最後の敵に対する勝利

❖聖書箇所 テモテ第Ⅱの手紙4章6節~8節    ❖説教題 「最後の敵に対する勝利」 

❖説教の構成

◆(序)周りにある死

 この国において死は、全ての希望を絶つと考えられています。それには理由があります。意識の深いところにおいて、多くの人が持っている人生観と深いつながりがあるのです。人にとって何より大事なのは、永遠や真理よりも、現世の生活であるという考えです。現世主義です。それゆえ、死を迎えることは、大切な関係がなくなることですから、希望が絶たれることであり、死ぬ人は勿論、残される者にとっても絶望をもたらすと考えられています。

 

 このように、私たちが生きている日本社会において、死の中心にあるのは現世での存在の終わり、全ての関わりの消滅です。こうして、死は、全ての希望を打ち砕き、ひたすら暗い思いしかもたらさないのです。しかし、他方、矛盾するようですが、死後における裁きについて真剣に考えていませんから、今の苦しみから解放されると考え、どこか安らぎを感じています。また死を迎える存在であるゆえに、自分の生き方を深く考える、捉え直すということもないのです。

◆(本論)聖書が伝える死

①しかし、神のことばである聖書は、そんな考えと違っています。聖書は、驚くべきことですが、体の死を際立たせていません。軽視していませんが、この国の多くの人がすべてと考える体の死よりもっと重要、深刻な死があると言うのです。そして、体の死が人にもたらしている絶望、恐れは、この深刻、根源的な死と深く繋がっていると言うのです。

 それほど重要な意味を持つ根源的な死とは何か。死の中心に霊的な死、罪があるといいます。人を人とする本質、天地万物を創造し、一人ひとりに命と生きる目的を与え、生かし、深く愛しておられる創造主、父なる神、生ける真の神に背き、本来、神が与えてくださっていた関係をすべて失っている状態です。 聖書は、この霊的死、神に背いている状態、罪が死の中心にあり、死の恐怖の理由であると言います。そして、この状態がある限り、体は生きていても、実は死んでおり、人は不安と恐怖の中にとどまるというのです。(エペソ2章1節~2節)

 

②それについて分かりやすく言われているのが、よく開きますルカ15章11節以下の放蕩息子の譬えです。この息子は、言うまでもなく肉体的には生きていました。全てを失って落ちぶれる前も、したい通り願う通りのことをしていましたから、よそ目には、いきいきとした人生を送っていたのです。しかし、父親からするなら、彼が出て行き、我に返るまで「この息子は死んでいた」と言うように、したいことをしていたとしても、一番大切なものを失っていたのです。反対に落ちぶれた後、悔い改め、父のもとに帰ろうと決意した時から「生き返った」(15章24節) のです。神のことばが伝える死は、普通の考えとは違うのです。

 普通は、体が生きているならば、まして自分の願うように生きているなら、喜びを持って生きていると言うのです。しかし、主は、この譬えを通して、実は反対であると言うのです。

 

③生き生きしているように見えても、本来の状態、最も大切な状態からはずれているなら、その人は死んでいるというのです。何故そうなのか。聖書はとても大切なことを告げます。人は元々、自分のみで生きる存在ではないからです。主体性を持っていますが、造られ、生かされ、愛されている方との親しい交わりのうちに生きる存在という意味です。 人は、創造主である神のみもとにおいてこそ、本来の姿を持ち、生きる喜びと力が与えられ、又、他の人と真の意味で関わることができるのです。創世記1章26節で「われわれのかたちに人を造ろう」と言われているのはそういう意味です。けれども創世記3章において記されているように、サタンの誘惑により、自分が神の

ようになりたい、自分が中心になるという道を選び、神に背いた結果、神から断絶され、命が与えられ、生かされ、愛されているものとしての本来の生きる意味も喜びも力も愛も失ったのです。ですから、いくら肉体的に生きていても、人生の目的も喜びも知らない、死んでいる状態と言うのです。そして、その存在の中心を失ったことにより、命を産むこと、働くことなど生きることが苦しくなり、又裁きとして死ぬべき存在となったのです。(創世記3章16節~19節) 

 神を否定する人は、この神に背いている罪の姿を人間の自然、元々のものと受けとめ、そして仕事、学び、家庭、友人などで人生の意義を見いだそうとするのです。しかし、これは、本来の姿を失った罪の状態であり、この罪の解決がない限り、真の喜び、平安を見いだすことができないのです。聖書は、こうして体の死よりもその中心に霊的な、根源的な死があるというのです。

キリスト教教理確立のために大きな役割を果たした最大の教父、四世紀、アゥグスチヌスが言うように、人は神のもとに帰らなければ決して埋められない心の空白を持っているのです。

 よくご承知の星野富弘さん、大学を卒業して体操教師なりたての22才の時に、器械体操の実演をしていた時に失敗して首の骨を折リ、首から下が完全に麻痺し、手も足も全く動かなくなった人です。しかし、その療養中に、クリスチャンである友人に導かれ、ひとり子をお与えになったほど人を愛された神の深い愛に感動し、それから口で筆をくわえ、文章や絵を描くようになり、今では日本国内だけでなく、国外においても多くの人々に感動、勇気と力を与えています。その星野さんの作品にこういう詩があります。「命が最も大切と思っていた時には生きることがつらかった、命よりも大切なものがあると分かった時に、生きることが楽になった。」このことばは、本来の人の姿をよく示していると思います。

 

◆(おわりに)新たな始まり

   聖書箇所を見ましょう、パウロは、ここにおいて、死(処刑)が目前という状況の中、真正面から死と向き合い、豊かな平安に満たされています。自分に与えられた走るべき道を走り終え、信仰を守り通したという思いがあったからですが、何よりも、主イエスの十字架の死と復活によって、罪が赦されていることを知り、体は死んでも神のもとに迎えられ、義の冠が授けられる約束を知っていたからです。それゆえ、深い平安に満たされているのです。別の箇所においては「私にとって生きることはキリスト、死も又益です。」(ピリピ1章21節) と、主を信ずる者にとって、死は良いこと、益であるとさえ言っています。

 これまで立ち会うことが出来た方々の死から、主を信じて歩んだ人の死には不思議な平安があることを感じて来ました。肉体的につらい中にあっても、主による救いを知っている人は、この世のものでない平安に包まれています。共におられる聖霊の働き、慰め、支えだと思います。

 死は誰にとっても経験したことがない、本来ならば深い恐怖を感ずる時ですが、最後の時に御国に迎え入れると約束しているみことばがその時、既に実現しているように感じます。

 繰り返すように、この国においては、死は絶望と思われています。しかし、死の中心は罪であり、そして罪の赦しを知る者には消えることがない希望があるのです。一人ひとりの罪を赦し、神の義を確かにした十字架による福音は、最後の敵と言われている死に対しても勝利を与えるのです。

 

 主のもとに迎えられている者にとって、死は忌むべきもの、絶望でもありません。与えられた地上の生涯のゴールであり、約束された天の御国への旅立ちです。確かに残される者たちにとっては言いようもない悲しみがありますが、それに対しても再会の希望があるのです。創立60周年の講演集の中にありますように、内村鑑三は、娘の葬儀の時に「ルツ子さん。万歳」と叫んだそうです。壮絶な信仰です。深い悲しみの中にも、天の御国への旅立ち、復活の希望を信じているからです。私たちも死を超えた希望があることを覚え、与えられた道を歩み、義の冠を信じて、ともにおられる主に全てを委ねて日々を歩ませていただきましょう。