主の開かれた道

■聖書:出エジプト記14章後半   ■説教題:『主の開かれた道』

■中心聖句:わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書146節)

 

1.  はじめに

 出エジプト記の中でもよく知られている箇所、海を割りイスラエルの民がそこを通り抜けて行く場面が与えられています。前に広がる大海と後ろに迫り来るエジプトの軍勢。それに挟まれたイスラエルの民は、前回の箇所で恐れ、怒りの声を神様とモーセに向けて叫びました。本日はその続き、私たちの想像をはるかに超えて働かれる神様のみわざを見て参りますが、多くの人に知られているこの奇跡、それは決して昔の出来事、遠いエジプトの国で起こった伝説的な出来事ではなく、今日を生きる私たちにも関わり、私たちのそれぞれの場での生き方を変える力強いものであることを教えられたいと願っています。    

2. 信仰の手を挙げる

 前回の箇所、恐れ惑う民に対してモーセは語りました。「恐れてはいけない、しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」前にはゆく道を塞ぐ大海、後ろには世界屈指の怒れるエジプト軍が押し迫っているイスラエルの民でした。その恐れに対して、モーセがこのように民たちを教え励ましました。「きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」。その救いがいよいよ実現するのです。

 それに続けて、本日の箇所で主がモーセに語られます。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。」あなたとはモーセを通して民達に語っていると考えられます。しかしどうでしょう。なぜと言われても、神様、そりゃ叫びたくもなりますよと言いたくなることがここでは起こっているのです。ここでの叫びは、だれもが経験しうるものです。私の叫びであるかもしれない。そんな私たちに、神様は「なぜ」と問われる。前回も少し触れましたが、湖の上を歩かれるイエス様。そのイエス様を目指して一歩を踏み出したペテロでしたが、結局波風を見て怯えてしまいます。そんな彼にもイエス様は言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:31)ここでも「なぜ」と問われています。私たちが抱える様々な不安や恐れに対しても、神様は「なぜ」と問われているとしたら、どう答えられるでしょうか?なぜ叫ぶのか、なぜ疑うのか。これは、なぜ信頼しないのか、なぜ平安がないのか?という問いかけにもなるでしょう。私たちの中にも四方八方が塞がれている状況を経験することがあります。この先どうなってしまうのだろうと不安になることもあるでしょう。なすすべなし、どうしようもない状況です。そんなときに、神様からの「なぜ」と問いかけられても、それに答えられる言葉を私たちは持っていないのではないでしょうか。なぜなら、神様は天地を創造された神であることを知っているはずなのに、そんな神様が共におられながらも叫ぶということは、不信仰に他ならないからです。「なぜ、信じないのか」と問われる神様に、私たちは自分自身の不信仰を見せつけられるだけなのです。あの最初の罪の時、「あなたはどこにいるのか」という神様の呼びかけにもアダムは答えることができず、隠れました。「なぜ」と問われる神様の呼びかけに答えることができないというのも、私たち罪人の悲惨な姿なのではないでしょうか。本来いるべき場所にいない、神様から離れてしまったみながそうなのです。

 しかし神様は続けて言われます。「イスラエル人に前進するように言え」。繰り返しになりますが、前進する先にあるのは海です。私たちの常識ではそれは行き止まり、塞がれた道です。もう引き返すしかないという現実がそこにあった。でも神様は、前進せよと言われる。エジプト軍は、わざわざ遠回りをしたり、引き返したり、海辺に宿営するイスラエルを見て、彼らは迷っていると考えました。その上前進するとしたら、もうヤケを起こして自暴自棄になったと考えたことでしょう。神様が示されたこの「前進」という道は、現実的には馬鹿げていると笑われてしまうようなものなのでした。「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上を差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。」常識を持ち出せば、こんなことはとてもじゃないけどできない。神様を信じてはいるつもりだけれども、これはちょっと無理だろうという思いを持つことがあります。海が割れるなんて、ましてやそこを歩いて通るなんて、見たことも聞いたこともありません。そんな前例のないことを信じる。

 いや、前例があるとすれば、これまでに神様がモーセを通して見せてこられた奇跡の数々です。全く同じことは見たことも聞いたこともなかったとしても、どんなに八方塞がりの危機的状況でもこれまで守り導いてくださったお方を信じ、疑うことなく従っていく。これまでにもよくしてくださったお方は、この現実のピンチにおいても、これから先が全く見通せない状況でも、必ずよくしてくださると信じ、信頼してこの身を委ねていく。神様はこの信仰の姿勢を求めておられるのです。くるりと向きを変えてエジプト軍に立ち向かっていく勇気や武力ではなく、知力を尽くしてこの現状を切り抜ける賢さでもなく、ただ信頼することを求めておられる。他の人から見たらこれは愚かなことです。そんなことよりすべきことはいくらでもあると考えてしまうかもしれません。そんな状況で手をあげる。これは本当に主により頼んでいる人でなければできない、信仰による行動です。そして、この信仰をもって従う時、神様の栄光が現されるのです。17-18節、見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがその後から入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」ここに神様の計画の全貌がありました。エジプトを出て近道を通らせなかったのも、わざわざ来た道を引き返させたのも、逃げ場のない海辺に宿営させたのも、すべてこの、神の栄光のためでした。いや、モーセが生まれたのも、エジプト王宮で育てられたのもそうです。モーセ自身の大きな傷になり、エジプトから離れざるを得なくさせたかつての失敗さえ、神様のみ手の中ではなくてはならないことだったのです。あるいは聖書全体を読むなら、あのアブラムが行く先もわからないまま信仰の一歩を踏み出した時から、この救いの計画は始まっていた。創造の時から、終末の、神の国の完成は用意されていたのです。かつてイスラエルの民を鎖につなぎ苦しめていたエジプトに完膚なきまでに勝利し、イスラエルに対してはまことに信頼すべきお方を知らせ、この真の主に信頼できる幸いを教える。イスラエルのように、その道の途中では主を疑い、主に叫ぶこともあるでしょう。その途上では神様の計画は分からず、なんで自分が、なんでこんな苦しみばかりの道を通らなければならないのだと心沈むこともあるのです。けれどもその先には、私たちの常識では計り知れない神様の栄光が必ず実現するのです。このお方こそ真の神であることを全世界が知り、何よりも私たち自身が知ること。神様の栄光を仰ぎ見、その御手のわざを賛美し、礼拝するのです。「あなたはどこにいるのか」と探され、「なぜ疑うのか」と問われる神様のもとに帰ることとも言えるでしょう。

 そして事実、そのようになるのです。21-22節、そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。主に信頼し、モーセは手を上げます。前には海が、後ろには軍隊が近づいていたとしても、天は開かれており、まことの神が道を開いてくださることを信じていたのです。そして事実そのようになった。彼らの進むべき道が開かれたのです。一方で、力に頼り、当時の最強を誇っていたエジプト軍は、元の状態に戻った海の真ん中に投げ込まれ、残された者は一人もいなかったとあります。主を信じる者と信じない者。両者は明確に分かれるのです。

 この出エジプト記を記したモーセは、再度イスラエルの民が主の開かれた道を通ったことを29節で伝えたのち、本日の箇所を次のようにまとめます。30-31節、こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。こうして、出エジプト記に一つの区切りをつけられているのでした。言うなれば、奴隷状態からの解放とエジプトへの完全勝利であります。それをモーセは「救われた」と言っています。これは「危機を回避した」程度の意味ではなく、まさにこの日、新しいいのちが与えられたということでした。もちろん、これまでにもイスラエルの民は生きて来ました。また、前回の箇所で彼らが叫んだ不平不満は、たとえ奴隷であってもエジプトの地で生きた方が良かったということです。けれどもここで救われたとは、ただ単に生き延びるという意味ではなく、本当の自由を手に入れた者のいのち、その鎖は打ち砕かれ、主の民として生きていくことができる自由。それがこの日与えられたのです。

 

3. 主の開かれた道 〜私たちのバプテスマ

 さて、この海を割りかわいた地を進んだイスラエルの民、そしてエジプトからの救いは、聖書の様々な箇所で覚えられています。たとえば詩篇の詩人はこの出来事を歌い継ぎます。66篇、さあ、神のみわざをみよ。神の、人の子らになさることは恐ろしい。神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。また106篇、主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深海の底を。さながら荒野を行くように。主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。水は彼らの仇を覆い、そのひとりさえも残らなかった。そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。このような箇所は本当に色々なところに出て来るのです。

 しかし今朝特に覚えたいことは、冒頭でも言いましたように、これはかつてあった伝説的な出来事、程度の話ではないということです。言い方を変えれば、聖書はこの救いの出来事を過去の記念碑のように記しているわけではなく、今生きている、自分たちとの関わりの中で教えているのです。イザヤ書51章では、この出来事を次のように言います。海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。10節)イザヤという人の預言の言葉です。当時のイスラエルの人々がこれを聞けばあの代々伝え聞いて来た出エジプトの際に何が起こったかを思い出すことができました。しかしそれを覚え、懐かしがって終わりではないのです。これに続けて、イザヤの時代の背景にあった八方塞がりの状況、あのバビロン捕囚からの解放をも、出エジプトを成し遂げられた主が必ず与えてくださると待ち望む姿を見せているのです。…主に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。出エジプトの出来事、海をわり、かわいた地を通り、エジプト軍を滅ぼされたことで現された神様の栄光はあの時だけのものではなく、今日の私たちの苦しみをも打開してくださるのだと信じているのです。あの日民を助けてくださった神様が、今の私たちを助けてくださらないはずがない。いや、神様がこれを伝えるようにイザヤにことばを預け、わたしが助けると励ましてくださっていると言った方が良い。民にとって、これは単なる過去の出来事ではないのです。現在も同じ神様が共におられ、海を割るほどのお方が私たちを導いてくださるという大きな力になっていたのです。

 さらにこれは、イスラエル民族だけの話ではなく、私たちにとっても大きな意味を持つことです。しかも、力強い神様がともにいてくださるだけではなく、この神様によって、すでに、道が開かれているというのです。新約聖書、コリント人への手紙第一101-3節。そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちは皆、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。パウロは、あの出エジプトのわざはバプテスマ、イエス様と共に死に、イエス様と共に生きるあの洗礼であると言います。罪にがんじがらめになっていた私たち、自分の力ではどうしようもなかった苦しみ、最後の敵である死さえも、イエス様の十字架によって打ち砕き、新しいいのちの道を開いてくださった。その道は信仰によってこのお方を受け入れた時に開かれる道です。このお方と共に生きる人生を始めるならば、私たちはこれまで見たこともないような、主の開かれた道を歩むことができる。イエス様の言葉を思い出します。ヨハネ146節。少し前から読みますと、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。…わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり、父のみもとに来ることはありません。」最後の晩餐の席で、イエス様はこのように語られました。また山上の説教では、いのちに至る門は狭いのだとお話になっています。道であるイエス様を通してでなければ、私たちを縛り付ける本当の問題である罪から自由になり、私たちを苦しめ悩ませる様々な壁を打ち壊し、いのちを得ることはできないのです。身代わりとなってくださったイエス様の十字架を通してでなければ、まことのいのちに至ることはできないのです。

 

4. おわりに

 目に見える海が割れ、その乾いたところを通るという奇跡。これは確かに驚くべきことです。しかし、私たちには、私たちのために死んでくださり最後の敵である死にさえも勝利してくださったお方がともにおられ、そのお方が開いてくださった道を進むことができる。あの誰もが驚く奇跡と遜色のない、どころか、もっと大きな救いが与えられているのです。モーセは神に遣わされた神のしもべでした。しかしイエス様は、まことの神であるお方です。このお方と固く結びつくバプテスマを私たちは受けているのです。まさに新しいいのちが与えられ、新しい人生がここに始まっている。そのことを、いつも感謝する者でありたいと願います。本日は聖餐式があります。先ほどのコリント書には、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。これは出エジプトの旅の中で与えられたマナと、岩を叩いた時に出た水であると考えられます。救われた後もなんども失敗する民でしたが、彼らはこれを食し、喉の渇きを癒すときに、救いを与えてくださった神様が今も共におられ、生かされていることを覚えたはずです。私たちの聖餐式もそのようなものでありたいと思うのです。私たちのために十字架にかかり死んでくださったイエス様。その道はすでに開かれています。「なぜ叫ぶのか、疑うのか」と問われても答えることのできないような弱く汚い罪人を愛し抜かれた、その愛はすでに現されています。それを何度も覚え、主の開かれた道を歩むことができる幸いをいつも刻みつけて、新しい週も始めてまいりましょう。