義認から栄光へ

❖聖書個所 ローマ人への手紙8章26節~30節          ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人」をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」 ローマ人への手紙8章30節

◆(序)この箇所を開く理由

 ここ最近、悔い改めについて、また信じた後の霊的状態について語ってきたことから、本日は、その流れに沿って実際の信仰生活の中身について共に教えられたいと願っている。

 ここにおいて、パウロは、クリスチャンの信仰生活は、御霊が信ずる者たちのために深いとりなし、それぞれの状態に応じて、神にあって生きるように慰め、励ます生活であることを明言する(26節) 。そして続いて、その御霊のとりなしを受け入れ、応えようと待っておられる父なる神は、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、すべてのことを働かせて、人にとって本当の益である、御子のかたちと同じ姿、キリストと似た者としてくださることを私たちは知っていると言う。(27節~29節)  

 

 難しい印象があるが、要約すると、パウロは、神は、私たちを救いの恵みに入れてくださるだけでなく、最終的に栄光を与えると言っているのである(30節)。では内容を見て行く。

◆(本論)実際の信仰生活

①まず、義とされ、被造物全体が贖われることを待ち望む者となったクリスチャンの信仰生活について、信じても弱いゆえにどのように祈ったらよいか分からない時があるが、御霊ご自身が言いようもない、深いうめきによって、私たちのためにとりなしをしてくださると明言する(26節) 。

 この一節には信仰生活について重要なことがいくつも含まれている。一つのことは、救われ、義とされた後も人は弱いということである。これについては再三言っているが、聖書の大事な使信の一つである。完全に義とされているが、信仰者自身はなお弱い。この間も話したように、救われた後も弱くもろい土の器である。例えば、肉体、精神の病気になる。信ずる者は病気にならない、ことに精神的病気になることはないと言われるが、事実ではない。誰でも肉体は弱く、又精神的にも疲れ、病気になることがある。その他、霊的に不完全であるゆえに小さなことで傷つき、誘惑にはまり、主に従う歩みからはずれることがある。

 けれども、弱さが残るからといって、信じても何も変わらないというのではない。弱いけれども私たちの中心は変化していることはいつも言っていることである。そして、このところで使徒が明言しているように、問題が大きいために解決の道が見えず、どのように祈ったら分からないような時にも、ともにおられる御霊がとりなし、仲裁に入って、或いはそばにいて共に闘い、助けてくださるのである。

 具体的に、私たちに世の大きな流れに流されず、真理に立つように深く諭し、励まし、慰めて下さり、進むべき道、方向を明らかにし、進む力を与えてくださる。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(第二テモテ1章7節)と言われている通りである。ここでは「御霊ご自身が言いようもない、深いうめきによって」とあって、神であるお方が人のように言いようも深いうめきをするのかと言われることがあるが、御霊の深い愛を示していることだと考える。

②続いて、信仰生活の醍醐味、すばらしさについて語る。前述のように、御霊が信じている者のためにとりなし、励ますことを知っておられ、そしてそれに応えようと待っておられる神は、神を愛する人々、即ち、神のご計画に従って召された人々のためにすべてのことを働かせて 、信ずる者を、人にとって最も望ましい益である、御子とおなじかたちを持つ者としてくださると言う。このことも信仰生活にとって大切なことである。この信仰生活のゴールを知っているかどうかは、

実際の信仰生活に大きく影響する。このことを知らない人は、信じた後もいつも自分と他の人を比較しようとする。そして、私はあの人よりも良いとかだめだと思いながらの信仰生活になって

行く。そうではない。主は、私たち一人ひとりを確かに導いてくださり、人にとって真の益を与えてくださる方である。この箇所において、その主の真実を明らかにしている。詳しく見て行く。

 まず神を愛する人々は、神のご計画によって召された人々であると言う。主がヨハネ15章16節で言われている通りである(朗読)。 私たちが神を選んだのではなく、神の側が選んでくださった(エペソ1章4節~5節)。弱いこと、足りないことをご存知のうえで救いに召してくださった。

   そして、そんな人に対して、神がすべてのことを働かせて、人にとって真の益である、御子と同じ姿を持つ者にしてくださるという。注意したいのは、信ずる者の繁栄ではないということである。祝福の意味を間違えてはならない。どんなにマイナスのことがあっても必ずプラスにして、この世的に豊かな繁栄をもたらすという意味ではない。そのことは、パウロ自身の生涯を見ても明らかである。パウロは、主を知る以前は、社会的にもまた経済的にとても恵まれていたが、主を信じ、従うようになった後ではむしろ貧しく、厳しい状況になっている。しかし、大事なことであるが、全てにまさる幸いを得たと言い(ピリピ3章7~9節)、死を目前にしても幸いな生涯だったと告白している(第二テモテ4章6~8節)。

 このように、本日のところにおいてパウロは、神は、信ずる者に真の幸いに留まらず、真の益を与えると明言する。キリストを知っただけでなく、似る者にしてくださるという。それは、神を知らない人が見えることばかり、例えば財産、地位、権力ばかり求めて生きるなかで、本質、神によってつくられた存在として、目には見えないけれども人が生きるうえにおいて最も大切な神を心から愛し、隣人を自分を愛するように、愛する生涯である。クリスチャンの幸いは、自分が祝福されること、繁栄することだけではない。確かに、主はその面においても守ってくださるが、それが最終目的ではない。主イエスのように神を愛し、人を愛する人生を送ることである。別の言い方をするなら、どんな時にも、主に祈る者に変えられていることである。

③こうしてパウロは、信仰生活に入ること、又信じた者の信仰生活について30節で要約している(朗読)。ここで確認されているのは、信仰生活の主体、中心は神である、神が選び、召し、救いに入れ、義と認め、神の子とし、救われた者にさらに栄光、御子と同じ姿を持つ者としてくださるということである。

 まとめて言うと、主の側が選んでくださり、人生の真理を求める思いを与え、聖書を読み、教会に集うように導き、神の愛を示し、十字架が自分の罪のためであったと悟らせ、遂に救いに入れてくださったのである。しかも、それで終わりではない。主と共に、主に従って生きるように導き、その結果、現実のさまざまな葛藤、苦闘のなかに置かれても、聖霊が慰め、励まし、導き、ついに真の益、主と似た者と変えてくださるというのである。

 

◆(終わりに)最後まで神は顧みたもう

 信仰生活のことが言われている本日の箇所を注意して見るなら、中心は私たち人間の側ではなく、一貫して中心は神ご自身であることがよく分かる。しかし、それは信じた者が主体性を持たないという意味ではない。幼子が親の守りや導きの中で生きているが、自由に生きているような姿である。神が深く関わりを持ってくださり、一人ひとりの信仰者の生涯に責任を持って導いておられるという意味である。神はご自身のもとに来る人を永遠に顧みられる方である。救いを与えて終わりではなく、その生涯に真の栄光を与えてくださるのである。

 

 こうして見てくるとクリスチャンは本当に幸いだと思う。目的を持って命が与えられ、そして罪と死の状態から一人子を犠牲にするほどの愛によって救い出され、その後も御霊に導かれ、主と似た者になるという真の栄光の生涯を送る者と変えられ、やがて天に迎えられるというのである。どんな富よりも栄誉よりもすばらしい生涯である。私たちは、このように顧みてくださる神の恵みの中に置かれている。自分や周りを見つめて生きることから、愛の神を見上げて日々を歩もう。