危機の中で聞かれる神

❖聖書箇所  使徒の働き12章1節~17節          ❖説教者  川口 昌英 牧師

❖中心聖句  こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。                        使徒の働き12章5節

 

◆(序)この箇所について

 本日の箇所を読む時、疑い人々は、ペテロを助けることができた主は、なぜヤコブを助けることができなかったのか、また、理性や経験に合わないものを否定する近代以降の読者たちに格好の攻撃の材料を与えるような、天的存在である御使いが直接介入し、具体的に行動し、ペテロを助けたということをどうして詳細に記したのかと考えると思う。

 教会の熱心な祈りに応えて、御使いが来て、ペテロを助けてくれた、主のなさることはすばらしいと素直に受けとめる人も多くいるが、現代の少なからずの人々は、こういったところを読むと、信者が自分たちに都合が良いように書いているのではないかという気持ちになると思う。

 

 本日は、まず、これらの問題について考え、ついでこの箇所で著者ルカが読者に伝えようとしていることを共に受けとめて行きたい。

◆(本論)主が伝えようとしていること

①神は、なぜ、ヤコブを助けず、ペテロを助けたのか。また、窮地に陥っていたペテロが不思議な方法で助かったと記すだけでよかったのに、なぜ、地上的存在ではない御使いが現れ、直接、助けたということを細かく記したのだろうか。

 言うまでもなく、それらが実際の出来事であったからであるが、まず、ヤコブが殺害されたのは、主がヤコブを大切にしていなかったからではない。ヤコブもエルサレム教会の柱の一人であり、重要な人物であったが、人、この場合はヘロデ王であるが、自分の思惑、考えを実行するために神の御心に反することを平気で行う存在である。生まれながらの罪によって、神の御心をはねつけ、自分の思いを貫いたのである。それがヤコブが殺害された理由である。主がペテロだけを大切に思い、ヤコブを軽視したのではない。

 ここで言うヘロデは、ヘロデ大王の孫、ヘロデ・アグリッパ1世のことである。ローマで教育を受け、ローマ皇帝によって特別に支援され、ユダヤとサマリヤの王に任じられた。後に使徒の働き25章に出てくるローマ総督フェストに会いに来て、勾留されていたパウロに興味を持ち、パウロの証しを聞いたのは、彼の子、ヘロデ・アグリッパ2世である。

 アグリッパ1世は、ユダヤ人に強い地盤を持たなかった自分の立場を強くするという目的をもって、ユダヤの人々の歓心をかうために、彼らが反対していたキリスト教会の柱の一人であるヤコブの命を奪い、それが人々の喝采を浴びたことから、今度は教会の中心的存在であるペテロを捕え、殺害しようとしたのである。

②ヘロデがヤコブの殺害に続き、ペテロをも捕えたことは、使徒たちとエルサレム教会にとって非常な打撃になった。そのため、教会は、ペテロのために心を一つにして懸命に祈った。その祈りに応え、処刑直前であったが、まだ間に合ったから、御使いが現れ、捕えられていたペテロのところに来て、厳重な警戒をくぐり抜け、助け出されたのである。 

 主がこの時、特別にそのようにしたのは理由がある。繰り返すように、ヤコブとペテロを比べて、ペテロが大事であったからという意味ではない。

 ペテロが、捕えられ、厳重に監視され、二本の鎖に繋がれて、間もなく、人々の前に引き出され、処刑されることが確実であったという絶対絶命の危機にあったときに、御使いが送られ、直接、助け出されたのは、ヤコブを失い、動揺し、危機状態に陥っているエルサレム教会を守り、支えるためであった。

 実は、このところは、使徒の働き全体の中で、ペテロが出てくる最後の場面である。これ以後は、15章のエルサレム会議の中で少し出てくるが、それ以外はもはやペテロは出てこない。この箇所以後は、使徒の働きは、異邦人宣教が中心になり、人物に関して言うならば、パウロが活動の中心になっている。

 そのように、これ以後、ペテロは殆ど出て来ないが、ペテロの存在は、本拠地であるエルサレム教会を指導するうえにおいてはもちろん、異邦人宣教によって生まれる異邦人教会をまとめ、宣教を進めるうえにおいて、まだまだ彼の存在が必要とされ、特別に助けられたのである。ちなみにペテロは、言い伝えによると、パウロと同じ頃、ローマ皇帝がネロの時代の迫害によって処刑されたと言われている。この時から14~5年先のことである。

 

③こうして主の特別の計らいにより助けられたペテロがエルサレムのクリスチャンたちのところに行った時、人々は、心から喜んだ。エルサレム教会の人々にとって、ペテロは特別な人物であったからである。というのは、彼は、ガリラヤ時代から主に付き従ってきた最も古い弟子の一人であり、神の国を宣べ伝えた主イエスのお姿を直に見、語ったことばを聞いた、特に直接に十字架の死と復活を深く経験した者であった。その性格のゆえに、失敗したことも幾たびかあったが、主を愛し、主に従った弟子たちの中心的な存在であった。それゆえ、聖霊が与えられ、教会が誕生した後、教会を代表して人々に力強く語り、また生まれたばかりの教会を圧迫し、福音を伝えることをやめさせようとした議会の議員たち、指導者たちに対しても、弟子を代表して、私たちは人よりも神に聞き従うと力強く宣言しているのである。(使徒の働き2章、3章、4章)

   もし、ペテロが殺害されても、もうすでに、教会の中で、信仰の内容、信仰者として守るべき事柄、伝えるべき福音に関してある程度のものができていたから、苦しい状況になりながら教会は存続したが、ペテロが教会の中にとどまることは、主イエスの香りを残すことにおいて大きな意味を持った。ペテロはそのような存在であった。それゆえ、教会の熱心な祈りに応え、神の恵みにより、御使が送られ、救い出されたのである。

 

◆(終わりに)この箇所が今に伝えること

    主は、大切なことを教会に残すため、まだ時があったから、祈りに応え、御使いを送り、ペテロを救い出した。ペテロ個人を特別に守ったというより、ペテロによって主の香りを人々に残そうとしたのである。その結果、マルコがペテロの導きによって主の記録であるマルコの福音書を著し、またペテロ自身が書簡の中で何度も語っているように、人々に、主のすばらしさ、主にあって歩む恵みを思い起こさせることができた。主は、ペテロによって人々が恵まれ、歩むためにペテロを特別に救いだしたのである。

 この箇所から、現代の私たちは、どのようなメッセージを受けとめることができるだろうか。はっきりしていることがある。心合わせての祈りの重要性である。これがあって主が働いてくださった。教会がペテロのために祈ることがなかったら御使いが送られることはなかった。主は、教会を危機的状況から救ってくださったばかりでなく、ペテロを通して、福音の豊かさ、神の愛のすばらしさを残し、信仰者の喜びを確かなものにした。

 

 主は、今も生きて働いておられ、ご自身の栄光のために人の想像を超えたことを行う方である。私たちの教会の最初の宣教師は、戦時中は日本を憎んでいた青年であった。救われ、神学校で学んでいた時に、日本には福音が必要であると聞いて来日し、金沢で福音宣教を開始した。それ以来、65年経ち、多くのキリスト者が起こされ、今日まで福音を素朴に信じる教会として歩んできた。主がそのように幾人もの働き人や信者を起こしたのは、その人たちを通して福音のすばらしさを伝えるために他ならない。心合わせての祈りを聞いて、福音を伝えておられるのである。