主が来られた目的

❖聖書個所 ルカの福音書10章25節~37節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」ヨハネ6章38節

                   

❖説教の構成

◆(序)このところを取り上げる理由

①アド・ベントの礼拝において、このところを開きましたのは、ここには中心聖句としてあげましたが、クリスマスの目的「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」(ヨハネ6章38節) という意味がはっきりと言われているからです。

 

 

②この箇所は、良きサマリヤ人の譬えとして有名なところです。主は、とかく身勝手に律法を解釈しがちであった専門家から律法全体の要約の一つである「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われている隣人とは誰かという質問に対して答えるとともに、大きく旧約に代わる新約が実現していること、救い主が世に来ていることを示し、聞く耳を持つ人は聞きなさいと言っているのです。

◆(本論)主イエスが伝えようとしたこと

①エルサレムからエリコにくだる強盗が出ることで良く知られていた道で、強盗に襲われて瀕死の状態で倒れていた人を見ながら 、反対側を通りすぎて行った祭司、レビ人は、律法を熟知していた者たちでした。律法全体の中心、力の限り神を愛すること、自分を愛するように隣人を愛するということもはっきり知っていました。ところが彼らは、倒れている人を見て、反対側を通り過ぎて行ったのです。その人がもう死んでいると思い、それに触れることは汚れると考えたのか、或いは生きていると分かっていても、助けるに値しない者であると思ったゆえです。もしくは、危険なところであり、自分自身も全く余裕がなかったからです。いずれにしても律法自体はすばらしいものですが、それを適用する人自身が身勝手に解釈しがちであったのです。

 主は、祭司やレビ人や質問した律法学者のありのままの姿を指摘しながら、律法自体はすばらしいものであっても、律法を行う者自身が自分中心の考え、そしてそれは罪の状態そのものですが、それから離れることができないゆえに、人として大切なことを行うことができない、限界があることを示したのです。そして、だからこそ、父なる神は、旧約に代わって、人を救うためにここに出てくるサマリヤ人のような御子イエスを与えたというのです。

 このように、この箇所は、隣人を愛する真の意味を明らかにするとともに、神が旧約に代わって新約を与えられたことを示しているとても重要な個所ということができるのです。

 

②さて、祭司やレビ人が過ぎて行った後、そこに通りかかったサマリヤ人は本当にすばらしい存在です。彼は、イスラエル人と歴史的な確執があるサマリヤ人でしたが、そんな歴史に一切とらわれず、ただ瀕死の状態にいる人の苦しみだけを見て、はらわたがちぎれるほど同情し、何とか助けようとして近寄り、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をし、(出来る限りの手当をして)、自分が乗っていた家畜に乗せて(非常に大切にして)、宿屋に連れて行き、介抱してやり、次の日、二デナリ、(破格の費用を払い、)を宿屋の主人に渡して「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(傷を負った本人ではなく、自分が最後まで責任を持つ)と言っているのです。

 このサマリヤ人にとっても先の祭司やレビ人と同じく、身の危険があるのです。傷ついている人を伴っていくのですから一層、危ないと思われるのです。しかし、この人は、律法を良く知り、律法に生きようとしていた祭司やレビ人と違い、自ら危険を負い、犠牲を払ったのです。彼は、自分を基準とする考えから入っていないのです。そうではなく、倒れている人を中心、優先して行動をしているのです。明らかに、律法学者たちの理解、解釈を超えた行動をしたのです。

 主は、真に隣人を愛することを示したこの良きサマリヤ人を通して、ご自分が来られた目的を明らかにし、救い主として来られたご自身によって、旧約に代わる救いの御業が実現していることを示しているのです。ですから、このところは、中心の律法をめぐる単なる律法解釈論争にとどまらず、旧約、律法中心に代わる新約、救い主による罪の贖いが実現したと伝えているところです。

 

③聖書は、すべての生まれながらの人は、強盗に襲われて倒れている人のように罪と罪過の中に死んでいると言います。(エペソ2章1節) 確かに、肉体的に生きており、又自分の願うように生きているかも知れませんが、いるべき場所からはずれて、本当の生きる目的が分からず、生きる喜び、希望を持てず、又廻りの人々を受け入れ、愛することができない、更に自分のおかして来た罪の行いに縛られ、深い死の恐怖を抱いているからです。「義人はいない。一人もいない。」「すべての人は罪をおかしたので神からの栄誉を受けることが出来」ないとある通りです。(ローマ3章) 

   そういう者たちに対し、どう生きるべきか、また何をなすべきか教えられますが、弱さや罪深さのゆえに実行できず、不安の中に留まらざるを得ないのです。誰もそんなことを表面には出さず、そして多くの場合、別の何かによって心が満たされている時にはその不安も忘れることが多いのですが、認めようと認めまいと、すべての人は、罪と死の支配の中に生きているのです。

 父なる神はそんな罪と死の支配の中にいる者のために、律法ではどうしても真の救いを得ることができない者たちのために、時が満ちた時に、ご自分の愛するひとり子を罪と死よりの救い主としてお送りくださったのです。良きサマリヤ人が近づいて死を待つしかなかった旅人を介抱し、

助けたように、人となられた御子は、信ずる者に神の子としての新しい人生を与えてくださったのです。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10章10節b) とある通りです。そして、その主に全てを委ねるときに「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5章17節) と言われていることが実現するのです。

 

◆(終わりに)御子は神の最高の賜物

 多くの人が祭司やレビ人のように正しいことを教えられ、指示されますが、非常に疲れや重荷を感じています。言っていることは理解できるが、自分の人生を変えることができない、どうにもならないと感じています。そしてどうやって生きていったら良いか、悩んでいます。しかし、そんな倒れて死を待つだけだった者に良きサマリヤ人が来て、完全な助けを与えてくれたように、全ての人のために救い主がお生まれになったのです。

 

 主は、倒れた旅人の真の隣人となったサマリヤ人のように、私たちを罪と死の支配の中から救い、インマヌエル、(神は私たちとともにおられる)新しい人生を与えるために誕生されたのです。(マタイ1章23節) 私たちは、拒まず、ただ全てをこのお方に委ねるだけで良いのです。そこから新しい人生が始まるのです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じ」(ヘブル13章8節)です。すでに良きサマリヤ人のような主が来てくださっているのに、まだ律法中心、律法に照らし合わせて自分や人を見て、自分のような者は誰も助けてくれない、誰からも見放されていると思っているのではありませんか。神が与えてくださった福音を軽くみてはならない。福音は人の想像をはるかに超えたものです。良きサマリヤ人である主にすべて委ねて生きていきましょう。