深く思う人、マリヤ

❖聖書箇所 ルカの福音書1章39節~56節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。                ルカの福音書 1章54節

 

❖説教の構成 

◆(序)賛歌の背景

①賛歌の内容を見る前に、マリヤについて聖書が言っていることを確認しておきたいと思います。

1章36節ではマリヤは、祭司ザカリヤの妻、エリサベツの親類であると記されています。このエリサベツは、モーセの兄アロンの子孫、祭司の家系でしたから、マリヤもまたその家系として祭司職に関係がある家の出身であり、レビ族に属していたと考えられています。

 また前後しますが、1章26節以下では、マリヤは「ガリラヤのナザレに住むひとりの処女」であり、「ダビデの家系のヨセフという人のいいなづけ」と記されています。マリヤは、今話したように代々神を重んじていた家系の出身ですが、彼女が住んでいたところは、神殿があったエルサレムから見て遠く離れた、外国と国境を接している辺境ガリラヤの地、外国の宗教や異教的習慣が多く入り込み、宗教的に汚れていると思われていた、マタイ4章15節 ~16節では暗闇と死の陰の地と言われている地であったのです。中でもマリヤが住んでいたのは、ナザレから何のよいものがでるだろうかと言われていた町でした。

 

 マリヤはそんな町に住み、ダビデの家系の、今は、大工、石工として働いているヨセフと婚約していた、まだ一緒に暮らしていない処女でありました。この時のマリヤの年齢については分かりませんが、当時の習慣からして、おそらく大変に若い、10代であろうと思われます。

②こんな暮らしを送っていた中で、御使いガブリエルから受胎告知がなされたのです。聖書は何も記していませんが、言うまでもなく、想像できないことであり、理解不可能なことでした。栄光に満ちた神ご自身が人のかたちをとって、人からお生まれになるということそのものがありえないことであり、大変な驚きであるのに、そのため辺境の地、中でも神から遠いと思われていた町の名もなき自分が選ばれるなど、どう考えてもありえない、まして私はヨセフと婚約している身ではありませんか。その通りになるなら、ヨセフとの関係がなくなることはもちろん、どう言っても信じてもらえない人々から、姦淫の罪を犯したとして、石を持って殺される恐れがある、到底、そのお告げを受けることなどできない、受けてはならないと思ったのです。

 こうしてはじめは大変に悩み、葛藤しましたが、マリヤは、本当に驚きですが、その御告げを頑なに拒むことをせず、自分の中で深く考え、そしてついに38節にあるように受けとめたのです。御使いが告げたことであり、その通りになると思われるが、しかし、その言葉の通り実現するまでに姦淫の罪を犯したとして石打ちで殺されるかもしれない、また殺されなくても確実にヨセフと別れることになる、しかし、たとえそうなっても構わないと決心したのです。

 そんな姿から浮かびあがってくるのは、マリヤは、確かに若いけれども、神の御心を追い求める思いが強い、神に対する姿勢がとてもはっきりしている、それゆえ、神に従うならば自分に何が起こるか十分予想できても、私は神に従うという意思が強い、そして世の人々を恐れない、また非常に賢い女性ということです。

 本日これから見ようとしているマリヤの賛歌は、そんな葛藤を経験したうえでの賛歌です。賛歌だけを見ると、マリヤは驚くようなことを告げられても、少しも悩みもしないで、ただ神を讃美しているように見えますが、そのような受けとめ方は、誤りだと思います。マリヤは、当然深く悩み苦しんだのです。しかし、自分に示された主の御告げに対して、自分の悩みや苦しみも全て委ね、ささげたのです。

◆(本論)マリヤがほめたたえているもの

①内容を見て行きます。この賛歌において、マリヤは三つのことを言っています。一つは、48節、49節前半。救い主の母として自分に目を留めてくださったことに対する感謝です。人の罪を贖うために、神の御子が人としてお生まれくださるという、驚きに満ちた御技がなされるにあたって、自分のような者に神が目を留めてくださったという神の憐れみの深さに対する感謝です。それは、自分が選ばれて嬉しいという意味ではなく、自分のように目を留めて、御技をなされるとは、なんと神は憐れみに満ちた方だろうかという神の憐れみの深さに対する讃美です。

 敬虔な賢いマリヤは、自分が神が御わざを行うにふさわしくないと思われる地方の町に住み、しかも婚約中であり、人間的に言うならば、救い主の地上の母として選ばれるにふさわしくない者であることを知っていましたが、救い主誕生の御告げを深く自分の中で受けとめ、葛藤しましたが、神が救い主を与えるに際して、その母として自分に目を留めてくださったことにすべてを犠牲にしても構わない神の恵みと真実、深い憐れみを感じたのです。

 

②マリヤがこの賛歌において言っている二つ目のことは、父なる神がこれまで人に対してなしてくださったことに対する讃美です。49節後半から53節です。(朗読) その御名、力ある方であり、世界を創造し、一人ひとりにいのちを与え、愛しておられる、人の思いをはるかに超えた方、神を第一にしようとしている者を永遠に憐れむ父なる神に対する讃美です。イスラエルの主は神を愛し、従う者のためにご自分の御手によって、力強いわざをなし、また高ぶっている者を退け、虐げられている人々を顧みて来られたというのです。まことの神に背いて神から離れて罪の中に生きるようになった者を見捨てないで、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエルを選びの民とし、神にある生き方を示す律法を与え、彼らを導き、彼らと共におられ、救い主誕生の約束を与えてくださったことです。

 

③三つ目は、54節~55節。その約束の通りに救い主誕生の約束を実際に成就してくださることです。マリヤは当時、会堂において教育を受けることがゆるされていない女性であり、どのぐらい旧約時代の歴史を理解していたのか不明ですが、祭司の家系であり、レビ族の家系ですから自然に自分たち民族の歴史や神がなしてくださったこと、また救い主誕生についての預言など身につけて成長していたものと思われます。そういう環境のもとにおり、また彼女自身、霊的で賢い人でしたから、約束されている救い主とはどんな方で、何のためにお生れになるのか、マリヤは理解するようになっていたものと思われます。そして、この方は、神の民とされたイスラエルを助ける方、イスラエルが神の民とされた目的、罪の中にいる全世界の人々に神の祝福を知らせるという目的を実現してくださる方だということを受けとめたのです。神は、この方によって世界に向かって、人にとって最大の祝福、罪の赦し、神の子としてくださり、天の希望を確かにしてくださることを信じることができたのです。

 

◆(終わりに) マリヤと私たち

 

   マリヤは、最初、恐れました。しかし、彼女はすべてをゆだね、ささげ、その御告げを受け入れ、主を讃美しています。驚くべき姿です。マリヤのその後の生涯を見ても、彼女は主に対して深く思う人であり、そして確信が与えられたならば、強い意思を持ってそれに従う人であったことが分かります。まさに、神に従う者でした。そういう人でしたから、御告げを受けても、神を讃美することができたのです。あまりにも立派に見えて、私たちと関係がないように思うかもしれませんが、それは今日の話の本意ではありません。お話したかったのは、マリヤは主に対して深く思う人であったということです。そのような姿勢は時代が変わっても、すべての信仰者にとって大切であり、生きていく力であることです。神を深く想う人、マリヤの姿勢を心に留めましょう。