栄光、御位を捨てて

❖聖書個所 ヨハネの福音書1章14節~18節      ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。           ヨハネの福音書1章18節

 

❖説教の構成

◆(序)この箇所を取りあげる理由

 教会暦によると、今年は、来週日曜日から、罪と死の支配の中にある人を贖い、神の子とするために、人となられた神の御子が十字架の死を受けた受難週に入る。本日の箇所は、クリスマスの時に開くことが多いが、人の罪を贖うために、世に来られた御子の姿を聖書全体から伝えているとても大切な箇所である。

 

 ここに出ている「ことば」の意味については諸説あるが、直前の13節までに明らかにされているように、創世記のはじめに対応する、世界を創造し、治め、人を深く愛しておられる神の御子である。ご承知のように、ことばという単語は、新約聖書が元々書かれた言語であるギリシャ語ではロゴスという言葉であるが、ギリシャ語でロゴスという場合、単にことば、ものごとを表すという意味に留まらず、宇宙全体を摂理をもって支配している方とかすべてを創造し、治めている方という非常に重要な意味がある。本日は、その方の中心がよく出ている十字架を控えた時の主の姿を見ていく。特に、約半分を占めるほど十字架の姿について詳しく記すヨハネの福音書と十字架の場面について詳細に書いているルカの福音書を中心として見る。

◆(本論) 直前の一日の出来事

①ヨハネは、十字架を控えた、主イエスの地上の最後について、弟子たちとの夕食の場面から記している。主は、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られ」「世にいる自分の者たちを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」と記す。

 そして、弟子たちの足を洗ったことを記す(13章3節~16節)。 迎えた客の汚れた足を洗うために水をだすこと、時にその足を洗うことは、その家のしもべの務めであった。ところがここでは、主である方が最後の時に、腰に手ぬぐいをまとい、膝を折り、身をかがめ、弟子たち、実はこの中には既に主を裏切っていたユダもいたが、彼らの足をたらいで洗い、手ぬぐいで拭うことを行ったのである。途中、ペテロが驚き、やめるように言い、諭された時、主に対して手も頭も洗ってくださいと願ったというひとこまもあったが、主は、最後の一人まで弟子たちの埃まみれの足を黙々と洗われた。そして、それを終えてご自分がしたことの意味を話されている。(13章12節~15節) 人々のために仕えるために世に来たこと、特に十字架の死のことを前もって示している。

 

②その後、主は、通報するために出て行ったユダを除く弟子たちに愛をもって語っている。14章から16章。全部読むならば、十字架を控えた主の御思いがよく分かる。後で時間をとって読んで欲しい。

 この時、主は大切なことをいくつも言われている。まず14章、天に行かれた後、信ずる者たちを迎えておらせる場所を備えること、ご自分は人が神のもとに行く唯一の道であり、父なる神と一体であること、更に主が去った後、もうひとりの助け主である御霊が与えられることについて語っている。そして、15章、ご自身がいなくなった後でも主の愛の中にとどまり、そして主が愛したように互いに愛し合うこと、人が主を選んだのではなく、主が人を選んだこと、そして16章、再びご自分はいなくなるが、もうひとりの助け主であるすばらしい御霊が与えられることについて切々と語る。

 

③これらの教えの後、17章において信ずる者たちのために、主は、大祭司の祈りと言われる祈りをささげている。ここにおいて主は、ご自分に与えられた神の御わざ、人を完全に永遠に罪と死の支配から救い出すことを行う時が来たこと、信ずる者たちを神の御名の中に保つこと、彼らが神の民として守られるように、又神にあって一つとなり、この世において主の栄光を現すことが出来るようにと切々と祈っている。特に信ずる者たちが一つとなることを五回も繰り返している。

 

④その祈りの後、主は、過越の食事をした家を出て、弟子たちを連れてエルサレム郊外のオリーブ山、ゲッセマネの園に行き、父なる神に「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりにして下さい。」と苦しみもだえる、汗が血のしずくのように落ちる祈りをささげられた。(ルカ22章42節、44節)  

 その時、裏切ったユダに率いられた一隊の兵士と祭司長、バリサイ人から送られた役人たちがともしびと武器とを持って現れ、弟子たちと小競り合いになった。しかし、主ご自身が「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ26章52節~54節)と言い、捕らえられている。

   それから事態は急展開した。主を捕えた者たちは、夜が明けるのを待たず、議会の責任者である大祭司の家に連れて行き、すぐに主を裁くために議会を招集し、取り調べをしている。彼らにとって大切な過越の祭り、その日、金曜日の夕方から特別の大いなる安息日が始まる前に全て終わらせ、汚れないようにしたいという思いの表れであった。異例の取り扱いであった。そして、議員であるイスラエルの指導者たちは、慌ただしく「イエスを死刑にするために協議し」(マタイ27章1節)、「私たちには、だれを死刑にすることも許されていません。」(ヨハネ18章31節)とローマ総督ピラトに速やかに引き渡し、「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」(ルカ23章2節)と強く訴えている。何としてもこの日のうちに主を死刑にしたい、取り除くという強い思いに溢れていた。そして心が定まっていなかった総督ピラトに圧力をかけ、死刑、十字架刑をくだすように追い込んでいる。

 

◆(終わりに)人のために十字架を忍んだ主

 神でありながら、人の罪を贖うために世に来た主の十字架直前の姿から見えるのは、弟子たちを極み、最後まで愛した姿であり、また進んで敵に捕らえられている、まっすぐに十字架刑に向かっている、さらにはご自分を十字架刑につけた者たちのためにさえ祈っている姿である。

 主は、弟子たちのように信じる者ばかりでなく、自分こそ正しいとして、主を犯罪人として十字架刑につけた者たちのようでも、一人ひとりは本来、神によっていのちが与えられた神の目にかけがえのない存在としてご覧になっておられる。それほど、人間の罪を深く悲しみ、救いたいと願っておられる。

 

 いつも言うように、元々の十字架は美しいものではない。残忍でむごたらしい、特別に苦痛を与える死刑の方法である。この残忍な死刑の方法を主は、罪によって支配され、本来のいのちを失っていた人を救うために忍んでくださったのである。ヨハネ1章16節~18節では「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みのさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」と言われている。愛されるにふさわしい、清い人々を救うために世に来られたのではない。自分でどうすることもできない弱さを持つ者、反対に自分の罪にも気づいていないほどに高ぶっている者を救い、新しい人生を与えるために主イエスは、世に来られ、救いの御わざを行ってくださったのである。