有名な第二テモテ4章6節~8節「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、誰にでも授けてくださるのです。」もその考えが根底にある。

 以上のように聖書は、全体として、私たちの地上の生涯は旅であると繰り返している。詩篇119篇の作者も、イスラエルの人々が感じているこの考えを深く受けとめ、現実は厳しい中でも、私は神のことばを大切にし、神のことばを追い求めて生きるという。

②具体的に、人生は旅であるということによって、詩人は何を伝えているのだろうか。三つのことをあげることができよう。一つは、当たり前だが、この生涯は永遠に続くのではないことを知って生きる思いの告白である。詩篇90篇の作者のように自分の日を正しく数えて生きるためである。(詩篇90篇10節~12節) 人は、それぞれ神から目的をもって命を与えられた存在である、生命だけ与えられたのではない。一人ひとり確実に生きる目的が与えられている。それゆえ、それと取り組むことが大切という。詩篇119篇の作者も、旅人であること、やがて終わりの時が来ることを意識することによって、たとい周り中が神に背いても、神の民である我々、そして自分はそれに流されないで、神から与えられた目的を持って、神のことばによって生きることを深く意識した。

 二つ目は、この地上では旅人であることを意識することによって、目的地があるということを心の深くに覚えたのである。先ほどの第二テモテ4章の中で、使徒パウロは、世を去る時が来たことを意識して、今からは義の栄冠が私を待っていると言う。どれだけ人からの評価も受けたとしても地上から去る時、はかない、むなしい思いのうちに去らねばならないとしたら寂しいことではないか。主を信じる者には誰にでも義の栄冠が授けられるという約束がある。永遠の家が用意されている。ゴール、目的地を知らない歩みは苦しい。困難な状況にいると尚更である。出エジプトの時、イスラエルの民たちが何故、荒野をあんなにも長くさまよったのか。彼らがカナンの地、約束、最終の地を思わず、現実に起こっていることばかりにとらわれていたからではないか。自分は、この地上では旅人であると意識することは、このゴールを思い、生きていく力と希望が与えられることである。

 三つ目は、自分は、地では神にある旅人であることを意識することによって、自分の人生は孤独ではない、共に歩んでくれる存在がいることを覚えたのである。24節では「まことに、あなたのさとしは、私の喜び、私の相談相手です。」と言っている。詩人はこのことから、自分の生涯は、困難なところを通っているけれども、真理や希望を示す愛に満ちた神のことばがあるから、心の深いところでは喜びがあると言う。主を信じて歩む者には、真理に導き、慰め、励まし、支えてくださる方がおられると言うのである。主イエスも「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)と言っている。主に従う者を愛し、一人ひとりの生涯を御心によって導いてくださる方がともにおられるから、この地上の旅は孤独ではない。

 

◆(終わりに)みことばが与えられていることのすばらしさ

   聖書が私たちは旅人という意味は、日本の人々の考えと逆である。多くの人は、有名な奥の細道や平家物語の冒頭部分が示すように、人生は旅であるという時、人生のはかなさ、むなしさを感じている。見て来たような、詩人が深く感じている力、希望、平安とは無縁である。   

 何故、こんな違いがあるのだろうか。人生観の中心が違っているからである。キリストにある者は、神によって命が与えられ、生かされ、その生涯が導かれていること、何よりも一人子さえも惜しまないほどに愛されていることを知っている。また、地上のいのちを終えた時に、主の前で一人ひとり生きていた時の行いにしたがって裁かれるが(第二コリント5章10節)、主を信ずる者にはだれにでも義の栄冠が与えられ(第二テモテ4章8節)、御国に迎えられること(ヨハネ14章3節)を知っているから、その旅は満たされている。

 

 しかも、それだけではない。詩人が言いたかったのは、生きて行くことに対して神のことばが与えられていることである。これにまさるものはない。この恵みに立って、それぞれ遣わされているところにおいて神の民として歩んで行こう。これこそ、真の幸いに満ちた人生である。