新しい愛に生きる

❖聖書箇所 ローマ5章6節~8節         ❖説教者 川口 昌英 牧師

 

◆(序)この箇所について

 教会の記念日を定めている教会カレンダーによると、本日が主が十字架の死を受けるためにロバに乗ってエルサレムに入場した時に、人々が棕櫚の葉を敷いて迎えた棕櫚の聖日、そして今週が受難週、来週日曜日が死より甦られた復活記念日、イースターである。

 大切な受難週礼拝の聖書箇所としてローマ5章6節~8節を開いているが、ここには、聖書の中心である神の御子の十字架の死の意味がはっきりと言われているからである。 

 再三話していますように、私はこの箇所、特に8節によって、信じたいと思いながらもなかなか決断できなかった最後の迷いや疑いが除かれ、心の扉を開くことが出来、救いの恵みを知ることができた。

 パウロは、神が与えてくださった福音について、他の箇所において、それは人間が経験的に知らない「目が見たことがないもの、耳が聞いたことがないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(第Ⅰコリント2章9節) 人知をはるかに超えたものであると言っているが、本日の箇所は、その神の愛とはどのようなものであるのかをはっきりと伝えている個所である。

 さて、このところにおいて著者パウロは、神の愛について非常に分かりやすい表現をしている。人の愛と比較している。誰もが知っている人の愛との比較によって、私たちに与えられた神の愛がいかに大きく深いものであり、信頼できるものであるかを示している。二つの点で、神の愛は際立っていると言う。一つは、その愛が向けられている対象である。もう一つは、そのために差し出している犠牲の大きさについてである。では順を追って見ていく。

◆(本論)神の愛の二つの特徴

①神の愛が人の愛と根本的に違っている特徴の一つは、その愛の対象である。7節後半に記すように、人間社会においても、情け深い人のために自分を犠牲にして死ぬ人が時折りいる。以前に恩義を受けた、深くお世話になった人のために、つぎは自分が犠牲になることである。著者パウロは、人は、ある程度の愛を持つことができると認める。他の人のために自分の命をも捨てる存在だという。決して、愛することができない存在とは言っていない。一定の愛を持っていることを認めながら、神の愛は人の愛と根本的に違っているという。弱い者、不敬虔な者(6節)、罪人(8節)を愛する愛だとという。

 よく言うように、人の愛の中心にあるのは、繋がりとか理由がある「…だからの愛」と言うことが出来るのに対し、神の愛の中心にあるのは、繋がりとか理由がない者、ないどころか反対の存在を愛する「…けれどもの愛」である。弱い者「誘惑されやすい、神に従うことができない弱い者」、不敬虔な者「清くない、汚れた生き方をしている者」、罪人「神、創造主、又その御心である律法を無視、否定し、自分の欲に導かれた生き方をしている者」を愛する愛である。

 そんな神の愛は、人の罪を贖うために救い主として世に来られたイエス様の行動からはっきり知ることができる。主イエスについては、コロサイ1章15節「御子は、見えない神のかたちであり、…」又19節「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」とある。人となられた神ご自身である。主は、当時の宗教指導者たちと全く違う行動をしている。当時の人々から厳しく非難され、蔑まれていた取税人、遊女、又汚れた病気と思われた人々など、「地の民、塵の民」と思われた者や、辺境の民たちを受け入れ、救いに導いている。それらの一人ひとりは神の目には、「高価で尊い」かけがえのない存在であるとご自身の愛を示されている。ご自身が語られたように「罪人を招き」「失われた人を捜して救うため」に来られたことを明らかにした。

 さらに、主の愛が向けられた対象として忘れてはならないのは、主を激しく否定し、憎み、殺害の意に燃え、遂に十字架にまでつけた者たちに対してもあわれんでいることである。勝ち誇り、十字架上の主を嘲っている者たちに対して、主は、十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分で分からないのです。」(ルカ23章34節)と祈っておられる。 

 本日の8節の「罪人であったとき」とは、上で見たように指導者から除外されていた人々だけでなく、高ぶり、自分は正しいとまことの神を否定する者たちのことでもある。神様の側はそんな傲慢な高ぶっている者でも大切に思い、一方的に愛してくださり、十字架刑まで忍ばれた。

 たとえ不敬虔な生活をしていても、神に背き続ける罪人であっても、一人ひとりはかけがえのない、神によって命が与えられ、生かされている存在であるからである。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられるのです。」(Ⅰテモテ2章4節)という通りである。 神の愛の対象には本来、例外がない。それなのに、自分のような者は神から愛されていないと思い込むのは、人の側が、社会や自分の考えとして神の愛を制限し、例外を設け、高くて厚い壁をつくっているからである。

②神の愛が際立ち、いかに人の愛と異なっているか、確かで信頼できるものであるかを示しているもう一つの特徴は、その愛のために最高の犠牲が払われていることである。参考までに、人の愛についても真実なものであるかどうかを見分ける基準の一つとして、そのために何を犠牲にしているかが言われる。中身が伴っているかである。一人ひとりに命を与え、生かしておられる神は、罪人、神を無視し、背いている人を罪より贖う、罪と死の支配より救いだすために、愛するご自分の御子を人の罪の身代りとして、残忍でむごたらしい、苦痛と屈辱に満ちた十字架刑にまでお渡しくださった(ヨハネ3章16節)。マタイ21章33節以下の譬えにあるように、最も大切な息子さえも送ったのである。 

 

◆(終わりに)新しい人生

 明治の頃、実際にあった事故が基となった、三浦綾子さんの小説「塩狩峠」の主人公、長野政雄さんは、汽車が雪の塩狩峠にさしかかった時、連結が外れ、下りを逆走し始めた最後尾の客車に乗っていた。鉄道会社で働いていたが、信徒伝道者として休日は、北海道各地で伝道をしていた。その日も伝道集会の帰りであった。しかもその日は、長い間、病気療養中だった女性が回復し、いよいよ結納を交わすという日であった。もう少しで、婚約者が待つ町に到着するという所で異変が起こった。長野さんが乗っていた客車の連結が外れ、坂道を逆走し始め、それに気づいた乗客が大混乱になった。坂の下にはカーブがあり、脱線、転覆が確実であった。鉄道会社の社員でもあった長野さんは、友人と共に客車についている手動のブレーキで暴走をとめようとしたが、勢いがついており、どうにもならなかった。 

 恐怖にかられた乗客たちの混乱が最も達した時、突然、客車が激しい衝撃を受け、鈍い動きをした後、停まった。おそるおそる客車から降りた乗客たちが目にしたのは、雪の上の真っ赤な血であった。長野さんが、友人が必死に止めるのを振り払って前方から飛び降り、自分の身を投げ出し、我が身を犠牲にして、乗客たちを救ったのであった。これは実話である。

 

 驚くべき行為をした長野さんの人生に大きく影響していたのは、主が人の罪のために十字架で死に、三日目に甦られたという主の福音であった。罪なき神の御子が、人の罪の身代わりとして十字架にかかり、罪の裁きを受け、死なれ、完全に罪の刑罰を支払い、三日目に甦られて罪と死に対する勝利を与えてくださったという福音であった。長野さんは、この神の愛を知っていた。そして、恐怖で混乱している乗客を救うために我が身を犠牲にしたのであった。こんな人はいない。神の愛を知った者はそのようにすべきというのではない。この神の愛を知る時、人は根本から変もえられ、喜びと平安と希望が与えられることを知り、その愛を知って欲しいのである。