呟く民と癒す神

■聖書:出エジプト記1522-27節      ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:まことに、その人は、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。    詩篇12-3

 

1. はじめに

 出エジプト記を連続して読んできていますが、ようやく前回、海を渡ったイスラエルの民が救われた喜びを歌った場面で一つの区切りを迎えました。本日からは、いわば出エジプト記の第二部、救われた者が約束の地に至るまでの道のりを扱うところへと入っていきます。第二部と言いましたが、ボリュームでいえば明らかにこちらの方が大きいことに気づきます。この出エジプト記、実は最後まで読んでもそのゴールには至りません。約束の地に入るのは、ヨシュア記を待たねばならないのです。出エジプトの1522節、本日の箇所から、レビ記、民数記、申命記を通って、ようやくヨシュア記で約束の地に入ることができるのでした。言ってしまえばここまでが第二部とされるものなのです。ではそれまでの道のり、第二部には何が書かれているのか。それは、神様に助け出された神の民が、約束の地である神の国にふさわしい民となるために「整えられる」ということが記されているのです。詳しくはこれから見ていきますけれども、救われて終わりではなく、神に似たものと変えられていく過程であると考えるならば、これは私たちにとっての聖化の過程であるということもできるでしょう。今日から始まります出エジプト記の第二部は、その整えられていく過程の最初に当たるということなのです。輝かしい勝利と大脱出を経験し、神のみわざを喜び、民全員で賛美の大合唱を捧げた前回の後、一体何があったのでしょうか。本日の箇所を見てまいりましょう。

2. 民のつぶやき

 22節をお読みします。モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。救われた後、いつまでもそこにいることは神様の願うところではありませんでした。なんどもお話ししていますが、解放されて終わりではなかったのです。むしろその先にこそ神様のご計画はあったのでした。すなわち、贖い出されたイスラエルの民が、神の国に入る神の民として整えられていくこと。ここに神様のご計画はあったのです。さらにいえば、この神の民によって神様の祝福が世界中に広げられること、それはイスラエルを生み出したアブラハムに与えられた神様の約束でもありました。とにかく、そのための輝かしい一歩を、本日の箇所で踏み出したのでした。

 しかし、その道中は輝かしい勝利とはかけ離れたものでした。彼らは三日間荒野を旅しましたが、水が見つからなかったとあります。持ち運べる水の量は限られていますから、その旅の途中にありますオアシスを見つけては渇きを癒し、休みを取っていくことが必要不可欠でした。しかし、その頼みの綱のオアシスが、一向に見つからない。このことはサラリと書かれていますけれども、少し想像するだけでも厳しい状況だとわかります。1日、また1日と、不安は増し加わっていったことでしょう。1日目はまだ勝利の余韻に浸りながら、神様の用意されているところがどのような場所なのか期待を膨らませていた。けれども二日目になると誤魔化しきれない渇きと飢えを感じ、イライラはつのり、不安が強くなる。三日目にもなると、あの海を破った勝利の輝きは失われ、なんてところに来てしまったのだと再び後悔が出てきたことでしょう。冒頭でもお話ししましたように、この出エジプトは私たちの救い、そして天国に至る地上での歩みと合わせて語られることがあります。様々な経験を経て、神様を信じ、洗礼を受けた。大きな喜びがそこにはあって、もうこのお方から離れることなく、クリスチャンとして生きてここうと心が燃えていた。しかし、いざクリスチャン生活が始まっても、これまでのようにお腹は空くし喉は渇く。欲しいものは手に入らず、喜びとは程遠い生活が強いられることもあるでしょう。約束の地はどこにあるのかさえわからない中で、早速失望し、せっかく洗礼を受けたけれどこんなものなんだろうかと思うこともある。この時の民たちがまさしくそうであったのではないでしょうか。ようやく見つけた水場でしたが、喉の渇きを癒すどころか、体調まで崩してしまうといいますから、散々な結果なのでした。そんな民たちは、つぶやくのでした。

 

 24節、民はモーセに呟いて、「私たちは何を飲んだら良いのですか」と言った。三日前の彼らの喜びが偽りだったわけではありません。けれども、現実生活に直結する「足りなさ」に直面すると、その喜びは薄れてしまうのです。三日前、あの賛美の大合唱で歌った言葉に「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた」(13節)というものがあります。前回お話をした際には、これはまだ実現していないことだけれども、神様の約束されたことは必ず実現すると信じて歌った歌であるとお話ししました。恵みをもって、また不思議な力をもってエジプトの国から連れ出してくださったお方は、同じく恵みと不思議をもって約束の地まで導き入れてくださるということを信じているのです。しかしここでは、そんな神様に頼ることをしていません。モーセに呟いたと書かれていますから、助けを求めるというよりも、不平不満を漏らしたということなのです。実はこれからの旅の中で、何度も民たちはつぶやくのでした。助けを求める叫びはなく、主に信頼する祈りもなく、ただつぶやく。それは返事を期待しない、でも言わないではいられない自分の思いを吐き出す言葉です。ここでも答えを期待してはいなかったでしょう。何が飲めるというのですか、何にも飲めやしませんよ、というようなニュアンスがある批難の言葉です。

 喉の渇きや腹の飢え、これは彼らの生活においてなくてはならない、重要なものがないということでした。その足りなさは確かに切実なことであります。それは確かにそうでしょう。しかし、時にそのことが全てになってしまうことが私たちには多くあるのです。同じく荒野で、サタンの誘惑に遭われたイエス様のみことばをなんども味わいたいと思います。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」有名な御言葉ですが、実はこれはイエス様が初めて教えられたのではなく、すでに旧約聖書からの教えでした。まさしく、この出エジプトの旅の中でイスラエルの民たちが示されたことだったのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」。パンを求めてはいけない、現実のものが何一つなくてもいいと言っているわけではありません。パンだけで生きるのではないと言われていることの意味をかみしめたいのです。次回それはいよいよ明らかにされますが、本日の箇所でもそれは言われていることです。確かにパンは大切です。水がなければ生きていけません。そのように私たちにはどうしても必要だと思われることがたくさんあります。しかし、ときにそれに惑わされて本当に必要なものを見失ってしまうことがある。そうであってはいけないのです。まさにここにこそ、神の民としてふさわしく生きるときに整えられなければならないものがあったのでした。マラの地での苦味は決して無駄なものではなく、この約束の地への道のりの最初に置かれていたことにはやはり意味があるのです。私たちは何を頼りに生きていくのか。

 民のつぶやきを受けたモーセは主に叫び、ひとつの解決の道を示されました。25節前半、モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。教会の歴史の中で、たびたびこの箇所は特別な木であるとされ、一体どの木がこんな不思議な力を持っているのかを議論されてきました。また、この木は十字架の予型であり、十字架によって人生の様々な苦味が甘く素晴らしいものに変えられるという解釈もなされてきました。面白い読み方ですし、確かに聖書全体を読めばそう言えるでしょう。しかし大切なのは、この節の後半部分の意味だと思います。その所で、主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。つまりこの箇所では、日常の足りなさに目を奪われつぶやく民たちを神様が試みられたというのです。「おきてと定めを授け」とあります。しかし十戒を始め、さまざまな律法が与えられるのはまだ先です。一体ここではどのような「おきてと定め」が授けられていたというのでしょうか。先ほどお読みしました25節前半、「一本の木が示された」という言葉。この示されたというのは「トーラー」というヘブル語が使われています。これは多く「律法」とか「教え」と訳される言葉ですが、そもそもは「示された」という意味があるのです。この箇所を読むならば、私たちが考えがちな冷たいイメージを伴う律法以上の意味が込められている。つまり、祝福と救いに至るために「示された」ものが、本来の「トーラー」であると言われていることに気づかされるのです。時代が下るとそれは歪められ、人が人を裁く道具として用いられてきてしまいます。しかし、そもそもは人々の苦しみを癒し、苦みを甘くし、喉の渇きを潤すためのものを神様は「示された」のであります。それを踏まえつつ、補い教えているのが26節だと言えるでしょう。そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何ひとつあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」この木自体に何か特別な力があるのではなくて、示されたこと、トーラーに関して「主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、主の命令に耳を傾け、主のおきてをことごとく守る」ことこそ、神の民として最も重要だと教えるのです。贖われた者が神の民にふさわしくなるためにどうしても必要なもの。そのようにいうことができるでしょう。

 

 聖書は人間の真の姿を、割り引くことなくリアルに描き出します。たった三日であの驚きと喜びを忘れ、感謝を忘れ、主に信頼することを忘れてしまった罪人である民たち。先週私たちはイエス様の十字架の場面、ペテロが三度イエスを知らないと言った箇所を共に聞きました。数時間前までは「死にまでも従います」と豪語したペテロは、自分で自分のことが全くわかっていない愚かさを持っていました。数時間後には自分の自信なんて粉々に砕かれてしまうような弱さを見せつけます。にも関わらず、イエス様は、そんな弱く愚かなペテロに愛の眼差しを注ぎ続けておられるのです。旧約聖書、神の民として整えることを諦めずに律法を与え、忍耐を持って語りかけ続ける神様も同じであります。いやそのために、「あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました」と言われるお方です。弱く愚かで罪深い人間の全ての営みにおいて、神に依り頼むことがどんなに大切であるのかをこの旅の間中、「示し続けて」おられる神様。神の民であるイスラエル、そして私たちは、日常の不足に何度もつぶやきます。マラの地での試みの中で神様を忘れてしまうのです。けれども、その試練を通して、私たちはつぶやくことではなく新たに神様に近づき、神様を信頼し、神様に委ねていくことを学ばなければいけない、そのように思わされています。

 

3. 神のいやし

 信頼するときに、神様は癒してくださるお方です。苦みを甘くし、喉の渇きを癒し、日常のあらゆる不足を満たしてくださるお方である。エジプトに下したような病気とありますが、一つには、あの出エジプトの際にあった疫病をはじめとする諸々の災いと見ることができるでしょう。しかしさらにいうならば、神の民が解放されたエジプトエジプトの病とは、私たちを捕らえる罪の病、罪から生み出される様々な苦しみや不安や悲しみであると言えるのではないでしょうか。そのすべてを、神様は癒してくださるお方なのです。主に信頼することを新たに示された神の民たちはエリムにつきます。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。十二の水の泉と七十本のなつめやし。さきほどのマラとは比べ物にならないくらい豊かな水が用意されていました。神様はエリムというオアシスを与え、民たちの渇きを癒し、そのつぶやきを静めてくださったのです。イスラエルの民はこの恵み豊かな様子をひとつひとつ数えたのでしょう。「数えよ主の恵み」という賛美を思い出します。ひとつひとつの泉、一本一本の木を、神様の恵みとして数えている様子を思い浮かべます。確かに私たちの生活では多くの困難があります。それは洗礼を受け、クリスチャンになったとしても変わらないものかもしれません。多くの足りなさはあり、それをつぶやきたくなる、マラの地の苦味を経験するのです。けれども、そのような試みがあるのと同時に、エリムの地での祝福も、私たちの旅路には確かに用意されているのだということを覚えたいのです。神様は苦しみだけを与え、人々をいたずらに試しふるい落すようなお方ではありません。主に信頼する道を示し、神の民としてふさわしくされることを願っておられるお方ですから、そのためのマラの試練もエリムの休息もある。それをこの箇所、第二部の最初で教えられているのでした。

 もう少し付け加えて言いますと、このエリムは決してゴールではありません。あくまでも、旅の途中にある休み場です。先に用意されている神様の約束の地の祝福、喜びは、こんなものではないのです。間違いなく民にとってはこのエリムは喜びであり癒しでありますが、あくまでも荒野の中での喜びであり癒しです。神様が用意されている本当のゴールの前味に過ぎない。カナンの地は、乳と蜜の流れるところとしてその豊かさを表現されています。さらに私たちが信仰の歩みを続けた先にあります天の御国を、ヨハネは御使いに示されました(黙示録22:1-2)。まさに癒すお方である神様の約束される地がここにあるのです。この約束の地に至るために示された「おきてと定め」、主に従うということを、私たちは日々の生活の中で重ねていきたいと思うのです。

 

4. まとめ

 最後にしますが、中心聖句を詩篇第一篇のみことばにさせていただきました。まことに、その人は、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。マラの地を通る時は私たちの人生において確かにあります。けれども、私たちはやがて与えられる約束の地を信じつつ、この地上で与えられるエリムの豊かさを感謝して数えながら、地上での歩みを続けていくことができるのです。神様と神様の言葉に信頼し従うこと。それは泉のそばで生き生きと力強く生命力あふれて生きる木々のような豊かさを与えてくださいます。このことを第一に求め、新しい週の歩みを始めてまいりましょう。