主は私の力、私の救い

■聖書:出エジプト記151-21節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:主に向かって私は歌おう。…主は私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。… (出エジプト記151-2節)

 

1. はじめに

 本日与えられています御言葉は、神様によって救われた者の「喜びの歌」、「勝利の賛歌」であり、同時に、聖書中最も古い賛美と位置付けられることがあるものです。この歌にはイスラエルの民達の救われた喜びが歌われていて、救いとはどのようなものなのか、救ってくださったお方がどのような方なのかが、あふれる喜びとともに歌われているのです。この救いの喜びを歌った賛美は、前半後半に分けることができるものです。それは私たちにもたらされる救いの二つの側面であるということができるでしょう。一つは、ただ主の憐れみゆえの救いであるということ。1-12節まで、特にこれまで読み進めてまいりましたエジプトでの苦難からの解放、奴隷からの自由、悲しみからの喜びが歌われていたところであります。しかしこの救いの歌はそれで終わるのではなく、13-18節の後半では解放された者が、さらに約束の地、私たちが本来帰るべきところに迎え入れられる喜びをも歌っているのです。この二つの側面を特に見て参りましょう。

2. 前半部分 〜救われた喜びの歌〜  

 早速、与えられている箇所を見ていきたいと思いますが、まずは前半部分です。ここでは、「あわれみのゆえに、エジプトの苦難からの救われたこと」が歌われています。まず1節はそこで」と始まっています。直前の1430-31節を読みますと、「主はその日、イスラエルをエジプトの手から救われた」、「そこで」、主に向かって賛美をささげた、とつながるのです。しかし、「そこで」という一言ではつなげきれない思いもありました。すんなりエジプトの奴隷から解放されたわけではなかったのです。特に彼ら自身の想いの中には、助け出そうとする神様の手を拒むような心があったのでした。海を割って進む直前、はっきりと、イスラエルの民の不信が描かれています。1411節からは、前には海、後ろにはエジプトの大群が迫り来る中で、恐れ惑い、そして神様とモーセに怒りをぶつけるイスラエルの民の言葉があります。彼らはずっと信じ、従い続けてたわけではありませんでした。それどころか、余計なことをしてくれたとさえぼやいていたのです。にも関わらず、目の前の海は裂け、乾いた地を歩いて進み抜け、後ろに迫っていた世界屈指のエジプト軍は滅び去った。これは自分の、自分たちの力ではないと言うことを、誰よりも、この歌を歌うイスラエルの民達が実感していたのです。ただ主のあわれみのわざであることを思い知らされた。1節の後半には「主に向かって私は歌おう」とする理由が歌われますが、この歌は一貫して、神様のなさったことだけを歌っています。この出来事を偶然と見るか神のわざと見るか、それは大きく違っています。自然現象が重なり、海辺の浅いところをとって行っただけだという研究者がいます。津波が来る前に波は一旦引くから、そこを通って行ったのだなどと、なんとか説明しようとするのです。けれども、それが確かに主のなされたことであると信じる者は、ただただひれ伏し、主をあがめ賛美するだけなのです。他の何物も問題ではなくなります。11節にあるように、他にはいない。このお方だけだと気づくのです。

 では、ほかにはだれもいないようなくすしいわざをなされるお方は、「私」にとってどのようなお方なのでしょうか。救われた民は歌います。2-3節、主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主は私の力。繰り返しになりますが、このエジプトからの大脱出が自分たちの力によるものではないことを、だれよりも彼ら自身が知っていました。自分自身は弱く疑い深くても、自分を導き出してくださったお方が力あるお方であることを知ったのです。そして、「私の救いとなられた」と続けます。ヘブル語ではイェシューアーといって、旧約聖書でヨシュア、そして新約聖書ではイエスの名前の元になる単語です。昨年のクリスマスの劇では、幼稚科の子どもたちが元気よく、「イエス、主は救うと言う意味」と歌ってくれましたが、それと同じ言葉がここで使われているのです。改めてイエスの名前に込められた救いの力強さを覚えます。不信仰の民を、海を割って助け出すほどの救いが表されているのです。ここで注目したいのは、「主は私を救われた」とは言わずに、「私の救いとなられた」と歌われていることです。主は私の力と歌われているのと合わせて、とても力強い響きを感じます。主はどこか遠くから見守っていて、事あるごとに助けの手を伸ばし、救ってくださる。もちろんそのように言うこともできますが、もっと直接的に、このお方こそが救いであると歌っているのです。詩的な表現に過ぎないと言われるかもしれませんが、何か私たちが苦しんでいる問題に解決が与えられること、脱出の道を示されることそのこと自体が救いなのではないと言うことです。私たちはそのように考えがちですし、そのような救いを求めがちです。しかし、このお方こそ救いそのものであり、この救いであるお方とともに生きることこそ私たちにとってなくてはならない「救い」であると言うことを歌っているのではないでしょうか。

 さて、ここまで前半部分で歌われている「民の救い」について見てまいりました。改めて、救われるとはどういうことでしょうか。エジプトの奴隷であったイスラエルの民たちが救われたと歌うのは、あの強大なエジプトからの救いであり、自分たちを捉え苦しめていた奴隷状態からの解放でした。彼らがぼやくように、エジプトにいても生きながらえることはできたでしょう。苦しみを負いながらも、食べるものはあったし飲み物はあったからです。けれども、神様から離れていた。そこに本当の奴隷状態の問題があったのです。本物の平安はなく、自由もなかった。そのままではいけないと神様は見ておられ、何としてでも救い出そうとされるのです。奴隷制度がない現代日本においても、すべての人は神から離れ、罪の奴隷となっています。神様を知らずに生きている私たちは、それゆえに自分の生きる意味を見出すことができず、生きる先に何の希望も見いだせず、自分の力だけで生きていました。無条件には自分の価値を見出せませんから、目に見える成果や成功で自分の位置を確認して喜んだり悲しんだりしている。自分は愛されているんだということを知らないので本当の安心を得ることができず、人を愛することができずに苦しんでいる。神から離れた全ての人がそうなのだと聖書は教えるのです。しかし、そんな孤独な私たちのために、主が手を差し伸ばし、わたしはあなたを愛していると呼び、寄り添おうとしてくださるのです。私たちは弱くとも私の力、私の救いそのものとなってくださったお方が、あなたが生きるのはそっちじゃないよと、力強い御腕を持って助け出してくださったのです。ただそのあわれみ、愛のゆえに、助け出されたと深く感じるからこそ、感謝の歌を歌うのでした。

 

3. 後半部分 〜約束の地への到達〜

 しかしこの救われた民の歌は、ただ過去を歌って終わりではないのです。13節以降の後半では、救われた民たちが見ていたものが歌われていますが、13節に要約されています。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。奴隷の鎖を打ち砕き、閉じ込められていたエジプトから脱出させた。しかしそれで終わらずに、導き、聖なる御住まいに伴われたと歌うのでした。

 少し細かいことですが、「伴われた」という言葉は完了形、すでに起こったこととして書かれています。しかし、海を通って出て来たばかりの彼らにはまだ実現していない未来のことです。ですからある人々は、後の時代に作られたものをくっつけているのだと説明しています。ところが聖書を読んでいると、神様の将来の預言を、すでに実現したこととして書かれている箇所は非常に多くあります。未来のことであっても、それは神様が言われたことなのだから必ず実現すると信じ、あたかもすでに実現したかのように歌っている。一つの信仰の形と言えるものです。もう無理だと思ったあの窮地からも脱出させてくださった神様が、この先も導き、約束の地へと導き入れ、救いを完成させてくださる。それを信じ「伴われた」としているのです。

 「あなたが贖われたこの民」。この前半で喜び歌った救いには、代価が払われたということがわかります。無償で救われたわけではなく、犠牲があったのです。イスラエルの民のために、子羊の血が流されました。そして、私たちの罪からの救いのためには、イエス様が十字架にかかり、苦しみを受け、血を流され、確かに死んでくださったのです。罪人である私たちが流さなければならなかった血を、経験しなければならなかった苦しみを、その死を、すべて身代わりとなって引き受けてくださり、十字架を負ってくださったのでした。肉体は生きながらえていたとしても、罪を抱えたまま滅びゆくことを良しとはされなかったのです。そうして払われた犠牲によって、私たちは神の元に買い戻されたのです。これが贖うということでした。そうして買い戻されたイスラエルの民を、恵みをもって導き、エジプトを倒されたその御力をもって、聖なる御住まいに伴われるのです。買い戻された者たちが向かう先は、「聖なる御住まい」とあります。これは約束の地であるカナン、そしてエルサレムの神殿とも考えられますが、「神のみもと」と考えるのが聖書全体の理解にあっていると言えます。興味深いことに、この「御住まい」と訳されている言葉、本来は「牧場」を表す言葉だそうです。「牧場に伴われる」と聞けば、詩篇23篇を思い出します。「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に付させ、いこいの水のほとりに伴われます。」伴うとは「側に立ち、手をとって導く」という意味です。あなたを一人では行かせずに、ともに進んでくださる。雲の柱・火の柱がイスラエルの旅でいつもともにいたように、インマヌエルと呼ばれるイエス様がおられるように、もう一人の助け主慰め主である聖霊によって私たちを一人にはさせないと言われたように、神様は贖われた者を贖って終わりにはさせず、約束の地まで、私たちが本当に安らぐことのできる、ご自身のみもとにまで連れ戻されるのであります。先ほど、主は救いそのものであるとお話ししましたが、このお方と共にいるならば、たとえ問題の渦中にあったとしても、まさしく前方に海、後方に軍隊のような絶体絶命の状況であったとしても、そこにこそ救いがあるのです。エジプトからの解放、苦しみからの解放だけでなく、この牧場に伴われるということまで含めた「救い」がもたらされたのだ! その喜びが、この歌全体で歌われているのでした。

 この「聖なる御住まい」こそ、「あなたはどこにいるのか」と探される罪人が帰るべき場所でありますし、「神とともに生きる」という聖書が教える救いの全体像を歌っている賛美であると言えるでしょう。迷える一匹の羊、この羊は弱く愚かですから、自力で帰ることはできません。やがては弱り果てて死んでしまう。しかしこの愚かな一匹さえも愛をもって探し出される主は、その羊を緑の牧場に伏させ導かれる。23篇の続きをお読みします。主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

 さらに黙示録では、この救いの究極的な完成として新しい天と新しい地が訪れると言われています。そこで要となっているのは、やはり、神が共におられるということでした。「神の幕屋が人ともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかり拭い取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と言われるのです。これはやがての日のことですが、本日の賛美と同じく、神様が約束しておられる確かなこととして、信仰をもって必ずなると信じ、歌いつつ待つ者でありたいと願います。

 

4. 神様の愛に基づく変わらない約束 へセドの愛

 あらためて、この救いの歌の土台にあるものは何かを覚えて終わりたいと思います。再び13節、神様は贖われた私たちを「恵みをもって導き」、御住まいに伴われるとあります。ここで「恵み」と訳される言葉は、ヘブル語ではヘセドといい、旧約聖書中で非常に重要になる言葉です。このヘセドは、恵みや愛、いつくしみとも訳されますが、その他に「誠実」という意味を持っています。このヘセドで表される愛や恵みは、神様の思いつきや気まぐれで注がれるのではなくて、契約に基づく愛であり、神が約束に誠実であられるゆえに与えられる恵みであるということを意味しているのです。何が言いたいかと言いますと、この変わらない約束に伴う変わらない愛が、このイスラエルの民にも、今の私たちにも与えられているということです。あのアブラハムが信仰の一歩を踏み出した時、神様が約束されたことは、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。この約束から始まったイスラエルの民を神様は守り、導いて来られた。エジプトの中にあるときにも助け出し、バビロンの支配からも帰ることができた。そしてその祝福は広く世界中に広げられ、イエス様の十字架は私のためであったと信じる信仰のゆえに神の子どもとされた私たちにまでもたらされているのです。この約束と、約束に基づく神様の変わらない愛があるから、しばし苦しみの中を通ることがあったとしても、人生に失望することがあったとしても、私たちは絶望することなく歩み続けることができるのです。契約の愛、と聞きますと、結婚式の誓約を思い浮かべます。「健康の時も病いの時も、富める時も貧しき時も、いのちの日の限り」絶えず愛すと誓われています。これは神様に押し付けられた誓約なのではなく、まず神様がそのように人を愛してくださったのだから私たちもそのように愛し合うというものであることを覚えたいのです。「たとえ山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」(イザヤ54:10)と神様は言われます。この変わらぬ愛があるから私たちは、どんなときでも賛美できるのです。私たちの感情によらず、環境によらず、とこしえにかわることのない神様を見上げて、とこしえに変わることのない愛の約束のゆえに賛美ができる。約束されているものを信じて喜び、歌うことができるのです。

 

5. まとめ

 イスラエルの民たちは、愛されるのにふさわしい相手ではなかったでしょう。約束ということを言えば、何度も約束を破って来たものであります。私たちだってそうです。しかし、私たちがまだ罪人であった時に、私たちが求める前から私たちを知って愛してくださり、私たちのために死んでくださり、救おうとしてくださるお方がおられる。このとこしえに変わることのない愛のお方を仰ぎ見つつ、新しい週の歩みを、喜びの賛美を歌いつつ歩んでまいりましょう。お祈りします。