固く閉じたままで

❖聖書箇所  マルコの福音書4章1ー9節      ❖説教者 川口 昌英 牧師  

◆(序)ある女の子の変化

   少し前の時代に実際にあった出来事である。小学5年生の女の子、お母さんの顔に大きなやけどの痕があり、友だちにいじめられ、お母さん嫌いだ、学校に来ないで欲しいと言っていた。

 それが続くので、ある日、お母さんが顔のことについて話した。「あなたがまだハイハイし始めた頃、眠っていたのでほんの少し、その部屋から離れて用事をし、戻った来たところ 、起きたあなたが火鉢の煮えたぎる鍋の方向に向かっていた。大急ぎで行き、あなたを守ろうとしたら、あなたが手にかけた鍋がひっくり返った。思わずあなたを抱きかかえ、あなたは無事だったが、熱湯が私の顔にかかった。私の顔のやけどの痕はそのときできたのよ」と言った。

 その話を聞いて、友だちからいじめられ、お母さん大嫌いと言っていた女の子は泣きながら、お母さんご免なさいとあやまった。それからはいじめられても、お母さんのやけどは私のためだったと言うようになり、喜んで一緒に外出するようになった。 

 このエピソードは、お母さんの愛はずっと同じであったが、娘の心が開かれた時に始めてその愛が届いたことを表している。愛があっても、それが伝わるには受けとめる側の問題が大きいことを示す。

 

 ②本日開いている有名な「種蒔きの譬え」において、主が言っているのは、こういうことだと思う。神の愛をあなたはどのような場所、どのような状態で聞いているのかということである。この箇所は一見、実を結ぶかどうかは、種蒔く人の側の問題であり、蒔かれる側にとっては始めから決定されているかのように受け取られているが、主がこの譬えで伝えているのはそうではない。私たちはこれら四つのうち、どのような地なのか、神の愛をどのような思いで受けとめているかと言うことである。

◆(本論)四通りの人々

①道ばたに落ちた種の場合

・その結果「すると、鳥が来て食べてしまった。」(6節)

・主の説明「道ばたに落ちた種とはこういう人たちのことです。~みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」15節 

・その意味~道ばたとは、本来、畑ではない所、主のみことばを本来の意味で受けとめない。例えば、格言、名言、人生訓、感動話として求める。聖書が伝えている人間の一番の問題、罪、救いの問題として受けとめない。それゆえ、他に魅力的なものが出てくると簡単に捨てる。

②土の薄い岩地に落ちた種の場合

・その結果「土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。」(5~6節)

・主の説明「…岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです。~みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根が張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。」17節

・その意味~表面に土があるから種は一時的に芽を出す。しかし、すぐ下に堅い岩があるため、根は張ることができず、やがて焼けてしまう。これは一応、神のことばを霊的に

自分にとって必要なこととして受けとめる。しかし、みことばが自分の生き方の中心にふれていることが分かると頑くに拒む。それゆえ、試練や迫害が起こると、すぐ離れる。    

③いばらの中に落ちた種の場合

・その結果「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。」7節

・主の説明「…いばらの中に蒔かれるとは、こういう人たちのことです。~みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」18節

・その意味~種が蒔かれた土、土壌そのものは良い土、その意味では、主の言われることも良く理解出来るし、自分の問題としてもある程度は考える。しかし、世の富や名誉や評価を気にしているため、主に従う人生を歩むなら困難な状況や不利になるのではないかと周囲の人々を恐れ、与えられた信仰そのものを失ってしまう。

④良い地に落ちた種の場合

・その結果「…すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」8節

・主の説明「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」20節

・その意味~ 罪が分かり、心が砕かれ、悔い改めを行い、主を第一とし、主と共に生きるようになる人。頭だけの理論としてではなく、主を信じたことが人生の力になっていく。

 そんな人の例として一人の婦人を思いだす。この人は厳しい人生を送って来た人で身寄りもなく、キリスト教病院のホスピス(現代医学で治癒が困難な人がその人らしい終焉を迎えることができるよう痛みのコントロールや精神的、霊的ケアを行う施設)に入院した時にもいつも険しい表情をしていた。ところがその人が毎朝流れる聖書の話やクリスチャンの病院スタッフの態度などにより、段々、聖書の罪が分かり、心を開き、また神の御子が人となり、自分の罪の身代わりとして十字架の上で死んで甦り、永遠のいのちへの道が与えられていることを信じた。それから死を迎えるまでの二週間、本当に表情が変わり、最後には笑顔でスタッフにありがとうと言って平安のうちに召された。

 

◆(終わりにあたって)

 言うまでもないが、人の「心の扉」の取っ手は内側にしかついてない。いのちを与え、生かしておられる神であるが、強引に入りこむことはしない。その扉を開けるかどうかは、人の側の決断による。

 傷つけあう、傷つくことが多いこの世であり、人は頑なになる。そんな私たちに、主はいばらの冠をかぶり、体に傷跡が残っている姿で私たちの心の扉をノックし続けておられる。そして「あなたはわたしにとって高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43章4節)「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37~38節) と今も語っている。

 

 恐れないで心の扉の取っ手を握り、思いきって開いて欲しい。そうする時に閉めきった心の奥底に神の愛が入り、孤独、不安、恐怖でいっぱいの心に、考えてもいなかった希望と平安、喜びが生まれる。コップを手で覆うと水は入らない。今日、神は、あなたに永遠のいのちを与えることを素直に受け入れていただきたい。新しい人生が始まる。