イエスの眼差し

■聖書:ルカの福音書2254-62節       ■説教題:『イエスの眼差し』

■中心聖句:…群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。   マタイの福音書936

 

1. はじめに

 先程お読みいただきました本日の箇所は、聖書の中でも極めて印象的な場面、多くの作品の題材になっているものです。最初に3枚の絵を見ていただきたいと思います。(説明/レンブラント、カールブロッホ、ジョルジュ・ルオー)。細かい解説などはできませんが、本日の説教題にもさせていただいたように、この三たび、イエスを知らないと言ったペテロに向けられた、イエス様のまなざしについて教えられたいと願っています。先ほどの絵は、それぞれの画家が、このイエス様の眼差しをどのように受け止めているかを表すそれぞれの信仰の現れであるように思います。悲しみを帯びた顔であり、哀れみに満ちた目であり、あるいは厳しさを持った眼差しである。皆さんはこのイエス様の眼差しをどのように思い描くでしょうか。

 

2. ペテロの弱さ 

 イエスの弟子たちの中でも最も近くで旅を続けてきたリーダー格のペテロが、イエスを三度知らないという箇所です。イエスの弟子たちで裏切り者といえばイスカリオテのユダが真っ先に浮かびます。十二弟子の一人でありながら、銀30枚でイエスを売り渡した人物。ですからユダは、キリスト教以外の場所でも裏切り者の代名詞のようになっています。しかし本日の箇所を読みますと、このペテロもまたなかなかなことをしていることに気づきます。しかもこれは四つある福音書、すべての記者が書き記している事柄ですから、極めて重い、大切な箇所でもあります。ルカはこれでもマイルドな書き方をしているようですが、ほかのマタイやマルコの福音書を読みますと、「イエスなんて知らない」と否定するときに、呪いまでかけて誓っています。もしイエスを知っているのに偽りを言ったのなら私は呪いでもなんでも受けると、極めて強くイエスとの関係を否定しているのです。もちろん嘘です。でも、そこまで強く否定しなければならなかったほどに彼は恐れていたのです。この少し前、同じ22章の31節以下では最後の晩餐の席での話ですが、ここでイエス様はシモン・ペテロが今後どのようになるのかをお話になっておられます。シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ふるいにかけるというのは、試みを受けるということ。サタンからの困難な試練があるとイエス様は予告されている。「立ち直ったら」とありますから、あなたは倒れてしまうと言われ、いわば失敗が予告されているのです。その試練の中でつまずき、地面に這いつくばってしまうだろうと言われている。ペテロはすぐさまそれを否定します。シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」自分の弱さは見せたくないものです。お前はこれから失敗すると言われていい気持ちをする人はいないでしょう。いや、自分は大丈夫だという自信もあった。周りにいた弟子たちの手前もあったかもしれません。更に少し前には、もうあと少しでイエス様が捕らえられ十字架に連れて行かれてしまうのに、「この中で誰が一番偉いだろうか」という見当ハズレの議論をしていたとありますから呆れたものです。でもここにこそ、彼らの、そして私たちの的外れな認識があらわれているようです。イエス様が世に来られた大目的ともいうべき十字架が間近にあるのに、目先のところにとらわれ、周りと比較して自分の位置付けを気にしている。だから自分の弱さを見せるのは嫌なのです。それは私たちも同じなのではないでしょうか。弱みを見せないように、強さを誇るように生きている。それが私たち人間なのです。しかし自分を誇ってそんな失敗はしないと強ぶるペテロにイエス様は語られます。34節。そして数時間後には、そのようになるのです。

 私たちは今朝、与えられているこの箇所から神様の言葉を聞いてまいりますが、これは決して信仰の弱い臆病者のペテロの出来事ではなくて、私たちの中にも確かにある罪の弱さであるということをまず受け止めたいと思います。自分でも自分のことがわからない、人間の愚かさと言ったほうがいいかもしれません。裏切ったのはユダやペテロだけではありませんでした。そもそもユダやペテロのほかの弟子たちはどうしたか。一人を除いて、イエスの裁判が行われているこの場所にいることさえできずに、イエスが捕らえられた現場からバラバラに逃げ出していたのです。民衆たちも数日前まではイエスを救世主として褒め称えていたにも関わらず、ここに至っては重罪人として罵詈雑言をぶつけるのです。そこかしこに裏切りイエス様への拒絶があったのがこの夜でした。自分は大丈夫、死ぬまで従います!その時には自信満々だったペテロは、自分がどのような存在なのかをわかっていないのです。わずか数時間後にはそれは打ち砕かれますがそれがわからない。しかしそれは彼だけではなく全ての人がそうなのです。自分のことでさえわからない。本当にはわかっていないのに、わかっているかのように自分を誇り、自分を頼りに生きているのです。ですから失敗するときは非常に脆い。自分を頼りにしている人は、そこにひびが入り倒れてしまうと、もう立ち直れない。よくわかりもしていない自分を中心にしていることであること、それが非常に脆い存在であることを改めて覚えたいのです。イエス様に従いきれないペテロの弱さや愚かさは私たちのうちにある弱さ・愚かさですし、他の人を恐れて不安になるペテロの臆病は私たちの臆病なのです。

 

 しかし、その弱さ、愚かさにこそイエス様は振り向き、眼差しを向けてられるのです。言い換えればそれは、私たちの罪、またその弱さに向けられたイエス様の眼差しでもあります。イエス様は私たちをどのように見ておられるのか。私たちはこのお方にどのように見られているのか。もっといえば、それは聖書全体が教えています神様が私たちをどのように見ておられるのかということにもなるでしょう。神様に見られている。この言葉を聞くとき、大抵の人が、「だから悪いことはできない」とつながるのではないでしょうか。私だけだったら困るのですが、お天道様が見ているという言葉も、だから誰が見ていなくても悪いことはできないというように捉えられているのだと思います。多かれ少なかれ、人は心に闇と言いますか陰を持っていて、それは人には見せたくない、見せられないもの。まさに太陽の光に耐えられないような闇、きたなさを持っていることの裏返しにように思います。そして大抵の場合は、それは自分でよくないもの、悪いものだとわかっていながらも、どうしようもない類のものであります。ペテロにとってもそうだったでしょう。もちろんそんなことを考える余裕はなかったと思いますけれども、自分がしていることが決して良いことだとは思っていないわけです。この箇所のペテロは多くの迷いが現れています。そもそも一度は逃げ出しながらも、自分に追っ手が来ないことがわかってここまでこっそりついてきたのです。逃げたままでも良かったが、でもやっぱり大好きなイエス様がどうなってしまうかを心配していたのです。火を囲んで座っていたとありますが、別の福音書には立っていたとも書かれています。どっしりと腰を据えて構えていたのではなくて、立ったり座ったりしていたのかもしれません。とにかく落ち着かない。落ち着かないけどイエス様について生きたい気持ちもある。でも信じきれない臆病な自分もいる。人の心は複雑です。正論はわかるけれども、よくないのはわかるのだけれども、手放せない、手放したくない、そのような弱さを誰もが持っているではないでしょうか。神様を信じて生きたいけれども、神様から目を反らせようとする罪の性質は強く、目に素晴らしく映るから、私たちの心は揺れ動くのです。

 

3. 振り向くイエスの眼差し

 そんな私たちの罪と弱さに対して振り向かれたイエス様の眼差しはどのようなものだったのか。それを知るために大切な箇所を1箇所開きたいと思います。今週のみことばにもありますマタイの福音書936節です。35-36節は、イエス様の地上のご生涯で何をされたのか、要約のような箇所です。まず35節、それから、イエスは、全ての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。教え、福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。わずらいというのが病気と区別されてわざわざ言われています。ですから体の病気以上の、様々な体の不調、不具合、不安などがこめられているのでしょう。そんなあらゆる煩いを癒される。それは御国の福音を述べ伝えることと同時に現れているのです。どんなに医療が発展し、経済が成長し、科学が進歩したとしても癒せないわずらいがあります。それは現代を生きる私たちもよくわかっているところ。それを御国の福音を述べ伝えることでこれがイエス様の宣教の姿でした。そのイエス様の眼差しが、36節です。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。イエス様の元に集まってきた人々は、確かに病気の人も多くいましたが、それだけではなかったようです。あらゆるわずらいを癒されたとありますが、体は健康でも、様々な思い悩み、思い煩いをかかえてやってきた人々がいたのでしょう。誰にもどうすることもできない悩みや不安を抱えて生きている人が、イエス様の元に来たのです。肉体は元気でも、社会的には成功していたとしても、その心には多くの不安がある。いやそれにも気づかないで、自分は大丈夫だと思い込んでいるペテロのような人もいます。イエス様はそのような人々の姿を、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」と見ておられるのです。羊飼いのない羊はとても弱く、危なっかしい存在です。自分たちはそれに気づいていないで、お腹が空けばあっちにフラフラこっちにフラフラしますし、少し怖いことがあれば後先考えずに逃げ出すものです。爪も牙もないので自分を守ることはできませんから、格好の餌食です。たくさんの仲間に紛れることで、なんとか安全を確保しているのでした。もちろん群れから離れた羊は狙われてしまいます。イエス様の目には、人々はこのように映っていたのでした。羊のことを本当に心配してくれて、守ってくれて、導いてくれる羊飼いが必要なのだと、あわれみの眼差しで見ておられるのです。あわれみというと、抵抗感を覚える方もいるのではないでしょうか。それは、強者が弱者を上から見下ろす目線のようなイメージがあるからです。ペテロもそうでしたが、自分の弱さを認められない私たちにとって、それは嫌なのです。見下ろす、別の読み方をすれば見下(くだ)す。自分の力で生きているつもりになっている者にそれに耐えられない。

 でもイエス様の眼差しは全く違います。上から下に向けられる眼差しではなく、まさに隣に立ち、寄り添ってくださるお方の眼差しです。かわいそうに思われた、という言葉、元々の言語では「内臓」という意味から派生した言葉で、内臓が引きちぎれるほどの痛みや激しさを伴う感情であると説明されています。人が人を見下すとき、まさにどちらが偉いかを話していた弟子たちがそうでしたが、自分の持っているものを誇り、相手の持っていないものを蔑んで上下関係を作ろうとするものです。しかしイエス様は、その人の持っていないものを自身の痛みとしてくださっている。それほどまでに、その一人のことを大切に思ってくださるのです。そもそも神であるお方であるのに、人として世に来られたことがそれを示します。神であるお方は、人の弱さをはるか高いところから見下ろしてあーしろこーしろと言われるお方ではなく、まさに私たちの弱さや汚さのど真ん中にまで降りてきてくださり、この自分でどうしようもない、気づいてさえもいない不安や悩みや痛みに寄り添ってくださるお方なのです。いや、さらにいうならば、私たちと同じようになられただけにとどまらず、本当だったら私たちは経験しなければならないさらに低いところでの苦しみを、すべて引き受けてくださったのです。あの処刑道具の十字架は、人々の価値観では底辺にあるものです。使徒信条では「よみに下り」と、さらに下にまで降られたと言われています。それはすべて、私たち、本当の羊飼いを知らずに弱り果て倒れている羊を助けるためなのです。イエス様の眼差しはいつもこのような愛に溢れた、私たちに寄り添ってなんとかこの愚かな私を、自分の足りなさにさえ気づいていない私を、助けようとしてくださる眼差しなのです。

 

4. イエスの眼差しに刺されたペテロ

 もう一度、ルカの福音書、あのペテロに向けられたイエス様の眼差しを思い出したいと思います。このあと、兵士たちに引かれて行ったイエス様は十字架にかけられますが、そのとき、弱く裏切ったペテロを振り向き、見つめられた。ペテロはそれを見て泣きました。主のことばを思い出して泣いたと言われています。激しく泣いた。あれだけ人の目を気にしていたペテロが、恥も外聞もかなぐり捨てて泣いています。泣かないわけにはいかなかった。そのまなざしに刺されたのでした。それは、決して彼の弱さ、愚かさを非難するような眼差しではなかった。なぜ裏切ったのか、ほら見たことか、なんて厳しい断罪の眼差しではなかったのです。全てをご存知の上で、そんなペテロの弱さに寄り添われたイエス様の眼差しです。ただ目線を向けただけではありません。その眼差しに刺されたペテロが思い出したイエス様のお言葉、数時間前に聞いていたことばです。それはペテロの失敗を予告したことば、だけではなかった。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」裏切り者のために、自分で自分のこともわかっていない愚かな者のために、祈ってくださる。このあとイエス様は十字架にかけられます。その十字架上での言葉は、まさに、自分でも自分のことがわかっていない弱く愚かなペテロ、そして私たちに向けて語られた言葉であると言えるでしょう。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」。こんなにも愚かなもののためにとりなしてくださる。身代わりとなってくださる。

 ペテロを再び立たせたイエス様の眼差しと祈りがありました。大号泣したペテロ。普通だったら、もうたちなおれないでしょう。自分の力を誇り、自分の力に頼り、そうやってでしか自分の居場所を定められない人は、この失敗に耐えられないのです。イエス様の眼差しが、彼の弱さを指摘され、断罪するような厳しい眼差しだったなら尚更そうです。しかしイエス様の愛の眼差しは、ペテロの弱さをご覧になったのと同時に、その先にあるものまでご覧になっていたと思うのです。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と言われ、それに続けて「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と続けられます。弱さや愚かさの全てをご存知の上で、なお私たちを愛し、その愛を届ける器として遣わそうとしてくださる方がおられます。「わたしの目にあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」と言われる神様は、昨日も今日も変わることなく私たちに愛をそそぎ、まことの羊飼いとして私たちを導いてくださるお方です。このお方の愛の眼差しを、いつも覚えて歩んでいくことができますように。