最も深い罪

❖聖書個所 ローマ人への手紙1章18節~23節   ❖説教者 川口 昌英 牧師

  

◆(序)この箇所について

①このところは、現実世界を理解するうえにおいて重要な意味を持つ箇所です。18節の始めに「というのは」と理由を説明することばがありますが、内容から考えると16節、17節との繋がりよりも、むしろ15節「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」を受けて言っているものと思われます。

 不義を持って真理を阻んでいる人々、神に背き、真理の生き方を妨害する人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている、明らかに示されている(ローマ2章6節) から、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいというのです。

 

 

②そして、神の怒りが啓示されている理由が19節で言われています。第三版では、二版の「なぜなら」から「それゆえ」と変えられており、分かりにくくなっている印象があります。ちなみに2017版では「なぜなら」も「それゆえ」もなく分かりやすくなっています。

③20節も天から神の怒りが啓示されている理由です。19節をもっと詳しく説明しています。神の、目に見えない本性 (人間の理性、経験では捉えることができない性質、全てを造り、治め、裁く方であること) と神性 (神の存在) は、創造された時から今に至るまで、自然や人、動物、植物、鉱物を詳しく見るならば理解できるのであり、彼らには弁解の余地はないと言うのです。

 

④21節、このところも第二版「というのは」から「それゆえ」に変えられています。理由を説明するものから、結果を示すものに変わっているのです。弁解の余地がないことを行っている結果として、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、却って、反対にその思い、生きる中心はむなしくなり、喜びも確信も持たない、その無知な心は暗くなった、一番大切なことを認めようとせず、生きる道が分からなくなったというのです。

 

⑤22節、23節は、このように全てを造り、治め、裁く権威を持っておられる真の神に背き、自分を中心にするようになった人は、神そのものをも自分に合うもの、自分に都合が良い神を造ると指摘しているところです。

⑥以上、この箇所を要約すると、著者パウロは、ローマの人々に、人間の最も根本的な罪を知らせ、それに対して神の怒りが示されている、それゆえ、私は16節、17節に言うようなすばらしい福音を伝えたいというのです。

 

◆(本論) 最も大きな罪

①まず、神の怒りとその理由を詳しく見ることにします。18節から21節。神の怒りは「不義をもって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不正」、その中心にある「神について知られることは、彼らに明らか」であり、また「神の永遠の力と神性は、世界の創造の時からはっきりしており、弁解の余地がな」いにもかかわらず、「その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くな」っている生き方に対して向けられていると言うのです。

 具体的にどういう人々のことでしょうか。当然、ローマの教会に宛てられていますから、ローマ人に見られる考えを想定していると思われます。ローマは、帝国の基盤に、個人の尊厳と個人の裁判請求権~社会的正義を尊重する思想~を有するローマ法とローマ市民権を強調し、さまざまな人種、民族をまとめる合理的考えの国でしたが、こと宗教については、非常に人間的な傾向が強く見られたのです。さまざまな宗教を持ちこみ、やがて周知のように、皇帝崇拝を行うようになっています。不思議です。他の面では非常に合理的な考えをする人々が宗教や信仰に関しては、その合理性を全く欠落させているのです。新しく伝わったキリスト教を通して、唯一真の神、創造主を知ることが出来、或いは、被造物を通して全てを造られ、治めている真の神を認めることができたはずであるのに、無視し、反対に信じる者たちを蔑んだのです。現代日本でもそういう姿は日常的に溢れています。真の神、創造主を認めようとせず、その信仰をむしろ一神教、狭い考え、対立を招くとして否定し、自分たちの考えに合う神々を少しの疑いを持たず、拝んでいるのです。

 こういう人々に対する神の怒りとはどういうものでしょうか。まず、生きている時について、21節「かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くな」ると言います。生きる喜びを持てず、虚無的に生き、希望を持てないことです。これは実は、真の神に背を向け、無視して生きる者への神の怒りであり、裁きなのです。人間関係でも相手を裏切るなら、自分も喜びを無くし、心の深くに苦みを覚えるのです。それは、裏切る者の代償です。神も同じように神を無視する者に対して人の生涯から喜び、平安、希望を奪う怒りを与えるのです。

 神の怒りについてもう一つ、死後について、非常に分かりやすく示されている箇所があります。ルカの福音書16章19節~31節です。よく知られているラザロと金持ちの例話です。極度の貧しさの中でも神を恐れて生きたラザロと、神を恐れず、崇めないで生きた金持ちの物語です。主イエスは、この中で恐ろしいことを指摘しています。生きていた時の姿に応じてなされる裁きは永遠に変わらない、永遠にハデスから逃れられないと指摘します。真の神を無視するならば、生きることに対しても、又死後についても本当に恐ろしい神からの怒りを受けるのです。

 

②最も深い罪は、神を造ること

 続いて、パウロは、人間の最も深い罪について語ります。真の神を無視する必然的結果、自分たちに合う神々を造ることです。22節、23節です。しかし、これは自分たちを根底から問い直し、真の幸いに導くことを願ってのことではありません。むしろ、偶像の中心は貪りと言われているように、自分たちの現状を肯定し、今、持てるものをもっと豊かにしてくれる神々です。古今東西、人の世のすべての神々に共通しています。そして、その究極にあるのは、自分中心ということです。これは、どれだけ荘厳に、厳粛に見える神々であっても、人間の最も深い罪です。律法の中で最も重要な十戒の第一戒、第二戒に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんなかたちをも造ってはならない。」とあります。

 けれども、古来より、世の人は、自分たちの神々を造り、それを罪と思っていないのです。しかし、このことほど真の神、全てを創造され、今も全てを治めておられる神の前に大きな罪はないのです。人にとって一番大切なのは、神の国とその義とをまず第一に求めることです。

 

◆(終わりに)怒りと祝福

 

 本日は、神の怒りが向けられている事実とその理由、そしてその行き着くところ、自分たちに合う神々を造ることについて見て来ました。注意すべきは、その場合、偶像は実際の神々に限らないということです。家族、仕事、趣味、友人、これらも偶像になりやすいのです。マタイ10章37節には家族について言われています。(朗読) 何故なのか、愛が歪むからです。人は、神を第一にすることによって、家族を愛することが出来るのです。仕事も学びも友人も同じです。神を第一にすることによって良い仕事、学びが出来、良い関係を持てるのです。偶像を造って、又造ったはずの偶像に縛られて、神の怒りをうけないようにすべきです。最も大切な神を第一にすることによって神からの祝福を受ける道を歩む人生を送ろうではありませんか。