この人を見よ

■聖書:マタイの福音書112-6節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。 (マタイの福音書115節)

 

1. はじめに

 待降節第二週に入りました。本日は、クリスマスに誕生されたイエス様とはどのようなお方なのかを学び、そのお方が生まれてくださったクリスマスの喜びをともに教えられたいと願っております。イエス様にはもう一つのお名前があり、それは「インマヌエル」、神は私たちとともにおられるという意味の名前でした。このお方の誕生日であるクリスマスは、神様がともにおられることが、このお方を通して明らかにされた日であるということができるでしょう。では、神がともにおられるとは一体どういうことなのか、イエス様の歩みから見ていきたいと思います。

2. 人々の問い「おいでになるはずの方はあなたですか」

 早速、本日の箇所を読んで参ります。112-3節、さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエス様の噂は投獄されていたバプテスマのヨハネのところにまで届いていました。彼がなぜ捕まっていたかと言いますと、当時のイスラエルを統治していたヘロデ王の罪をまっすぐに指摘したからでありました。それはまさしくヨハネに与えられた使命を全うしたことでもありました。ヨハネは来るべき救世主・メシアの道備えとして立てられており、人々に悔い改めを教えていました。私は、あなた方が悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私の後から来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を蔵に収め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:11-12人々に悔い改めを迫り、やがて来たるメシアのもとへ行くように教えていたヨハネでしたから、ヘロデ王の罪について見て見ぬ振りをできなかったのでした。そんな彼であったことを覚えながら、弟子たちに託した問いを読みたいと思うのです。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」いろいろな読み方がなされる箇所です。バプテスマのヨハネとはいえ、牢獄に押し込められた中で、本当にイエスがおいでになるはずの方、メシアであるのか、確信が持てなくなり揺らいでいたのではないかという人たちもいます。またある人々は、ヨハネは揺らぐことがなかったが、弟子たちはそうではなかったので、弟子たちにこの問いを託すことでイエスを見るように仕向けたという人々もいます。

 これだけの箇所だけでヨハネの心境を推察するのは限界があります。しかし、大切なことは、ヨハネであったか弟子たちであったかは定かではないにしても、イエスが約束されていたメシア、キリストであることを受け入れきれない人がいたということであります。いや、彼らだけではなく、多くの人々がそうでありました。イエスが話していたことに驚いた人々がいます。その驚きは、あの大工のせがれがこんなことを言うなんてという驚きでした。イエス様が宣教活動をされたのは30歳くらいだったとされています。そんな若造が、急に何かを話し始めたとしても普通だったら聞いてもらえないでしょう。お前に何がわかるんだと言われて終わりです。今日でも、多くの人はその人の肩書きや生まれ、財産などで人の価値を判断します。あるいは能力などを持って人の優劣を決めたがる。そんな価値観で見るならば、このイエスという人物は信じるに値しない人と言われてしまうでしょう。ヨハネの弟子たちに託された言葉を言い換えるならば、「救いはあなたからいただけるのですか?他のものを頼った方がいいのでしょうか」と言ってもいいかと思います。そう考えると、これは何もヨハネたちだけではなく、多くの人が持っている問いではないかと思うのです。何かを求めて生きている。何かを頼りに生きている。でも、本当にこのままでいいんだろうか。本当にこれにしがみついたままでいいんだろうか。ひょっとすると、教会の中でもそのような誘惑があるのかもしれません。イエス様を信じたは良かったけれど、果たして本当にそれで良かったのだろうか。他の人たちも楽しそうに、しかも上手に生きているじゃないか。ひょっとしたらあっちの方が幸せなんじゃないだろうか。いろいろな誘惑の声が、私たちの周り、だけでなく内側にもあるのです。そしてそれはとても切実な問いでした。人生をかけて信じていく。信じ抜く。それに足るだけのものが(それに値するだけのものが)、ここにはあるのだろうか。

 

 そんな私たちのすべての不安、惑いに対して、イエス様はご自身がどのようなお方なのかをお話になっているのです。今朝イエス様が語られている言葉、少し飛ばして最後にはこうあります。6節「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」つまずき得るものがあることをイエス様は重々承知しておられました。誘惑は強く、私たちは弱い。それをよくご存知だった。しかしそれをご存じの上で、つまずかないためにはどうすればいいのか、そしてつまずかない者の幸いを伝えるのです。

 さて、つまずかないため、言い換えれば幸いを受けるために必要なものとはいったいなんでしょうか。言い換えれば、ヨハネの弟子たちが携えて来た、私たちが持ちうる疑いや不安を表わす質問に対する答えはどこにあるのでしょうか。

 

3. イエス様の答え「貧しい者に福音が宣べ伝えられている」

 4節、イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたはがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。」自分たちの聞いたり見たりしていること、それが「おいでになるはずの方、私たちが待っていた救いは、あなたなのですか」の答えであるというのです。わたしのしていることを見て、わたしの話している言葉を聞きなさい。わたし自身を見なさいと言っているようであります。それこそが、私たちが揺るがされずに、安心して、希望をもって生きることができる道であるわけです。

 そして具体的にイエス様がされてきたことを続けているのです。本日の中心聖句にさせていただきました5節、目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。確かに、イエス様の歩みはここに当てはめられます。イエス様の地上でのお働きの要約と言っても良いかもしれません。私はこの箇所が与えられ、何度か読んでいるうちに気づかされたことがありました。「目の見えない者が見えるようになり、足のなえた者が歩けるようになり、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞こえるようになる」いわば人々が驚くようないわゆる「奇跡」と呼ばれるものが並べられている箇所です。人々はこの力を見て驚きました。しかも病からの癒しだけでなく、死人が生き返りとありますから、もう私たちの理性ではとらえきれないことまでなされたのでありました。これだけでも、このお方が特別な方であるということのしるしには十分でしょう。しかしその中に、「貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」ことが入っているというのが、私が本日の説教の備えをしていた一番心に迫ったところであります。しかも一番最後、死人が生き返るということよりも最後におかれ、イエス様のお働きのクライマックスのように言われていることであります。いや、これが一番優れているというわけではなく、全てがここに向かっている、これに含まれるといった方がいいかもしれません。病の癒しも、穢れの清めも、死に勝利されることも、すべては「貧しい者に福音を宣べ伝える」ということに集約される。そう言えると思うのです。本日は、ここに注目したいと思っております。たまたまこの順番であるわけではなく、明らかに意図して、この「貧しい者への福音」が最後に、強調を持っておかれているのであります。イエス様の御生涯、それは人々の目を奪うようなおどろくべきみわざがありました。ここで言われているように病を癒し、汚れをきよめ、死にさえも勝利されるというものであります。しかし、そのみわざ、驚くべき業の頂点にあるのは「貧しい者への福音」なのであります。福音というのはよき知らせ、グッドニュースと呼ばれ、ゴスペルとも訳されるものです。このよき知らせのためにこそ、イエス様は来られた、クリスマスはその始まりであると言って良いのだと思うのであります。

 

(二つの預言の成就)

 5節で語られているこれらの6つの奇跡には意味がありました。旧約を隅々まで覚えていたユダヤ人にとっては、これらの事柄は明確に一つのことを意味していたのです。これらはおよそ400年前の預言者、イザヤの言葉であり、イエス様がしていることはこの預言の成就という大切な意味があったのです。二カ所開きたいと思いますが、まずはイザヤ書35章をお開きください。本日の交読文でもともに読み交わした箇所です。5-6節「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳は開く。そのとき、足のなえたものは鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」イエス様は明らかにこの旧約聖書の箇所を意識して話されていることに気づきます。と言うよりも、イエス様の存在自体がこの預言の成就であると言った方が良いでしょう。まさにこのように回復を与え、人々を癒されたのであります。しかしこの預言にはさらに素晴らしい意味が込められていました。新改訳聖書の脚注にはこの二節だけが記されていますが、しかしこの二節を理解するためにはその前のイザヤ書353-4節を読まなければなりません。こうあります。弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。…」もちろんこれらの回復はとても喜ばしいことです。この身体的な癒しを求めてあっちへ行きこっちへ行き、様々なものに頼ってきた人もいたでしょう。そんな人々にとっては、この回復というのは何よりの喜びとなったことは想像に難しくありません。けれども覚えておきたいことは、これはあくまでしるしであって、それが何を意味するかといえば、いまお読みしました4節終わりにあります「神は来て、あなたがたを救われる。」というところにあるのです。神は来て、あなたがたを救われる。そのとき目の見えない者の目は開き、…と続いている。イエス様の癒しの技はそれ自体で大きな喜びと驚きをもたらしました。けれども、本当の素晴らしさは、それらの出来事を見て、聞いて、神は来られたのだ、神の救いが私たちに訪れたのだと知ることである。そこにこそ本当のさいわいがあるのです。私たちはこれをしっかりと覚えておかなければなりません。「神は来て、あなた方を救われる」このよき知らせ、福音を知らせるためにイエス様は来られたのであります。

 さらにイエス様の言葉はもう一つの預言の成就でもありました。同じくイザヤ書の61章、やはりメシアを預言する箇所です。イザヤ書をそのままお読みしても良いのですが、実はこのイザヤ61章については、イエス様が別のときにも話されている大切な場面がありますので、そちらをお読みしたいと思います。ルカの福音書4:16- それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり、安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてあるところを見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」貴重なイエス様の礼拝の場面です。今日の私たちと同じように、聖書が開かれています。そこで開かれた箇所が、本日のイエス様のことばの背景にあった400年前のイザヤの預言であった。そして続けます。イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」400年前にイザヤを通して預言されていた出来事、主に油注がれて遣わされ、貧しい人々に福音を伝え、囚われ人に赦しを与える。それが、きょう、実現したと言われるのです。このお方によって実現した。やがて来られると言われ、「おいでになるはずのお方」、いつか来ると待ち続けてきた救いと癒しが、きょう、実現した。イエス様が来られたことによって、実現したのです。油を注ぐというのは特別な役割が与えられたことを意味しています。イスラエルの王であるダビデもまた、王に任命されるときに油を注がれました。そもそもメシアとは「油注がれた者」と言う意味です。私がそれだと言われるのです。しかもそのご自身が世に来た目的を、貧しい人々に福音を伝えるためだと言われている。

 「貧しい人々」とは誰のことでしょうか。一つには、実際に金銭の面で多くを持たない人々のことを意味していると考えられます。それゆえに、人々から見下げられている人々、ないがしろにされている人々、軽んじられている人々のことまで含まれていました。しかしマタイはこの言葉を使うとき、明らかに山上の説教を意識していると考えられます。多くの人々が驚きを持ってイエスを見ることになる山上の説教、その最初が、「心の貧しい者は幸いです」というものでした。心の貧しさをイエス様は見ておられる。ここに私たちは注目したいのです。ヨハネの黙示録において、ヨハネはラオデキヤの教会についてこのように書き送ります。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」ラオデキヤは商業都市であり、教会においても裕福な人たちがいたと考えられています。しかし、多くのものを持ち、豊かであったとしても、実は気づいていないだけで、惨めで、あわれで、貧しく、盲目で、裸であることを知らないだけなのだと言われています。それはまさしく心の貧しさであります。気づいているものは幸いであると言われますが、それに気づかず、持っているものを誇り、それによって安心を得ているのだとしたら、イエスを求めることの大きなつまずきとなってしまう。自分の貧しさに気づかずに目に見えるところに満足し、安心を得ているのだとしたら、それは大きな勘違いであります。人は皆、貧しいものであります。満たされない、不足している、渇きを持っている。そのことに気づいている人はどれだけいるでしょうか。それに気づいて、その飢え渇きを満たすために、このお方のよき知らせ、福音が必要なのです。イエス様はそれを与えるために来られた。誰にも顧みられることのない人々、この心の渇きをどうにかして癒してほしいと願い求める人々のために来られたのであります。「神は来て、あなたがたは救われる」ことの実現がどうしても必要なのです。イエス様の誕生は、まさにこのよき知らせであります。今苦しんでいるあなたも、今満たされないと悲しい思いをしているあなたも、誰にも癒すことができない飢え渇きに嘆いているあなたにも、主は来られ、よき知らせを与えられる。神が来られたということ、あなたがたは救われるのだという知らせを与えてくださる。この知らせを告げるイエス様ご自身を通して、私たちに救いがもたらされるのです。

 

 冒頭でもお話ししました。イエス様に与えられた名前「インマヌエル、神は私たちとともにおられる」ということが実現しているのであります。このよき知らせは、遠く高いところからばら撒かれたようなものではありません。まさしくイエス様が、そのようなものたちの友となられ、食卓を共にし、寄り添われて伝えられたのです。いや、地上でのご生涯の一番初め、あの汚く暗い馬小屋での誕生から、まさにその約束は実現されていた。ここにこそ、クリスマスの本当の意味がある。ここにこそ、クリスマスの本当の喜びはある。私たちはそれを、しっかりと覚えておきたいと思うのです。

 

4. まとめ 飼い葉桶に寝かされ、貧しい者とともに生きられた「この人を見よ」

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」イエス様はこのように結ばれます。お気づきになった方もあるでしょうか。これは山上の説教で語られた八つの祝福と同じ形が使われているのです。心の貧しい者は幸いですから始まる八つの幸い、その人は祝福される、祝福を受けると言われているのでした。この世の価値観とは真逆のことが幸いである、祝福を受けると言われていました。まさにここでイエス様につまずかないというのも、この世の価値観で言えば、価値なきものなのかもしれません。大工の息子、特別な生まれでもなく、いや普通の人よりもさらに低く暗い馬小屋で生まれられたお方です。成長された後も律法学者たちに攻撃され、同国のユダヤ人たちからはののしられ、忌みきらわれる十字架に付けられたお方です。だれも憧れず、だれも期待を寄せるはずのない人です。今日でも、自分の力で道を切り開いていく、助けを求めることは弱いもののすることだという風潮があります。そんな中で、この人に望みを置く、信頼を置く、すがりつくなんて馬鹿げていると思われるかもしれません。バプテスマのヨハネ、あるいはヨハネの弟子たちでさえそうでした。しかし、そんなお方を見るということ、信頼してこの身をゆだねていくということ。ここにこそ本当の幸い、神様の祝福があります。

 「まぶねの中に」という賛美をこのあと共に歌いますが、本日の説教題にもさせていただきました「この人を見よ」という歌詞がなんども出てきます。知識や神学的な学びを深めても、このお方を見ていなければ意味はありません。貧しきもの、罪ある私たちの友となられ、救いを与えてくださるお方から目を離さずに生きていきたいと強く願います。このお方の生涯を通して表された愛を見なければ、本当の救いを得ることはできないのです。クリスマスのこの季節、人々の目や心を奪う美しいイルミネーションや楽しそうなイベントがあちらこちらで開かれています。けれども、私たちは馬小屋で生まれ、貧しいものによき知らせを届け、生涯を通して愛を注いで下さったお方、今なお生きて働かれ、共にいてくださる救い主、イエス様から目を離さずに、本当の喜びに満たされてこの時を歩んでまいりましょう。お祈りをします。