教会と牧師

❖聖書個所 エペソ人への手紙4章11節~16節   ❖説教者 川口 昌英  牧師

◆(序)牧会とは何か

①牧師が福音の内容や信仰生活について誤った理解をすると、主イエスを救い主として告白し(マタイ16章16節)、主の血を持って買い取られた(使徒20章28節)、キリストのからだ(エペソ1章23節)であり、大切な使命を託されている教会(使徒4章19節~20節)は混乱します。新約聖書や教会史からも明らかなように、地上の教会にはそんな歴史が頻繁に起こっています。

 古くからの信徒や長老が誤った方向に行くことも影響が大きいのですが、牧師がそうなるならば、教会はひどく打撃を受けます。それゆえ、牧師が主の召命、みことばに従い、その働きの意義、目的を理解し、その務めに忠実に仕えることは本当に大切です。

 

 そのようなことから、みことばが示している牧師の働き、良く知られていることばを用いるならば牧会の働きの内容について、教会全体で把握していることはとても大切です。

②始めに、牧師の働き、牧会の務めについて間違いやすい聖書の箇所を見ることにします。エゼキエル34章11節~19節です。深い慰めを受ける箇所ですが、実は、このところは、神である方について言われているところであり、働き人について言われているのではないのです。ここで言われている羊飼いとは、神ご自身であり、牧師は、羊飼いである主に召された働き人であり、羊の所有者ではないのです。人にすぎない牧師が慰めたり、傷ついたものを包んだり、力づけることができるのではないのです。羊が羊飼いのもとに行き、この方とお会いし、力を受け、成長するように手助けする存在なのです。それゆえ、パウロも語っているように、本当に大切なのは成長させてくださる神なのです。(Ⅰコリント3章7節)

 

◆(本論)牧会者の働き

①では、牧師の働きとは何でしょうか。それは、繰り返すように、人を真の羊飼いである主のもとに導き、主にあって生きるように整え、そして、主の群れ、教会、みからだの一員として、主の民にふさわしく生きることが出来るように、主のことば、霊的な糧によって、喜び、平安、慰め、使命を示し、整えることです。

 羊飼いではないからと言って牧師の務めが軽いという訳ではありません。始めに話したように、大変に重い。自分でみことばから教えられ、成長する人もいるが、教会の霊的状態は、その教会の礼拝の内容と深い関係があると思っています。説教者が神のみことばとどれだけ真剣に取り組んでいるかに深くかかわっています。私は、自分に与えられている働き、特にみことばの御用が一人の人の生涯、永遠に関わっていると思うと恐ろしく感じることがあります。自分の足りなさ、弱さ、或いは赦されたとは言え、なお罪の性質があることをすべて承知のうえで、主がこの働きに召して下さっているということを確認しながら、憐れんでくださいと祈りながら取り組んでいます。

 又、教会の具体的な課題、事柄を考えることにおいて牧会者自身が、この世の経験や知識ばかりに目を向けているなら、教会はこの世に沈んでしまいます。この点においても牧会者の務めは重いのです。パウロは、誰がこの任に耐えることができようかと言っています。

 

②エペソ4章から牧師の務め、牧会の働きについて確認して行きます。ここにおいてパウロは、主が、はっきりした目的のために働き人を立てているといいます。現代の私たちも、この事実を知るべきと思います。内容を見て行きますが、まず第一に、ここには牧師や信徒が中心であるという考えはありません。働き人はあくまで主の器であり、教会はあくまで主のからだであると明言します。実態がみことばからはずれて、牧師が自分の立場を優先して行動したり、信徒が、教会は自分たちのもの、牧師は自分たちが雇ったものと考えているなら、もはや主の教会とは言えないのです。ただの人間的集まりにすぎません。

 11節から16節は、新約聖書が書かれた元々のことばであるギリシャ語では、一つの文章です。そして、よく話すように、ギリシャ語は、一番強調したいことを語順の最初に持ってくるという性質があります。そのことから、ここに主が働き人を立てている目的を私たちは、はっきり知ることができるのです。

 すなわち、主は、聖徒たちを整え(強める、完成させる、訓練する)、奉仕の働きをさせ、(主の栄光のため、主のしもべとして生きるようにさせ)、キリストのからだである教会を建て上げる(一人ひとりが主をあがめる姿勢を持ち、互いに主を中心として受け入れ、福音宣教をする) ために働き人を立てたと言います。

 そして、そのキリストのからだである教会が建て上げられた具体的な姿とは、

❶「みなが信仰の一致と神の御子に関する知識との一致に達している状態」(信仰の一致)

❷「完全に大人になり、キリストの満ち満ちたみたけにまで達し、もはや、子どものように人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、(自分こそが真理を知っている等の偽りの)教えの風に吹き回されたり、(偽りの教えの)波にもてあそばれたりすることがない状態」(信仰の成長)

❸「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する状態」になることだと言うのです。(信仰の証し)

 最後に、16節において要約しています。信ずる者たちがそれぞれふさわしく力を発揮し、また主を中心にしてしっかり組み合わされ、結び合わされ、成長して愛のうちにたてられる、主にあって互いを受け入れ、一体性を持つ生き生きとした状態となり、真に神の国に属する神の民となるために、働き人が召されているというのです。

 このように見て来ると、働き人、牧師に託されている働きは、途方もなく重要であることが分かります。人々が霊的に成長し、成熟し、人間的なことに惑われず、主の足跡をたどるような生涯を送るために、人々を整える働きなのです。一人ひとりが、真に主にあって悔い改め、はっきり方向転換をし、主にあって生きるように励まし、支える働きです。(詩篇23篇のように、羊が羊飼いのもとにあって憩い、力、平安を得て、そして主の示す道を行き、神にある祝福の生涯を送るためです。)

 

◆(おわりに)その務めを果たすことができるように

 牧会の務めは、牧師個人の力によるものではありません。召してくださった御霊の導きのもと、みことばによって行うのです。みことばと祈りによって、福音という岩の上に、キリストのからだである教会を建て上げるために召されているのです。そのために組織や体制も大切ですが、最も重要なのは、教会の中心に主のみことば、福音があり、一人ひとりが福音によって生まれ変わり、福音に生かされ、福音を与えてくださった主の栄光のために生きようとしている姿があるかどうかです。

 

 使徒パウロは、次のように言います。「こういうわけで、私たちはあわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠されたことを捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント4章1節~2節、5節) 働き人が、その務めを果たすことができるようにお祈りください。そして、思いと心を一つにして、この時代、この地で真の主のからだを建て上げようではありませんか。主が真ん中におられる教会は、人生のオアシスです。そこで旅人は憩い、そこから新しく旅立ちをするのです。