新しい幕開け

❖聖書箇所  使徒の働き11章19節~30節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

◆(序)この箇所について 

①著者ルカは、9章から10章にかけて、急先鋒の迫害者であったパウロの回心、またコルネリオとペテロの出会いを通して、割礼を受けていず、律法も学んだことがない異邦人も、神に対して悔い改め、主イエスの福音を受け入れるなら救われる、神から義とされることについて詳しく記し、この信仰は、選民ユダヤ人だけでなく、ローマ1章16節に言うごとく(朗読)すべての国の人々、民族に対して門が開かれていることを明確にしています。そして、本日の箇所において、7、8章のステパノのことからエルサレムから追放されたクリスチャンたちのその後の様子について述べています。福音が増え広がっていくうえにおいて、彼らの果たした役割が小さくなかったことを示しているのです。

 本日は、そんな散らされた者たちの様子を見て行きますが、この人々は、エルサレムから追放された時、まずユダヤとサマリヤに行き(8章2節)、みことば、福音を語りながら各地を渡り歩きました。(8章4節) しかし、その後の状況については不明でしたが、本日の箇所において、彼らは、その後も福音を各地で伝えてきたことが分かります。

 

 おそらくグループを組み、ここに出ているような場所に行き、これらの地方に住み、ユダヤ人社会を形成している同胞のところを訪れ、福音を伝えたものと思われますが、それは、決して楽な旅、日々ではなかったはずです。快く迎えられた場所ばかりではなかったのです。旧来の伝統、律法中心主義に立つ者たちから頑なに拒否されたはずです。けれども、彼らは、どこに行っても主イエスの福音を伝えることをやめなかったのです。

②そのように、主の福音を大切に思い、熱心に伝えた彼らですが、著者ルカは、興味深い説明をしています。「ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。」と記しています。その理由を述べていませんが、この人々には割礼も受けていない、律法を学んだことがない異邦人が福音の恵みにあずかるということは考えられなかったのでしょう。それは、この間見たように、ペテロとコルネリオが二人とも深く神から取り扱われることによって初めて分かったことであり、日々、旅をし、そんな経験がない彼らにとっては全くの異邦人が救われるということは考えられなかったのです。そのため、ユダヤ人以外に伝えようとしなかったものと思われます。

 けれども、彼らの中に、もともとユダヤ人ではない、あまり律法に縛られない異邦人の信者、キプロス人とクレネ人がいて、アンテオケに来てからは、そこに大勢いたギリシャ人にも福音を伝えたのです。ユダヤ人クリスチャンが、主から使徒の働き1章8節(朗読)のみことばを聞いていながら、超えられなかった壁を異邦人クリスチャンが超えたのです。

 それは、勿論、聖霊の働きですが、その背景には全体の意識の変化があったものと思います。ユダヤ人以外の人々とも接して行くうち、主が言われていたように、この福音はすべての国の人々、民族に与えられていると思うようになったのですが、ユダヤ人クリスチャンは、なかなかこの壁を乗り越えられなかったのに対し、そんな壁をあまり感じていなかった異邦人クリスチャンが、居合わせた異邦人に自然に福音を語ったところ、主の御手が彼らとともにあり、それを聞いた人々の心が開かれ、悔ひ改め、神を信じたのです。大きくそういう流れになっていましたから、ユダヤ人クリスチャンたちも反対しなかったのです。或いは、もう既に割礼を受けていない、律法も学んだこともない異邦人も救われるということを知っていたのかもしれません。ともかく、この箇所は、新しい時代の幕開け、本格的な異邦人教会が誕生したことを記しているのです。

◆(本論)新しい時代の幕開け

①これまで信ずる者たちの集まりがあったのは、使徒たちが残っていたエルサレム教会、そしてビリポによって福音が伝えられ、生まれたサマリヤの教会、パウロ脱出を支えたダマスコの教会のみでした。サマリヤは、ユダヤと伝統が違いますが、元々はモーセ五書を信じ、律法についても知識があり、割礼を受けていた人々であり、ダマスコの者たちもユダヤ人や改宗者であり、律法も割礼をよく知っていたのです。

 ところが、アンテオケで信じた者たちは、そんな背景を持たない者たちでした。これまでのユダヤ人中心の教会と大きく異なっています。いわば新しい時代の幕開けでした。

 そんな状況に対して、エルサレム教会の指導者たちは、既にコルネリオを通して、異邦人も神の救いにあずかることができると知っていましたから、人々からとても信頼されていたバルナバを派遣し、主の教会の礎を築こうとしています。派遣されたバルナバは、アンテオケについた時、神の恵みを見て喜んだとあります。その地の異邦人クリスチャンたちが、確かに救われ、深い喜びと平安、希望に満たされており、このことは主がなされたことであると確信することができたからです。全ての国、民族に対して隔たりなく恵みを与える神の御愛の深さをあらためて知ったからです。異邦人の救いに関して確信を持った彼は、信じた者たちに対し、みなが心を堅く保ち、主に対する姿勢をしっかり持ち、信仰によって深く一致し、常に、どんな時にも信仰にとどまるように、救いの道からはずれないように励ましたのです。そのバルナバの指導は、アンテオケの人々にとって大きな力となり、新しい人々の救いとなりました。

 バルナバは、救われ、変えられている彼らを見て、これからは、ユダヤ人教会に代わって異邦人教会が増えて行くだろうとの新しい時代の到来を感じ、元は迫害者でしたが、回心した、異邦人伝道のために最もふさわしい人物と考えていたパウロを招き、一年間、アンテオケの人々をともに教えたのです。その結果、アンテオケ教会に集う人々は霊的に、また実際生活においても非常に成長し、この地において、信者たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのです。この呼び方は、始めは蔑みの意味が強かったのです。当時、兵士たちがその将軍に絶対的に従うことから、将軍の者という意味でその将軍の名で呼ばれていたことから、アンテオケの人々も本当にキリストに従っているということからキリスト者として呼ばれるようになったのです。

 バルナバとパウロの指導のもと、アンテオケの人々は信仰的に、また実際生活においても真に成長したのです。主と似た者、主の香りを放つ御霊の実を結ぶ者、愛、喜び、平安、寛容、誠実、善意、親切、柔和、自制の実を結ぶ者となったのです。

②そのように成長しましたから、預言の通り、大飢饉が起こったユダヤに住む信者のために、バルナバとパウロの手によって、救援のものを送ったのです。このことは、教会活動の中心がエルサレムからアンテオケ教会に移りつつあることを示しています。アンテオケ教会の成長は、当時の世界、ローマ帝国全体に対する宣教の準備が整って来たことを意味しています。

◆(終わりに)後で分かる時がくる 

 この箇所は、教会の歴史の大きな変化を伝えます。律法の背景が全くない異邦人も救われることがはっきりし、それまで考えられなかった異邦人教会が誕生し、そして信仰的に成長することが難しいと考えられていたことを見事に覆し、非常に成長し、むしろ、ユダヤの信者たちを助けるまでになっていることです。もちろん、バルナバとパウロの働きがありますが、真に神に対する悔い改めをなし、主イエスに対する信仰を持つ者は、ユダヤ人も異邦人も関係なく、神の子とされ、永遠のいのちを持ち、神の栄光を現すということをはっきり見ることができるからです。

 

 主は、全世界の人々の救いのために、最初はユダヤ人教会をたて、やがて異邦人教会をたてておられるのです。このように変わることによって、全世界、当時はまず地中海一帯のローマ帝国ですが、宣教の道が開かれているのです。私たちは分からなくても、主は確実に計画を実現されるのです。迫害され、追われた人々は、自分たちの証しから、まさか異邦人教会が生まれ、そのことによってローマ帝国全体への宣教の足がかりができるとは思ってもいなかったでしょう。しかし、主が、彼らを用いてくださったのです。それは今も同じです。今はなにをしているか分からないが、後で必ず分かる時がくるのです。私たちも二つの道があるとき、主の道を選び。歩みましょう。