主の恵みを数えて生きる

■聖書:詩篇1031-5節、エゼキエル書3416   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。(エゼキエル書34:16

 

1. はじめに

 クリスマスから一週間、大晦日の日を迎えております。何かと慌ただしい日々であり、心も体もざわつくことが多いこの季節ですけれども、しかし一年の最後にこのようにして共に集まり、主に礼拝を捧げられる恵みを心より感謝しております。今年のクリスマスではたびたび、25日で終わらないクリスマスの恵み、イエス様が生まれてくださったことの喜びが何度も語られてきました。終わりどころから、その日から、私たちの喜びはスタートしているのであります。クリスマスの諸集会が終わり、年始に向けて慌ただしくなっている今日も、そのような主にある恵みの中にあることを覚えて、私たちに与えられているものを静かに思い巡らしたいと願っております。    

2. 時が良くても悪くても、主をほめたたえる人生

 早速、本日与えられている箇所を読んでまいります。1,2節「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」ほめたたえるという言葉が命令の形で3度も出てきます。ダビデによると表題にあります。彼はイスラエルの王様で幾つもの詩篇を残していますが、ある説教者はその数あるダビデ詩篇の中でも「冠」、横綱級の名篇、詩篇の最高峰の一つであると表現していました。イギリスの有名な説教者であるスポルジョンという人も「連なるアルプスの山波に、ひときわ目立つ峰々のあるごとく、霊感の詩篇にも卓越する歌の高みあり。しかして、聖なる賛美の山波のモンテ・ローザとも見ゆるが、わが第103篇なり」と謳っています。それほどまでに洗練された、神様への感謝と喜びの賛美にあふれている。私たちもこの詩篇に心を合わせ、感謝と喜びの歌をもってこの一年を締めくくりたいと願って備えてまいりました。

 ダビデはわがたましいよ、ほめたたえよと歌い始めます。いやそれだけでは足らず、私のうちにあるすべてのものよ、御名をほめたたえよとさえ言っている。全身全霊をもって、あるいは私たちの意思で制御しきれない心のすべてをもって神を賛美せよ、私のすべてを神様への賛美としたいと願って歌うのでした。それは無理矢理に強制されてではなく、単なる慣習とかしきたりとしてでもなく、心からの賛美です。歌わずにはいられないという強い感動があったのでした。しかもそれは何か特別に嬉しいことがあったからというわけではないようです。私たちにしても何かいいことがあれば鼻歌交じりでスキップをしたりするかもしれませんが、そういう賛美ではないのです。続く104篇もダビデの詩篇とされています。その33節には「私は生きている限り、主に歌い、命のある限り、私の神にほめ歌を歌いましょう」とあります。いいことも悪いこともある、嬉しいことも悲しいこともある人生において、しかしそのすべてにおいて主を賛美すると歌っているのです。この時期は忘年会が多くあります。まぁそれも楽しくて良いのですが、何か悪いこと嫌なことを忘れたり清算したりして区切りをつける、いったんリセットするのではなくて、その中でも与えられている恵み、いや、そんな中だからこそ発見できる恵みをしっかりと数え覚えて、新しい年に期待したいと思うのです。

 このダビデという人、ご存知の方も多いと思いますが、その生涯を振り返りますならば、私たちの考えるような喜びの人生、いい人生を歩んだわけではありませんでした。鼻歌が出るどころか、人生を呪ってもおかしくないくらいの厳しい状況が数多くあったのでした。王になる前には先代のサウル王に命を狙われ、王になってからも実の息子に王位を追われ、命からがら逃げ出すということがありました。彼を苦しめたのは外からの攻撃だけではありません。自身の中でも大きな罪を犯してしまいました。自分の部下の妻と無理矢理に関係を持ち、その悪が表沙汰になるのを恐れて、その夫を戦場の最前線に送り出すという卑怯なこともした。それゆえに、自身の子供を失うということも悲しく辛く、後悔してもしきれないほどの経験をしました。そんな彼が歌うのです。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」そして、続けます。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」私たちは忘れやすいものです。いや忘れたくなるようなこともたくさんあります。いったん忘れて切り替えなければ、先に進めないと思うようなこともある。けれども、本日はもう一度、忘れてはならないことに思いを向けたいのであります。そうするときに、忘れたいと思っている痛みや悲しみの意味が、ガラリと変わると信じているからであります。このような箇所を見ますと、悪いことには目をつむり、良いことだけを見て生きるというように読む方がおられますがそうではないのです。悪いこと、悲しいことの中にさえも神様の光り輝くメッセージがある、良いことがある。だからその一つ一つを見落とさぬように、忘れぬように、生きるということが必要なのです。

 実はこの詩篇103篇、先ほどは一つ後の104篇との関連をお話ししましたけれども、一つ前の102篇との関係についても教えられることが多いものです。詩篇102篇の表題は、先ほどの賛美や感謝にあふれたものとはまるで違っています。「悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎだしたときのもの」。さらに1,2節もお読みしますと、鼻歌どころか、嘆きの叫びや苦痛の祈り、助けを求める声が響いています。これは作者が書かれていません。ダビデだという人もいれば別の人物によるものだとも言われる。確かなことはわかりませんが、この位置に置かれているということ、すなわち、あの全身全霊、人生のすべてをもって神を賛美すると歌う本日の103篇の前に置かれているということは、明らかに意味あることだと思うのです。それは、102篇のような日もあれば103篇のような日もあるという程度のことではなくて、102篇のような状況があったとしても、その中でも103篇のような賛美をすることができるということだと思うのです。周りの状況が変わったから主をほめたたえることができるようになるのではなくて、悩み気落ちするときでも、主を賛美することができる。それはなぜかといえば、「主のよくしてくださったことを覚えている」からであります。その一つ一つに目を留め、忘れずにいるのならば、私たちの内側外側がどれほど激しい嵐の渦中にあったとしても、神様がしてくださった良きことへの感謝があるのです。

 

3. 主の良くしてくださったことのゆえに喜び

 103篇に戻り、ダビデは、その良くしてくださったことを数え上げます。3-5節をお読みします。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

ここで「あなた」と言われているのは、何か自分とは関係のない第三者ではなく、1,2節で言われている「わがたましい」であります。詩的な表現を用いていますが、ダビデは自分自身のことを言っているのです。

 咎の赦し。咎とはなんでしょうか。辞書を開いてみますと、幾つかの意味がある中で、「罰せられるべき行い」とあります。ダビデがこの言葉を使うことを考えると、あの、彼が犯してしまった過ちを思い浮かべます。彼自身もそうではなかったのか。人の妻を自分のものとしてしまった罪。到底赦されるはずのない、罪の行為でした。しかし彼の悔い改めの詩篇には「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました」とあります。この一回の咎を言うだけでなく、生まれてから犯し続けてきた罪のすべてをここで告白し、しかしそれがすべて許されるということを「主の良くしてくださったこと」の一つに教えるのです。

 病のいやし、これは実際の病気の癒しとも考えられますが、先ほどが咎、つまり罪の行為だったのに対して、病気のように体を蝕む罪そのものの癒しであるとも言われます。咎と罪、同じように言われることがありますけれども、厳密に言えば違います。咎というのは行いであって、この罪そのものから出てくるものです。悪い木が悪い実を結ぶようなものです。ですから、一回一回の咎をいくら告白し反省したとしても、この根元、まさに根本をなんとかしなければ結局はいつも同じ問題で苦しみ続けることになるのです。対処療法でその悪い実をいくら刈り取っても、その場その場はしのげるかもしれませんが、根本的な解決にはならない。それが人生の問題だとしたらなおさらです。根本的に私たちを苦しめ、悪を行わせる罪をなんとかしなければならないのです。ダビデは、その病が癒されたというのです。罪に染まっていた身が清められたのです。

 そしていのちの穴から贖う。墓穴(はかあな)に落ちた者、つまり死者をその死から引き上げるということを意味しています。単なる蘇生ではなく、永遠のいのちについてまで言っているという方もおられます。贖うという言葉は、代価を払って買い取るという意味です。ただ助け出すだけでなく、犠牲を払って助け出すと言い換えることができるでしょう。そういった意味で、イエス様の十字架を言っているのではないかと考えられ、単なる蘇生ではなくて永遠のいのちを与えると読まれているのです。もちろんそのように読むことは正しいのだと思います。しかし、同時にダビデがかつて羊飼いだったことを覚えたいと思うのです。羊が穴に落ちるということは多くあったそうです。窪地であったり谷であったりしたのかもしれませんが、とにかく自力では這い出ることができなかった。そうした時、羊飼いはあの先がグネッとなっている杖を使って引っ張り上げたと言われています。かつてそうやって羊飼いとして穴の羊を助けてきたダビデが、自分自身をその穴の羊、助けてもらわなければどうしようもない、じたばたするしかない者だと合わせて考えていたのではないかと思うのです。王様ですから権力や力があります。部下に命じればどんなことでも聞くでしょう。しかし、その穴から助け出すことは誰もできない。そんな非力で、自分の力ではどうしようもないことを知った羊飼いダビデの言葉として聞くことができるのではないかと思うのです。有名な詩篇23篇でも、ダビデは自分自身を羊として歌います。「主は私の羊飼い。私は恐れることがありません」。多くの困難の中にあっても、まことの羊飼いと共にいる安心を歌っているのです。

 

4. 羊飼いと共にいる羊の喜び

 いえ、ダビデだけが言っているのではなくて、イスラエルの民は羊であると書かれている箇所は非常に多くあります。一カ所開きましょう。今年一年私たちに与えられてきた年間聖句、本日の中心聖句ともさせていただきましたエゼキエル書34:16です。ほぼ毎週、祝祷の時にはこの箇所が読まれていましたが、皆さんはどのようにお聞きになっていたでしょうか。神様が羊飼いとして、羊たちを見ておられる箇所です。少し前の部分からお読みしますと… 11節からお読みします。…わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。(エゼキエル書34:16神様が私たちの羊飼いであるということの大きな意味として、私たちが困った時、ピンチの時、問題を抱えている時に助けてくれるということ以上に、どんな時にも共にいてくださるということを覚えておきたいと思います。穴に落ちたら助け、獣から守ってくれる。それは素晴らしいことです。しかしそれだけではなく、私たちの日毎の食事を与え、必要を満たしてくださる。緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる。行くべき場所へと導いてくださるお方であるのです。先ほどお読みした箇所には世話をするとか養うという言葉が何度か出てきました。まさに生活を整えてくださるお方です。必要のすべてを満たしてくださるお方である。いつも気を配り、時には戒め注意することもあるでしょう。けれどもそれら一つ一つは、この羊である私たちのことを本当に守り育てるためである。ダビデは、羊飼いであったかつての自身のことを思いつつ、今自分が弱い羊のように主の懐に抱かれていることを知って、このように歌っているのではないでしょうか。そしてその賛美は、私たちの賛美である。

 

5. まとめ

 もう一度103篇に戻り、最後の部分を読んでいきましょう。4節の後半には、「あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」とあります。これは、今日の箇所少し後、8節を読むととても大切なことが言われていることに気づきます。この詩篇の鍵となるものは、8節にあります神様のお姿です。主は、憐れみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。四節後半の恵みとあわれみの冠とは、まさにこのお方の冠をいただくということになるでしょう。多くの咎を犯し、罪に汚れていた私たちです。まことの羊飼いの元を勝手に離れていく愚か者であった。しかし神様は、そんな私たちを取り戻し、それだけでなくご自身の冠を被らせてくださる。このお方の恵みとあわれみはとんでもないスケールに及びます。11-13節。神様の恵みは地から遠く離れた天ほどに大きく、本来は私たちに重くのしかかる罪を東から遠く離れた西ほどに遠ざけてくださる。先ほどは羊飼いと羊の話をしましたが、それは父と子の関係に置き換えても良いでしょう。子を思わない親はいません。最近ではこう断言できない悲しい事件が多く起こっていますが、しかし神様は違う。まさに犠牲を払ってでも、この子を憐れんでくださるお方です。ご自身のまことの独り子であるイエス様をお与えになるほどに私たちを愛し、離れていた私たちを子にしようとしてくださるお方なのです。

 そんな私たちは過去を振り返り、恵みを数えて、あーよかったねで終わるのではありません。与えられた良いものを数えるならば、前進への大きな力が与えられるのです。最後、5節、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。もう最後にしますけれども、このダビデの時代からおよそ300年、イザヤという預言者に与えられた神様の言葉を思い出します。主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってたゆまず、歩いても疲れない。恵みを数えるということ、私たちに与えられている素晴らしい恵みの数々を覚えるということ。それは、気落ちし、悩み、嘆く時にも、私たちは覚えることができる、大きな力となるのです。それは明日からの歩みを喜びと感謝に満ちて生きることができる原動力です。主の良くしてくださったことを忘れずに、これまでの歩みを静まりの中で感謝しつつ、新しい明日からの歩みに期待してまいりましょう。少しの間ですが静まりの時を持ちます。それぞれに主の良くしてくださったことを思い巡らす時を持ちましょう。