出発の時に

■聖書:出エジプト記1317-22節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119105節)

 

1. はじめに

 一年の始まりの主日礼拝を共に守ることができ、感謝いたします。連続して読んでいる出エジプト記もエジプトからの脱出をいよいよ果たしたところから再開いたします。数々の不思議をもってエジプトでの奴隷のかせを打ち砕かれ、救出されたイスラエルの民。度々お話しすることですが、彼らは解放されて終わりではありませんでした。言い換えるならば、エジプトから救出されて終わりではなかった。むしろここから、彼らの本当の旅は始まるのです。その旅の始まり、出発の時に、神様がこの生まれたばかりのイスラエルの民に何をなさったのか、新しい年を迎えたこの時に、改めて教えられたいと願います。

2. 神様の愛の配慮 遠回りのように見える道

 17節を読みますと、この旅の始まりの時にあった神様のご配慮を知ることができます。さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。イスラエルの民たちからしたら、一刻も早くエジプトの国から離れ、ここまでくれば一安心と一息つきたかったことでしょう。かつて神様がアブラハムに約束された素晴らしい地を早く踏みたかったことでしょう。しかし神様は、近道へは導かれなかった。2017年版の訳では「近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった」とあります。

 私たちは、当然のように近道を求めますし、それが(時にそれだけが)正解だと考えます。そして近道を進めないとイライラしたり焦ったり不安になったりしてしまう。人生においてもそうではないでしょうか。だから一回の失敗で全てが台無しになってしまったと悲嘆してしまうことがあります。受験や就職活動などでもそのようなプレッシャーは多くあります。けれども、神様が用意しておられる道は、時に私たちが思うような近道ではなくて、遠回りにしか思えないような道を通らせることもある。それをしっかりと覚えたいと思います。しかもそれは、私たちを虐めるためではなく、神様の深い配慮による「遠回り」であります。決して無駄な時間、無駄な労力なのではなくて、神様の計画にとって、何より私たちにとって必要不可欠な道筋であるのです。

 ここでの遠回りはなぜかと言えば、「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」とあります。エジプトからカナンの地への最も一般的で最短のルートは、ひたすら北上して地中海沿いを進む行路でした。(地図)地図を見ても、一目瞭然です。しかしそのルートはペリシテ人の地へ向かう道でもありました。その道は軍用路で、エジプトの守護兵たちが通行人を見張っていたとも考えられています。またペリシテ人は好戦的で知られていましたから、長い奴隷生活で武器なんてあるはずもないイスラエル人は格好の餌食です。脱出したばかりのイスラエルがそれを見たら、そして実際に戦いに巻き込まれたら、神様と神様の約束してくださった地カナンに向いていた心が、もとのエジプトでの生活に戻ってしまう。それではダメなのです。せっかく奴隷状態の苦しみ、さまざまな不自由から解放されたのに、再び元の生活に戻ってしまう。このような箇所を読みますと、遠回りをすることの労力や時間、私たちが無駄だと考えるようなことよりも、心が変わってしまうことを神様は重大なことだとされているという点を改めて気付かされます。

 この遠回りの道が、まったく安全で障害が何一つないわけでは必ずしもありません。旅が長くなれば当然危険も伴う。だから私たちは近道をしたいのです。でも神様は私たち以上に私たちのことをよくご存知の上で、そのような危険な道に行かせないようにと遠回りをさせるのでした。その時には気づかないかもしれませんが、本当に重大な危機に陥らない道を用意してくださるのです。その遠回りが、神様の手に引かれた道だということが分かっていれば、そこに深い配慮があると分かれば、無意味な遠回りではないということがわかれば、和たちたちが経験する回り道も、その意味はまるで違ったものになるのではないでしょうか。

 もしかするとその遠回りは、袋小路にはいってしまうような行き止まりのように感じることがあるかもしれません。このときの神様の導きもそうでした。遠回りした一行が進んだのが、少し飛ばして20節、こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。さらに141-3節を読みますと、こうあります。主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』というであろう。この一連の動きが、この土地をよく知るエジプト王にとっては「迷っている、荒野に閉じ込められた」と映ったのでした。一般的な評価がこれでしょう。旅するイスラエルの民自身もまた、引き返したり、目の前には海しかない場所に、まさに行き止まりの場所に宿泊したりと困惑したに違いありません。このままどうなってしまうんだろうとも思ったことでしょう。しかしこの神様の導きにも、大切な意味があったのでした。その出来事は次回見ることになので、簡単にお話しします。袋小路に行き詰まった、迷っていると見たエジプト王パロは、イスラエルの民を追ってやってきます。イスラエルの民を解放させましたが、本当に神様を恐れ、イスラエルの脱出が神様のわざであることを信じていなかったのです。そんなエジプトを、今度こそ圧倒的に勝利される神様。この力あることをエジプト、そしてイスラエルの民に知らせるために、あの海を割って進む奇跡が用意されているのでした。詳しくは次回見ます。

 さて、神様は様々な場面でその計画を教えてくださっていますが、本日の箇所でもそれを垣間見せてくださいます。19節、モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。ヨセフというのはイスラエルの民がエジプトに来るきっかけになった人物であります。彼の生涯は創世記の最後の部分に書かれていますけれども、「主が共におられた」という言葉に彩られています。ここにあるのはヨセフの遺言のような言葉ですが、その生涯の最期のときに至るまで、彼の関心は、神様への信頼があった、ということができるでしょう。神は必ずこのイスラエルの民を顧みてくださるという信頼があったのです。今はいっとき、約束の地を離れた外国にいるが、必ず戻ることになる。しかもそれは偶然とか人の努力によってではなくて、神様の顧みによって帰ることができると信じていたからこそ、このように言うのです。実際は400年もの年月が経ちました。長い奴隷状態が続き、極めて厳しい扱いを受けてきました。そのまま民族が滅んでしまってもおかしくないほどの仕打ちがなされました。それでも、苦しみの中にあっても神様の守りがこの民にはあった。神様の顧みを信じ、ふたたび故郷に戻ることを信じていたヨセフの遺骸を抱えていくということは、確かに神様がこの民を顧みてくださったことの証拠であり、そしてこれからの旅の途上でも確かに顧み続けてくださるんだということを覚える意味があったと言えるのです。それを見る度に、民たちは神様の約束が確かなことを覚えたのではないでしょうか。

 そしてもう一つ、これはこの旅の間中ずっと続くものとなるしるしがありました。もっと直接的に神様がおられることを知り、神様がこの度の先頭に立っていてくださり導いてくださることを知ることのできるしるしであります。それが21-22節にあります、雲の柱、火の柱です。

 

3. 主の臨在が民を導く  

 お読みします。主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んでいくためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。多くの学者たちが、この現象はどのようなものなのかを検証しています。ある人はこの地方特有の砂嵐だと言いますし、ある人は、行列の先頭が焚く狼煙や松明だと言います。けれども、やはりこれは神様がここにおられたということのしるしと考えるべきでしょう。人の想像を超えて働かれるお方であり、言い換えれば、人の考えに当てはまる程度のお方ではないのです。この出エジプト記はそれを何度も教えられる書であります。そして、それを忘れて人間の考えられる範囲で神様を捉え、勝手に失望し、再び元の罪に戻ろうとする人間の愚かさに記録でもあるのです。

 この出発の時、神様は何かの力や知恵を授けるのではなくて、ご自身が民たちの先頭に立って進まれるということを表されたのでした。これらの雲の柱、火の柱は神様がおられることのしるしであります。神学の言葉で、「臨在」と言い、そこに主の栄光が表されるという箇所もあります。思えばモーセ個人の出発の時にも、この神様がともにおられることが教えられていました。3章、燃える柴を前に神様と出会うモーセでしたが、彼をエジプトの地につかわそうとされる神様について、名前を尋ねました。すると神様は答えられるのです。「わたしは、「わたしはある」という者である」これは、わたしは存在する、と言う意味です。併せて言われているのは、「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。…」これは今後もたびたび言われることです。目の前にある、目に見えるところに恐れ、遠回りしていることに苛立ち不満を言う民たちに対して、「恐れるな。わたしがあなたがたとともにいるのだ」と言われる。

 この雲の柱、火の柱は旅の間中、ずっと民たちとともにおられました。この雲の柱は、昼の砂漠の直射日光から守り、追っ手から逃げる煙幕となりました。夜も彼らの道を照らし、暖め、野の獣から守ってくださった。そして民の前を進み、彼らを導くのです。出エジプト記を読んでいますと、それがよくわかります。民たちもこの雲の柱に従って旅を続けてきたのです。この書の最後を開いてみましょう。出エジプト記4034節からお読みします。

 民たちはその旅の中で何度も失敗をしました。いつも先に立って導こうとしてくださるお方がいるにもかかわらず、自分たちの思いで行動します。言ってしまえば、ともにいてくださるお方を無視しているのです。自分たちが望む神様像を作ったこともありました。これは神様が最も忌み嫌われるものです。しかしそんな民たちの不信仰にもかかわらず、神様はその旅の最後まで見限ったり、見捨てたりなさらずに、ともにい続けてくださった。彼らを守り、導き続けてくださったのです。この旅の最初から、それが言われているのでした。

 

 

 

4. まとめ 私たちの前から離れない神の導き

 本日は、出発のときに、神様が何をなさったのか。どのような配慮があったのか。どのような導きがあったのかを学んできました。今の私たちはどうでしょうか。目に見えるような、雲の柱や火の柱のような指針はないかもしれない。けれども、昨日も今日も変わらない神様は「民の前から離れなかった」ように、私たちの前からも離れずに導き照らしてくださる。私は本日の備えをして、今日の私たちにとっての雲の柱、火の柱とはなんだろうかと考えていました。私たちも弱く、道標を必要とするものです。迷いやすいものです。洗礼を受ける前はもちろん、受けてからもたびたび元の生活に戻ってしまうことがあります。どこに向かって進んでいけば良いのかもわからなくなる。そんな私たちを神様はどのように導いてくださるのでしょうか。いろいろなことが言えると思います。ヨハネの福音書10章にはまことの羊飼いであるイエスさまが私たちを導いてくださること、さらに復活されたイエスさまが天に上られた後には、やはり私たちにとっての助けてとしての聖霊が約束されていました。それらもふまえつつ、一年の始まりのこの礼拝では、雲の柱、火の柱というのは、本日の中心聖句にもさせていただきました「みことば」だということができるのだと思うのです。

 詩篇119105節、週報にも記されています中心聖句です。あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。私たちがどこへ進めばいいのかわからない時、もう道がないと落胆してしまうような時、しかしみことばが光となって私たちを進むべき道へと導いてくださいます。

 繰り返しになりますが、神様は救出して終わりではありません。私たちを神様の目的地に至るまで導いてくださるお方です。私たちの目的地はどこでしょうか?私自身が定める目的地と、神様が定めておられる目的地は果たして一致しているだろうか?目先のところがゴールとなってしまってはいないだろうか?私たちのことをよくご存知で、進むべき道を示し導いてくださる神様の手を無視して自分の力で進もうとはしていないでしょうか。年間聖句の「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)との問いかけに対して、「わたしはここに立つ、わたしはこれに従って生きる」という応答していきたいと強く思わされます。

 新しい年の最初の主日礼拝で、改めて、私たちの歩みに伴ってくださるお方を覚えたいと願いました。遠回りに思えることがあっても、私たちがみことばに信頼していれば、神様が必ずや私たちと共に歩み、神様の計画される目的地まで連れ運んでくださいます。私たちの目的地と私たちの辿るべき道を確認したいと思います。この新しい年も、このお方の導きの従って、みことばの光に照らされて歩んでまいりましょう。