恐れてはいけない

■聖書:出エジプト記141-14節    ■説教題:山口 契 副牧師

■中心聖句:恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。

(出エジプト記1413-14節)

 

1. はじめに

 雪の大きな被害が出ています。皆さんの中にも、疲れを覚えている方が多いことでしょう。今回の大雪は私にとって初めての経験だったのですが、改めて、人間は自然の前に無力であることを痛感いたしました。予測・予報はできてもどうしようもないことがある。いやそれどころか、想定外ということも多くある。真っ先に思い浮かべますのは、2011年の東日本大震災、特にフクシマ、原発の事故であります。東北地方での甚大な被害の中で、あれは人災だというのが一般的な評価であります。安全だ、完全にコントールできていると信じていた力が、人間では到底制御しきれないことが明らかにされました。さらに深刻なのは、そんな人間の限界が見せつけられたにもかかわらず、そんな限界、人間の小ささを忘れて同じ過ちを繰り返そうとしている点にあります。そこで傷ついた人々は、喉元過ぎて熱さを忘れた変わらない社会の体制によって、再び傷つけられるということがあります。そういった過ちを悔い改め、自らの限界を誠実に見て生きる向きを変えるということが、どれほど難しいかということを思わずにいられません。そしてそれはこの時代、この国だけの困難さではなく、出エジプト記を見るたびに気づかされることでもありました。

 本日の箇所、エジプトから出ましたイスラエルの民が雲の柱・火の柱に導かれて進んでいくその旅路を見ていますが、本日はその中でも多くの方に知られているモーセが海を割り、イスラエルの民がその海の中に出来た道を進んでいく場面が記されています14章であります。近年でも映画の題材にされるほど、有名な場面、ザ・出エジプト記とでも言えるような象徴的な箇所であります。けれども、本日はその前の部分を読んでいきます。この箇所の備えをする中で、改めて人々の目を引くような大奇跡の前に何があったのかを知る必要がある、いや私たちは知らなければならないのだと強く思わされているからです。

2. 民の「恐れ」と「黙らない口」

 早速、みことばに聞いて参りましょう。141-2節。ようやくエジプトの地、奴隷の苦しみから解放されたイスラエルの民たちでしたが、神様は約束の地への近道を通らせることなく、火の柱と雲の柱で民たちを導かれました(13章後半)。エジプトの地を、あの奴隷の鎖を断ち切って下さったお方が、解放して終わることなく導かれる。これほど心強いことはないように思います。しかし、導かれる先は、なにやら危なっかしいところでした。海辺に宿営しなければならない。海に面したところで宿営するということは、逃げ道がないということです。エジプトから逃げてきた彼らにとっては極めて居心地の悪い場所だったでしょう。それを見たエジプト王パロはこう言うだろう、こうするだろうと神様は分かっておられました。彼らはあの地で迷っている。まさに袋小路に陥っている。そして貴重な労働力をみすみす逃してしまったことを後悔し、追いかけてくるのでした。当時のエジプトといえば世界最強の軍隊を持っていました。そのえり抜きの戦車ですから精鋭部隊、さらに数でも圧倒していたことがわかりますから、いかにパロが本気でイスラエルを連れ戻そうとしていたのか、いかに怒っていたのかがうかがい知れるのであります。しかしイスラエルの民はというと、8節、主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。前回、神様がわざわざイスラエルを近道に導かれなかったということを見ました。本日の最初でも、わざわざ逃げ場のない海辺に連れて行こうとされている。そしてここに至っては、パロの心をかたくなにし、最強の部隊まで持ち出させた。事態は明らかに悪化しています。しかし彼らは臆することなく、恐れることなく歩みを続けたのです。様々なことが考えられますが、彼らは火の柱・雲の柱に従い続けていた、神様に信頼していたのでした。わざわざ「臆することなく」と書かれているからには、パロがどうするかをモーセを通して伝え聞いた上で、しかしそれでも、確信を持って神様に従っていたということだと思うのです。

 しかしいよいよエジプトの大軍が迫っているのを目撃すると、状況は一変します。パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。8節での、臆することなく神様の導きに従っていた彼らの信仰は何処へやら、あっという間に恐れに支配されてしまうのでした。神様の導きを表す火の柱雲の柱だけを見て、それに従っている時には平気だったことが、別のものが目に入ってきた途端に焦り、恐れ、不安になる。それは私たちも経験するところであります。あとから迫っている大軍、前には海が広がっている。八方塞がりのような状況であります。どこに解決の道があるのか、どこに正しい道があるのかがわからない。従ってきた雲の柱、火の柱もまだ動かない。いや、もう動かないんじゃないか。神様の導きには頼っていられず、自分でなんとかしなきゃいけないんじゃないか。そんな思いがあったのでしょう。彼らはまず主に向かって叫びます。困難な中で、神様に助けを求めることは信仰者の姿であります。しかし彼らはその答えを待つことなく、すぐに目に見える指導者、モーセに対して怒りをぶつけるのでした。11-12節。不平不満の数々です。喜んで従ってきた、臆することなく進んできた、はずなのに、実はそんなこと願っていなかった。かつての方が良かったとつぶやく。かつての奴隷状態がどれほどの悲惨であったのかを忘れてしまうのでした。そんな悲惨よりも、今目の前に起こっている問題の方に目と心を奪われてしまう。先ほど主に向かって叫んだのも、主からの助けを求めての叫びではなかったのでしょう。もう彼らの頭の中には、主はいなかった。実はこれこそ、罪とよばれるものであります。的外れと言われるもの、本来いるべき場所にいないもの。「あなたはどこにいるのか」という呼びかけに、ここにおりますと答えることができずに、隠れてしまうようなもの。しかも何度もこの呼びかけを無視して隠れ続けるもの。それが私たちを支配していた罪であります。一度は真剣に信じ、このお方だけに従おうと決心したとしても、すぐにまた恐れが押し寄せてくることがある。イスラエルの民もそうでした。その頭には目の前にある問題と八方塞がりの状況しかなく、それらの恐れに支配されていたのです。これまで様々なわざをなしてくださった主に信頼し、全てを委ねて行くことができなくなってしまった。

 新約聖書でも同じようなことがありました。大嵐の夜、湖の上に立っておられたイエス様。弟子たちは最初怯えますが、しかし、イエス様の呼びかけによって、ペテロがその湖に足を下ろします。そしてその湖の上をイエス様に向かって歩き出す。最初は良かった。イエス様の声に従い、イエス様だけを見ていたのです。けれども、轟々と吹き付ける風の音を聞き、押し寄せる波を見たとき、彼の心は恐れに支配され、もうイエス様が見えなくなってしまった。すると沈み始めたのです。初めからイエス様を信じていなかったわけではありませんでした。信じていたけれども、何かがあると、風が吹き足場が揺れると、その信仰は簡単にぐらついてしまう。頼るべきお方を見失い、疑い、確かな一歩を踏み出せなくなるのです。出エジプトと、このペテロの出来事、時代は大きく隔たっていますけれども、同じ人間の性質を表しているのではないでしょうか。主に従いきれない、罪の性質といった方がいいかもしれません。神様に造られ、生かされているにもかかわらず、肝心なときにこのお方に頼ることができないで恐れるのです。

 

3.「恐れてはいけない」

 しかし、そんな信仰の薄いペテロをイエス様は沈むままにはされずに、手を差し出して掴み、助け上げてくださいました。信仰の薄い私たちの恐れを、神様はそのままにはされないのです。本日の中心聖句にもしました13-14節、それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」私はこの言葉を読むとき、モーセという人がこの言葉を語っているということに深い感動と励ましを覚えます。それは、誰よりもこのモーセが疑い深く、主に頼ることのできない人物だったからであります。出エジプトの指導者、偉大な働きをした彼ですが、そのはじめはというと、主の、エジプトへ行きなさいという声にいろいろなことを理由に挙げて拒み続けた人物です。神様だけを見る、どころか、様々なところを見て、気にして、恐れていた人物です。そんな彼が、「恐れてはいけない」と言うのです。この後15節から神様の言葉が続いていますから、これはその前、あくまで、信仰者モーセ自身の言葉でした。

 「しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」。行けと命じられながら、なかなか立ち上がることのできなかったモーセです。それは、かつての失敗があったからでした。奴隷となっていたイスラエル人を助けようと、エジプト人を殺してしまいました。しかしイスラエル人は感謝するどころか、このモーセを人殺しと呼び、遠ざけた。彼にも傷があり、臆病になっていたのです。けれども、彼は悩みながらも立ち上がり、そして神様の奇跡を一番身近で何度も経験しました。ナイル川が血に変わったり、疫病が起こったり、一日中闇に包まれたりと様々な不思議が起こり、そのことでエジプト王はイスラエル人を逃がさざるをえなくなった。それはすごい奇跡です。しかし、目立たないところですが、奇跡が起こしたもう一つの大切な変化として、このモーセ自身が変えられたということがあるのではないでしょうか。一人の人がこれほどまでにガラリと変わるのです。「きょう、あなたがたのために行われる主の救い」とは、まだ起こってはいないことです。英語の聖書でも、未来のこととして書かれています。まだ実現は目で見ていない。けれども、それが必ず実現すると信じ、やがて確かに実現するその救いをすでに見て、立つのであります

 「主があなたがたのために戦われる」。かつてのモーセは、失敗を引きずり、自分の足りなさや弱さばかりを見ていました。だからこそ神様の再三の召しを拒んだのです。私たちも同じです。牧師や伝道師に限らず、すべての人は神様の召しを受け、それぞれの場所で主に仕えている。職場や家庭、学校、様々な人間関係の中において神を愛し人を愛することが求められている。しかしそうした時に、私たちが自分を見るならば、こんな自分なんてとても役には立てないと思うことがある。もっとふさわしい人がやればいいと逃げ出したくなる時がある。けれども、主があなたがたのために、私たちのために、私のために戦ってくださるのです。そう考えると、「恐れてはいけない」というモーセの言葉は厳しい戒めではなく、恐れることは何もないというだ、力強い励ましに聞こえるのではないでしょうか。イエス様がペテロの信仰の薄さを嘆かれはしたものの見捨てなかったように、見るべきところ、何に頼って生きるかを教えてくださるのです。

 私たちはただ、「黙っていなければならない」。黙るということは何もしないことではありません。主のなさることをつぶさに数えるということです。イスラエル人のように、助けを求めることもせずに不平不満を喚いたりせずに、ただこのお方に従っていくという積極的な行いであります。

 

 この「黙っていなければならない」という言葉を考えながら、211日という日を思いめぐらしていました。今日は建国記念の日、もともとは紀元節という神武天皇が即位した日との伝承があり、ここから日本の歴史が始まったとされていました。これを国の始まりと定めるという時点で、この国の方向性がすでに決まっているので注意が必要ですが、日本のキリスト教会ではこの日を、「信教の自由を守る日」と定めました。かつて自由に信じるということできなくなったことを覚えるためです。いや再びそのような時代が近づいているということ二警鐘を鳴らすという意味もあるでしょう。かつての日本では、まことの神ではないもの、偶像に従うようにとの命令が出されました。いや、それはキリスト教の神に対立するものではないから、日本国民として当然だからと忍び寄ったのです。日本のキリスト教会もまた、その国側の主張を飲み込み、受けいれた。当時植民地であった朝鮮へ行き、教会の指導者たちが朝鮮の人々に神社参拝をするように促したということさえありました。もちろん、強制的に従わせられた人もいますし、迫害に遭いながらも戦った人もいましたから一概には言えないかもしれない。けれども、この戦時下の教会を言い表す言葉で私の心に強く残っているものがあります。それは、「教会は、黙るべき時に黙らず、黙ってはいけない時に黙ってしまった」という言葉です。国が教会の信じるべきものに口出しをする時、私たちは黙って無批判に受け入れてはいけなかった。みことばにたって声を上げなければならなかったのです。しかしそうはできなかった。みことばに立って生きようと願う人々、朝鮮の方々に対して、主の兄弟姉妹がそれを言ってはいけなかった。黙らなければならなかった。神様以外のものに目を向けさせようとする言葉を出してはならなかった。けれども黙れなかった。主にのみ信頼する生き方は、黙るべき時に黙り、語るべき時に語る生き方です。私たちはどうでしょうか。

 

4. まとめ モーセの信仰にならい生きる

 もう終わりにしますけれども、本日お話ししてきたことは、何かがあった時、非常時にそう振舞うということではないように思います。そんなことはできないのだと思うのです。非常時になったからスイッチを切り替えるのではなくて、日常の中で、絶えず、恐れてはいけないというあのモーセの信仰に習うものでありたいと思うのです。あくまでこれは、私たちの日常における信仰の延長線であると言えば良いでしょうか。私たちの当たり前の生活の中で育まれた信仰でなければ、いざという時に使い物にならないのです。本日の中心聖句としました13-14節は、あくまでもモーセの発言であるということです。私たちはこれまで出エジプト記をじっくりゆっくり読んできて、この人物がいかに臆病で、決断に鈍く、神様をなかなか信頼しきれないということ、まさに私たちの信仰の姿と同じであることをみてまいりました。しかし、「恐れてはいけない」。主の救い、今日の救いを日々見続けてきたからこそ、「恐れてはいけない、しっかり立て、主の救いを見よ、黙っていなさい」と言えるのであります。同じしるしを見てきたイスラエルの民は、しかしその主に信頼できず、一度は方向を変えたのにまた元の罪へと戻っていきます。しかしモーセは違う。この信仰の姿に習い、今日からの新しい週の歩みを始めて参りましょう。