満たしてくださる方

■聖書:出エジプト記16章   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。…」  ヨハネの福音書635

 

1. はじめに

 出エジプト記を読み進め、前回は、海を割って進み出て来たイスラエルの民が最初に直面した問題について共に学びました。栄光の旅立ちの直後、いったい何があったのか。それは、神の民が飲み水がないということでつぶやいたという大きな問題であります。数日前の神様の奇跡を忘れて、つぶやく民たち。それは頼るべきお方を簡単に忘れてしまう、人間の不信仰を表していました。しかし神様は、いたずらに彼らを苦しめたのではありません。耐えられない試練の中に置かれたのではなく、そこには神様の大きな計画があったのです。それはただ単に約束の地に導き入れるだけでなく、神の民にふさわしく整えるための旅でもあったのです。

 その旅の中、本日の箇所では「満ち足りる」ということを特に覚えたいと思います。イスラエルの民たちの旅は時々のオアシスはあったものの、基本は荒野、とても厳しい環境です。生命は少なく、日中の日差しに耐え、夜には獣に警戒しながらの過酷な旅路でした。そんな中、神様は、神様を信じ従うものを「満ち足らせて」くださるお方であることをお教えになっているのです。普通の考え方では、荒野は飢えと渇きの場所です。「満ち足りる」とは正反対の、足りなさばかりがある地において、満たしてくださる。本日の箇所から、私たちが満ち足りるとはどのようなことなのか、私たちを本当に満たしてくださるお方はどなたなのか、教えられたいと願います。

2. 民のつぶやき、神の満たし

 本日の箇所は、つぶやく民たちを癒し励ますために導かれたオアシス、エリムの地から出発します。出発の日は第二の月の十五日とあります。12章によりますと、エジプトの地を出たのが第一の月の15日ですから、およそ一月が経っていました。激動の一ヶ月です。それまでの奴隷生活が終わり、新しい自由な生活が始まりました。しかしその他一月は喜びとともに危機も経験した一月です。なんどももうダメだと思ったことでしょう。前には海、後ろにはエジプト軍が迫っていた時なんて、もう絶体絶命の大ピンチでした。前回の荒野で水がなくなるということも、荒野においては致命的な問題です。果たしてモーセに従い出てきたことは正解だったのだろうか。目に見える困難に恐れ、目に見える不足に恐れ、彼らはつぶやくのです。1-3節、ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」前に海、後ろにエジプト軍が迫っていたあの最大のピンチの時にも、彼らは同じようにつぶやきました。14章の11節から、エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕える方がこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」エジプトへの思いがいつもあったと言って良いでしょう。後ろ髪を引かれるという表現がありますが、まさに通り過ぎてきたところに心が捉えられているのです。今日の箇所でのつぶやきもそうですが、エジプトでの生活があたかも素晴らしかったかのように言っていますが、あくまでも奴隷状態の話です。「肉なべのそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた」と回想していますが、おそらくそんなことはなかったでしょう。しかし彼らはかつての悲惨を忘れてしまっていて、このようにつぶやくのでした。彼らがここで「満ち足りている」と感じていたことは、見せかけのものだったと言っても良いかもしれません。検討外れのことを呟いているのです。

 

 しかしこのように考えてみますと、では、私たちはどうだろうかということに行き着きます。もちろん奴隷ではなく、随分と便利な時代になりました。一昔前とは比べ物にならないくらい豊かな生活ができています。食事の面でも、特に現代日本においては飽食の時代と呼ばれて久しい。しかし人々の心はどうだろうかと考えるのです。連日悲惨な、悲しみと怒りがごちゃまぜになるような、目を背けたくなるようなニュースが報じられています。親が子を殺す、むしゃくしゃして暴力を振るう、悪事をあの手この手で隠そうとする。豊かになった、とはとても言えない状況があるのです。心が満たされていないから、その隙間を埋めるようにしてもがいているといったらよいでしょうか。そんな中で、より弱い者が虐げられ、より小さい者が迫害されるのです。いや自分の心を考えてみて、どうでしょうか。満ち足りている、満足していると心から、今言えるでしょうか。その時々では言えるかもしれません。人生の中のある一部分では満足していると、あるいはざっくりと振り返ってみた時に、総じて言えば、まぁ満足していると言うこともできるでしょう。しかし多くの場面においては、決してそんなことは言えないんじゃないかと思うのです。足りなさばかりを数えてしまうことがあります。持っているものはさておき、持っていないものばかりが気になってしまうのです。特に人と自分を比べる時にそのように感じることが多くあるように思います。あの人はあれだけのものを持っている、あれだけ満たされたように見える。でも自分はどうだろう。自分の生きている道はどうだろう。あっちの道の方が良かったのではないか。あの時ああしていたらもっと満足できていたのではないか。色々な思いが巡るものです。特に目に見える困難に直面した時、私たちはそのように感じます。自分は足りない、もっと満ち足りたいと願うのです。

 

 この時のイスラエルの民もまさにそうでした。かつての奴隷生活の苦しみを忘れて、あたかもあの時は満ち足りていたかのように錯覚している。それほどまで、困難な現実に直面していたとも言えるかもしれません。しかしそれにしても、あの奴隷生活がそれほど幸せだったのでしょうか。苦役を強いられ、王の気持ち一つで愛する子供が殺されてしまうような生活が強いられていました。何よりもそこに自由がなかった。なんども繰り返してお話ししますが、私たちの罪の状態も同じなのです。自分たちでは気づいていない、あるいは時間が経つと簡単に忘れてしまう悲惨がそこにあります。鎖で繋がれて、いつもビクビクしながら、本当は満たされていないのに、満たされた気になっている空しい生き方です。空しいとは、「から」とも言いますが、まさに空っぽなのです。自分ではその隙間を完全に埋めることはできません。気づかないように自分を誤魔化したり、何かの代用品で満足したように見せかけるだけなのです。そんな私たちの罪の状態から救うために神様は助けの御手を伸ばしてくださるのでした。その力強い御手でイスラエルの手を引き、エジプトの国から脱出させた神様は、その旅の途中何度もつぶやく民のために、日々の糧としての肉とパンをお与えになっているのです。足りないと不満をつぶやくものを満たしてくださるお方である。そんな場面です。続く箇所、4節から12節までをお読みします。

 

 かつては満ち足りていたのにと不満を漏らす民のつぶやきを聞かれた神様は、モーセを通して言われます。8節「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる」、12節「あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう」あきらかに、民たちのつぶやく声に応えてくださっていると言うことがわかります。しかし単にお腹を満たして終わりではなく、そしてそのようにして満たされた民たちは、「あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。」と言われるのです。興味深いのは、6節でこれらの肉とパンが与えられると言うことを言い換えて言われている言葉です。「夕方には、あなたがたは、主がエジプト人の地からあなたがたを連れ出されたことを知り、朝には、主の栄光を見る。」つまり、民のつぶやきを聞かれた神様が肉とパンを持って民たちの満ち足らせる時、やはりそれは、単に空腹を癒す程度の意味ではないと言うことであります。そこに神様の栄光が現される。そこに、民たちが救い出されたことの事実が改めて明らかにされると言うのです。わずかひと月前の喜びさえ簡単に失ってしまうものに対して、すでに与えられているものの素晴らしさを思い出させる。さらに言ってしまえば、助け出してくださったお方が、今もともにいてくださり、満たし続けてくださることを思い出させる。「あなたがたの神、主であることを知るようになる」(12)には、そのような意味があったのです。そしてそのお言葉通りになったのでした。13-15節。

 

3. いのちのパン

 満たしてくださるお方は、このようにして、民たちの不満のつぶやきに答えてくださいました。私たちはこれをどのように聞くでしょうか。やはり与えられているものに鈍くなり、満たされていないと感じやすい私たちに、神様はどのように働きかけてくださっているのでしょうか。実は新約聖書において、イエス様がこのマナの出来事をたびたびお話になっていると言うことに気づきます。有名なのは、マタイの福音書44節、荒野でのサタンの誘惑に遭われたイエス様。四十日四十夜の断食の後、空腹を覚えられていたイエス様の元にサタンが来ます。その試みる者は言いました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」出エジプトの民たちを思い出させるような空腹と実際の求めがそこには明らかにありました。しかしイエス様は言われるのです。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』と書いてある」。これは申命記83節のみことばの引用です。マナはマナ自体が素晴らしい奇跡でありますが、それだけではないのです。マナを降らせて満ちたらせてくださるお方を知ること、ここにこそ、神の民として整えられるときに知らなければならない大きな力がありました。

 そしてさらに素晴らしい約束が与えられているのでした。ヨハネの福音書6章を開きましょう。本当は全体をお読みしなければならないのですが、30節からをお読みします。この箇所は、あの有名な5000人の給食の後に置かれています。人々は、イエス様の不思議なわざによって、わずか五つのパンと二匹の魚が5000人以上のお腹を満たしたすぐ直後でこのみことばを聞くのです。(朗読)。給食は確かに人々の必要に叶う奇跡でした。人々を満ちたらせました。そのような力を持つお方であることが明らかにされた。まさに主の栄光がこの出来事を通しても表されたのです。しかし、イエス様の本当のメッセージはその先にあった。ご自身を指して、「わたしがいのちのパンである」と言われたのです。繰り返しになりますが、出エジプトのマナにしても、五千人の給食にしても驚くべき奇跡です。人々のお腹は満たされて、人々の目に見えるところの必要は満たされました。しかし、それだけではいけないのです。現にイスラエルの民は、四十年間の荒野の旅の間中マナが与え続けられてきましたが、いつしかそれでも足りなくなり、他のものを求めてさらにつぶやくのです。どこまでいっても満足は得られない。満ち足りることがないのです。しかし、いのちのパンとして世に来られたイエス様を信じる時、目に見えるところには足りなさが多くあったとしても、しかし満たされるのです。

 

4. まとめ

 最後にしますが、聖書の中で「平安」と言う言葉があります。ヘブル語ではシャロームで、イスラエルの人々の挨拶にもなっている言葉です。ギリシャ語ではエイレーネーといって、平安や安心、平和とも訳されています。この言葉はもともと、戦いなどが何もない状態を表すわけではなくて、「欠けたところがない、満ちている状態」を表しています。そしてイスラエルの人々は今でも、このシャロームという言葉を持って挨拶をしています。それは、主にある平安です。主と共に生きる者の平安です。たとえ争いの最中にいたとしても、たとえ多くの不足があったとしても、このお方がおられれば、全てが満たされている。どんな困難な中であっても、それこそ平和や平安が程遠いと思える日々にあっても、神様と共に生きる時に日々の糧は与えられ、いのちのパンで満ち足りることを私たちは知るのです。いや、すでに私たちにはこのお方の十字架によって「まことのいのちのパン」が与えられている。この恵みをいつも覚えていたいと思うのです。

 パウロという偉大な宣教者は、病を負っていたと言われています。それを彼は「一つのとげ」と表現しています。それは普通だったらマイナスなものです。なければないほうがいいに決まっている。現にパウロもそのように主に願ったと言われているのです(2コリ12:9)。しかし主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われ、パウロもそれを受けて「大いに喜んで、私の弱さを誇る」と告白するのです。世の目で見れば、決して満たされているとは言えない者でしょう。世の目から見たら、取るに足りないもの、欠けだらけの、誰にも憧れたり羨ましがられたりしないようなつまらないものかもしれません。けれども、神様は、十分であると言われる恵みを注いでくださっているのです。それは、主を信じるすべての人に注がれている恵みであります。こんな罪人の私のために十字架にかかってくださるほどの愛が、そのいのちが、すでに与えられているのです。この世の価値観にとらわれず、主にある平安、主によって満たされていることを日々感謝しつつ、新しい週の歩みを始めてまいりましょう。