誘惑、告発する存在

❖聖書箇所 ルカ4章1節~13節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

 

◆(序)①聖書は、サタンの存在を明言する。

 サタンと言うとおどろおどろしい印象があり、みことばを土台とする私たちは関わりたくない気持ちがあるが、実は聖書自体がサタンの存在をはっきり言っている。創造主である神に敵対し、人を罪と死の中にとどまらせ、生きること、永遠に対して希望を持たせないようにする、世の終わり、終末の時まで神に対立する存在がいると言う。

 なぜ、神が支配している世界の中に神に敵対するサタンがいるのかという議論があるが、聖書教理の確立に貢献したアゥグスチヌスは、始めから敵対していたのではなく、もともとは御使いであったが、高ぶり、堕落した存在であると言う。神に近くあったが、高ぶり、神であるように振る舞い、人に自由、思いのままに生きることがすばらしいように思わせ、神のもとから離れさせようとする存在と言う。私たちは、そういったサタンの働きを創世記3章、ヨブ記1章、2章などから知ることができる。

②サタンは、神のかたちにつくられた人の自由、主体性に働きかけ、罪の支配のなかに生きるように巻き込んだ(創世記3章)。その結果、人は、罪と死の支配に陥った。欲望の満足、また豊かになること、繁栄すること、あがめられること、評価されることを求め、そういうようにならなければ人生の意味がない、希望を持てないと考える者となり、死をひどく恐れるようになった。しかも、サタンの働きは、その時だけで終わっていない。罪と死の支配の中に生きるようになった人に対して、サタンは、一層、強い力を持つようになった。人の罪の性質、特に欲望のうちに働き、罪の行いをさせ、その根底において、人生に対する喜び、平安、希望を失わせ、恐れや不安、虚無の思いをもって生きるようにする。それゆえ、主はもちろん、使徒たちもサタンの働きに警戒せよと言う(第一ペテロ5章8節) 。その際、注意すべきは、それがサタンの働きだと分からないように人間の自由、主体性、誇りに働くことである。

 

 サタンはどのように働くか。そのサタンの方法が示されているのが、宣教を開始した主に対する誘惑の場面である。このところは現実の信仰生活を考えるうえにおいて大事な箇所である。

◆(本論)どのようにしてか(主イエスに対する誘惑の例)

①まず、サタンは、四十日四十夜、何も食べず、空腹を感じていた主に「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」と言っている。これは主を受け入れているように見せかけながら、隠された意図がある言葉である。主に対し、あなたは、救い主として、人の罪を贖うために、世に来たと言うが、人の問題は、例えば空腹が満たされるように、具体的な問題が解決されることである、神とか救いなど必要ないと言う。

 神の存在を否定、無視する生き方。人にとって大切なのは、突き当たっている具体的な問題が解決されること、それだけで良い、生きる目的とか永遠のいのち、真理や人生の意義など必要ないという考えである。サタンの究極の目的は、創造主という存在、一人ひとりを目的を持って生かし、深く愛している神などいない、又裁きを下す、人の永遠を決定する権威をもっている神などいないと人々に思わせ、無視して、現実のものばかり求めて生きるようにさせることである。生きるうえにおいて大切なのは、具体的に困難をもたらしている問題が解決されることであり、創造主を信ずること、神の国とその義を求めることなど必要ないと示すことである。

 そんな誘惑に対して、主はみことばを持って答えている。4節。マタイでは「『人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばによる。』と書いてある。」このパンとは、具体的な体のこと、生活の糧、社会的立場、人間関係のことである。生きるうえにおいてどれも大切なものである。誤解してはならないが、主は、これらを軽視しているのではない。人が生きるのはそれだけではないと言うのである。人が生き、真の意味で喜びや希望や平安を感じるのは、そのような「パン」だけでなく、神のみことば、神の愛によるという。

 人は偶然に生まれ、生きているのではなく、命が与えられ、目的と使命を持って生かされている存在である。人は創造主のもとに帰らなければ、他のなにものを持ってしても決して埋められない空白を持つ霊的存在である。

②このように応答した主に対して、サタンは第二の罠をしかける。5節~6節。(朗読) であるなら、自分にとって都合の良いものを神にしたら良いという。私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょうという言葉の、その中心にあるのは、利益をもたらすものを神にしたら良いという考えである。これも人に対する非常に根強い誘惑である。自分や自分の家族に利益をもたらすものを神にするという考えは、古今東西、世界中で溢れ、人々が親しんでいる神々である。日本に生きる私たちにとっても強いのは、自分たちを守る地域の神々や先祖を拝んだり、従うことである。この誘惑も簡単に退けることが出来るものではなく、本当に根強い。

 しかし、どのような巧みな誘惑であっても、主は、みことばを持って、自分たちに都合の良い神を造ってはならないと言う。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と書いてあると答える。神は唯一、創造主であり、全てを治め、全てを裁く権威を持つ、万物の存在の根源であり、目的であり、又人を深く愛しておられる方のみを崇め、仕えることが大切と明確に言う。

③第一、第二の罠も退けられたサタンが準備していた第三の誘惑も非常に巧みである。神を信ずること、真の神のみを礼拝することを言われたことに対し、主の答えに納得しているように見せかけて、根本から覆すような誘惑をしかける。9節から11節(朗読)。 この中心にあるのは、神を自分のために利用する信仰、生き方である。神を信じている人生を送るようにしながら、実態は自分のために神を利用する姿である。神を自分のためにしもべとしたり、執事、従者にしようとしている。そこには、罪を認め、悔い改め、全てを主に委ね、みこころに従うという聖書の信仰、御子キリストにある者の信仰の姿はない。サタンは、必死に最後の罠をしかけている。

 それに対して、主は再び、12節(朗読)でみことばを持って、そのような考えは誤りである、本末転倒であると言う。信仰の中心はあくまで神であり、信仰者は全てのことを働かせて益としてくださる神の御心の中で生かされている、全てを委ね、仕える存在であると明言する。

◆(終わりに) サタンは今も人を誘惑、告発している

 神に敵対する存在は、今も、人に対し、神を信じ、礼拝し、従う生き方から逸れさせ、離れさせようとしている。自分の自由、主体性を大切にして生きることが大事であるともっともらしい誘惑をする。

 サタンはほとんどの場合、すぐに分かるように働かない。人間の自由のうちに働くことによって、むしろ正しいように見える。現代の人間社会を映し出しているネットの書き込みなどその代表である。無記名ということがあるが、あからさまに他の人を軽蔑したり、裁いている。それをしている者たちは、自分たちは自由だ、正しいと思っている。しかし、それは、人の自由、欲望のうちに働き、罪と死のなかにとどまらせようとしているサタンに支配されている姿でないだろうか。エペソ2章2節に言う通りである。

 

 そんなことが横行している時代の中で、神の愛を知り、救われた私たちはどうすべきか。まず、信じていない人ばかりでなく、信じている者に対してもサタンは巧みに、光の御使のように働くことを知ることである。それゆえ、救われたとは言え、完全にきよくなったわけではなく、赦された罪人にすぎないことを知り、信仰の創始者であり、完成者である主から目を話さない生き方をすることが大切である。比較が強いところ。この世的繁栄が求められているところにサタンは働く。神のことばをもってサタンを退けた主のように、まことの神のもとに留まり、信頼して生きることが大切である。本当に砕かれているなら、いくら巧みなサタンでも我らの信仰生活を妨害できない。我々自身の力では打ち負かされる手強い、気をつけるべき相手であるが、主がそうされたようにみことばに立つならば、サタンは我らの前に立ちはだかることはできない。