信仰の友

❖聖書個所 ローマ人への手紙14章1節~12節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

                           ローマ人への手紙14章7、8節 

❖説教の構成

◆(序)この個所について

 義とされた者としての生き方です、このところにおいて共に信仰生活を送っている信仰の友との関係がとりあげられています。置かれている場、遣わされている場において、キリスト者同士との関係が力になり、支えになるからです。特に同じ群れに属している者と主にある良い交わりを持っていることが大切であるといわれています。実際の教会生活で傷ついているなら、誰も遣わされている場において主の証し人となり、キリストの香りを放つことなど出来ないからです。

 

   そのために最も注意すべきことは「弱い人」(人間的に弱い人という意味ではなくて、信じているがまだ成熟していない、霊的に弱い人)を受け入れることだと言います。食物、特別の日を守ることを例にあげて、互いに相手の確信、主張を侮ってはならないし、また裁いてはならないと言い(1節~6節)、その理由を述べています。(7節~9節) そして、それにも拘らず、信仰の友を裁いたり、侮るなら、全てを見ておられる神の前に特別に問われるという厳しい扱いを受けるというのです。(10節~12節)

◆(本論)交わりにおいて大切なもの

①それぞれ遣わされている場において、キリスト者として生きる時、信仰の友との良き交わりがなされていることが何故、大切なのか。それは互いに神の愛を具体的に感じ、現実のクリスチャン生活の支えになるからです。信仰の友と良い交わりを持っている時、私たちは力を受けます。

 私はこういう経験があります。信じて直接献身の思いが強くなってきた頃、しかし、一方においてこれで良いのだろうかと不安な思いを持っていた頃、教会の皆さんが祈ってくださっていることを実感した時、段々と自分の進む方向がはっきりし、不安が取り除かれたということがありました。主を知らない頃には経験したことがない不思議な感覚でした。それまでは、一旦決断してもそれで良かったのか、その選択で間違いなかったのか、いつも不安がありましたが、祈られていることを実感した時、確かな平安と確信が与えられ、この道を進もうと心から思うことができました。おそらく、皆さんも同じような経験をしたことがあると思います。置かれている場で難しい問題が起こり、どうして良いか分からなくなった時に、それをともに主の前で、祈ってくれている人々がいることを知る時、平安と力が与えられるのです。このように、信仰の交わりは、互いのキリスト者としての生活にとって力となる大切なものであるという認識のもと、使徒は、良い交わりを実現するために気をつけるべきことを指摘します。それは「信仰の弱い人を受け入れ、その意見、考えを裁いてはならない」ことです。具体的にどういうことでしょうか。

   世俗的雰囲気が強く、また大きな偶像の神殿があったコリントの教会に宛てられた書簡の中でこの14章と同じことがよりはっきりと分かりやすく言われていますから、そこを見ることにします。第一コリント8章です。ここでは偶像にささげられた肉を食べてもよいかという問題が取り上げられています。コリントの町で偶像にささげられた肉が市場に流通し、一般の市民生活に入り込んでいたのです。そしてそれが教会の中で大きな問題になったのです。ある者たちは、影響力を持っているように見える偶像もあくまで人間が作ったものであり、恐れる必要はない、従って偶像にささげられた肉を食べても少しも問題ないと考えたのに対し、ある者たちは、偶像であるが、霊の働きであり、現に人に深い影響を与えているのであり、そんな偶像にささげられた肉は食べてはならないと争いになったのです。そうして、教会の交わりが裂かれた一つの理由になったのです。 それに対して、パウロは、自分は知識としては世の偶像というものは、人が造ったものであり、実際にはないものであること、従って、それにささげられた肉だとしても食べても何の問題がないと分かっているが、弱い良心の人、ついこの間まで偶像を信じていて、まだ影響から抜け出していない、成熟していない、とらわれている人たちのことを思って、つまずきとならないように決してそのような肉は食べないと言うのです。知識だけなく、愛によってものごとを受けとめ、行動しているのです。本日のローマ14章も表現は違っていますが、同じ考えに立って、良い交わりを持つためには良心の弱い人を受け入れ、それぞれの確信を尊重することが大切だと言うのです。

 

②そして、その理由を述べています。つまずきを与えないということの他に、そう考えるのは、本来の、クリスチャンとしての生きる目的と死の目的が深く関係していると言います。(7~9節) このことばは、起きている事柄にとらわれて、心も頭もいっぱいになっている者のすべてをリセットします。そして、救われた目的、目指すべき目標を深く意識させます。

 とかく信仰の友との関係が複雑に絡み合う、例えば一時問題になったペンテコステ系の聖霊の働きを特に強調するような人との交わりなどですが、そういう時、私たちは、神の御子の十字架の死と復活という特別の憐れみ、恵みによって神のみもとに迎えられ、永遠のいのちが与えられているその絶対的な恵みを忘れて、あたかもその問題が信仰生活の全てかのように思いやすい者たちですが、この7~9節はそんな人々の意識を強烈に目覚めさせます。自分は何のために生きているのか、そしてどのような死を迎えようとしているのか、もう一度原点に立つように迫ります。

   実は、パウロでさえも信仰者たちから非難されました。「パウロの手紙は重味があって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりはなっていない。」(Ⅱコリント10章10節) しかし、7節、8節のように、福音を知ってから、すべて福音のために生きていたパウロにとって、そんな非難はどうでも良いことだったのです。福音のために生き、福音のために死ぬというビジョンは、どんな大嵐の中でも光を指し示す燈台のように、今いるところを分からせ、行くべき方向を照らし出したのです。主は、このみことばによって私たちにも同じように語っているのです。

 

◆(終わりに) 神の家族の恵み

 こうして信仰者が主を中心として良い交わりを持っていることは、神の民として生きるうえにおいてとても大切であると語った後で、パウロは、それなのにまだ信仰の友を裁き、侮る者に対して、神の裁きがあることを覚えよと注意します。(10節~12節) 具体的にどういう姿でしょうか。人の(良心の)弱さを一切、受け入れようとしない姿、いつも、こうあるべき、他はいっさいだめと断定する姿です。いつの日か、その人が御心を分かる時が来ることを待たない態度です。実はその相手を深く愛していない姿です。主は、私たちをどれほど忍耐して待っていてくださったのでしょう。それなのに、私たちが自分と考えが違う、感じ方が違うということで裁き、侮るなら、私たち自身が神から特別に裁かれるのです。

   誰でも高齢になるに従って、肉の家族を失います。しかし、私たちには信仰の友、神の家族がいます。いつも話していますように、霊肉ともに元気な時には、礼拝共同体として共に礼拝をささげ、共に教会に属していること、交わりを大切にするが、弱った時には共に礼拝もささげたくない、交わりも持ちたくないという教会はどこかおかしいのです。

 それぞれ弱さ、足りなさがあることを認めて受け入れ合っている、互いに神の家族であり、自分の居場所はここにあると一人ひとりが安心を覚えることが出来る教会が大切なのです。

 

 人間的力でそんな教会を形成することはできません。しかし、キリストが中心におられるなら、そのような神の家族は可能なのです。日本にはそのような教会が本当に求められているのです。