後悔と悔い改め

❖聖書箇所  第二コリント7章8節~13節        ❖説教者 川口 昌英 牧師 

◆(序)悔改めるということ

   私たちの悔い改めが本物であるかどうかを見分けるしるしがある。それは、感情ではない。又ことばでもない。本当に高ぶりが砕かれているかどうか、実際に悔い改めの実を結んでいるかどうかである。悔い改めとは、自分の罪を認め、生きる方向が変わることである。幸いな人生は、真の悔い改めから始まる。いつも言うように、罪は、単なる悪い行いではない。生かされ、愛されているのに、創造主に背を向けて無視している生き方のことである。

 

 少しでも早く、自分の罪に気づき、一人子を惜しまないほどに愛してくださった神のもとに、方向を変えて帰ることが大切である。その悔い改めから新しい人生が始まる。

◆(本論)後悔と悔い改めは違う

 ①悔い改めのように見えるが、中身が全く違うものがある。後悔、世の多くの人が行なっている、世の悲しみである。表面的には、うなだれ、悲しんでいるように見えるが、聖書の悔い改めではない。なぜなら、罪そのものよりも、罪によって起こったこと、生じたこと、或いは失ったことを悲しんでいるからである。例えば、おかした行いによって、以前、自分が持っていた他の人々との良い関係、寄せられていた信頼、評価など、失ったものを悲しんでいる姿である。聖書に出てくる人物として、イスラエル初代の王、サウル(Ⅰサムエル記15章30節)やイスカリオテ・ユダ(マタイ27章3~5節)などをあげることができる。この人々は、自分が行ったことによって、自分に起こったことを悲しんでいるにすぎない。この「世の悲しみ」は何も生み出さない。 むしろ、さらに絶望をもたらすだけである。実は、今も、多くの人々が同じことをしている。自分がしたことについて、あんなことをしなければ良かった、あんなことをしたために自分は、もう終わりだと思っている。

②大切なのは、神の御心に添った悲しみである。悔い改め、主が人に対して求めておられる罪に対する悲しみである。  

 真に自分の中に深い罪があることに気ずいている、主に対して自分が罪人であることを認めている。コリントの教会の人々は、姿勢や具体的行いについて指摘を受けても、初めは、自分たちを正当化し、悔い改めが必要であることを認めようとしなかった。しかし、聖霊の導きにより、段々と罪の事実を認識し、その中心にあるものを深く見つめた時に、それらは、自分たちの内側から出ていること、自分たちがなお罪によって生きていることに気ずき、砕かれ、悔い改めた。

 特別に神に選ばれ、愛されていたが、ふとした心の緩みが起きたときに、神に背き、重大な罪をいくつもおかしたダビデもそうであった。彼は、預言者ナタンから、あなたは神の前に大きな罪をいくつもおかしたと指摘された時、自分自身が罪人であることを悟り、高ぶりが粉々に砕かれ、立場も面目もなく、心から神の前に罪を告白し、悔い改めた。(詩篇51篇) この「神のみこころに添った悲しみ」をするとき、救いの人生、生まれ変わった新しい生き方が始まる。            

 

 ③御心に沿った悔い改めについて考える時に考えさせられる事例がある。ドイツの教会の罪責告白(シュトットガルト罪責宣言) である。ドイツの告白教会は、敗戦直後、1945年10月「……大きな痛みをもって、われわれは告白する。われわれによって、限りない苦難が多くの諸国民や諸国にもたらされたことを。われわれは、われわれの教会員たちに対して、しばしば証しして来たことを、いま全教会の名において発言する。われわれは、たしかに、長年にわたりナチ的暴力支配 の中にその恐るべき表現をとってきた精神に反対して、イエス・キリストの御名によって闘って来た。しかし、われわれはわれわれ自身を告発する。われわれは、もっと勇敢に告白しようとしなかったこと、もっと誠実に祈ろうとはしなかったこと、もっと喜ばしく信じようとはしなかったこと、もっと熱烈に愛しようとしなかったことを……」と悔い改めの声明を出した。 

   日本の教会の殆どが属した日本基督教団統理、富田満が敗戦直後、「われらのまこと、信仰が足りず、天皇、国に報いることが出来なかった。」と言ったことに比べて、ドイツの教会は、自分たちの罪責を真剣に考え、告白している。(参考までに、日本の教会、教団によって本格的な罪責告白がなされたのは、戦後22年経った1967年である。)そんな日本の教会からすると、ナチス体制の崩壊直後、即座に罪責告白をしたドイツ教会の場合、宗教改革の伝統に立つ歴史を感じるが、その罪責告白の内容については批判されることがある。

 600万人にも及ぶユダヤ人や、障害者虐殺について、教会の責任 、その重大性について指摘せず、結果として黙認したことについて一言も触れていないこと、自分たちの罪を「もっと …しなかった」と比較級で言い表しているのは、果たして自分たちが本当に罪をおかしたと認めているのだろうか。曖昧ではないかと批判されることがある。                            

 ちなみに、ドイツ教会闘争の中心的メンバーの一人であったボンヘッファーは、敗戦時、既に処刑されていたが、彼は、ドイツ全体が勝利にわいていた1941年当時、敗戰の4年前に、 教会の罪についての考えを表明している。彼は、教会を被害者的立場に置かない。何故なら、キリスト者は、特別の恵みを知っているからという。罪を理解するのはキリスト者だけであり、教会のみであると考えた。                 

 ボンヘンッファーは、クリスチャンは、おかした罪を一般化するのではなく、罪を示している十戒によって、一戒づつ何らの留保、言い訳なしに認識すべきとする。こうして、 第五戒「殺してはならない。」によって、「教会は告白する。ー教会は残虐な暴力の気ままな行使、無数の罪なき者たちの肉体的、精神的な苦難、弾圧、憎悪、殺人を見ながら、彼らのために声をあげず、彼らを助けるために急いで行く道も見いだそうともしなかった。教会は、もっとも弱い、身を守るすべを持たないイエス・キリストの兄弟たちの生命が失われたことに対して罪がある。」事実を認め、それについて誠実に罪を告白すべきとした。

  わかりにくかったかもしれないが、すばらしいと思われているドイツ告白教会の悔い改めから知り得るのは、人は、たとえ、罪を言い表している場合にも一般化、曖昧にしようとするということである。それらは、自分の罪を絶対的な基準の中でなく、比較の中で自分の罪を受けとめようにしている姿である。厳しいことを言うかも知れないが、世の悲しみではないか。   

 

◆(終わりに)悔い改めと新しい人生  

 ドイツ教会の罪責告白から分かるように、真剣に罪を告白しているように見えても曖昧にしようとすることがある。或いは、日本の教会、教団が長い間、そうであったように全て仕方がなかったのだ、私たちは、被害者なのだと思い、それゆえに自分たちの罪そのものを認めないということがある。しかし、そこからは何も生まれない。その悔い改めは、みことばがいうような悔い改めではない。そこには主がおられない。思惑があるだけである。したがって生きる方向も変わらない。ただ、他の人と比べる人生が延々とつづくのみである。多くの人々は、人生を比較と考えている。私の人生は、他の人々と比べてましなほうだと考え、生きて行こうとしている。しかし、人生は比較ではない。一人びとり、神の前に立つ、自分の生涯について問われるとみことばは明らかにしている。

 

 あの取税人(ルカ18章9-14節)のように、ただ主のまえに悔い改める者になろう。この人は、自分の生き方を誰かと比較したり、罪をおかしたことによって、起きた事柄を悲しんでいるのではない。ただ、罪人である自分、自分の内側深くにある罪を悲しみ、悔い改めている。その姿を神はよしとされ、義と認められた。そこから真の新しい人生が始まったのである。