対立の解消

❖聖書箇所 使徒の働き11章1節~18節        ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 人々はこれを聞いて沈黙し、それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。 使徒の働き11章18節

◆(序)この箇所について

 間があきましたが、初代教会について記されている使徒の働きの続きを見て参ります。本日の箇所は、律法の背景がない異邦人も救いに導かれた、またそれらの人々にベテロが洗礼を授けたということを聞いた割礼を重んじるクリスチャンたちが、ペテロを非難し、厳しく問い詰めようと待ち受けていたという場面です。当初は、教えに反することをしたとペテロを非難しようとしていた者たちでしたが、ペテロが事の次第を詳しく丁寧に説明した後、沈黙、納得し、それでは異邦人にも神の義、救いの道を開いてくださったと神を褒め称えるようになっている場面です。

 これまでは選びの民、ユダヤ人が中心であった教会の間口が一挙に広がったという場面です。私は、このところは、律法の背景が全くない者でも、自分の罪に気づき、砕かれ、悔い改め、主の福音を信じる者は救われることがはっきりしたことから、教会の歴史において、非常に重要な意義を持つところだと思います。

 

 よく話すように、今年は宗教改革500年にあたる年ですが、その宗教改革の糸口になったみことば、ローマ1章17節に言われているように(朗読)、生まれによらず、行いによらず、すべての国民、民族に、信仰による義、神の救いが与えられていることが、実際に明らかになった場面です。主に救われることの中心、基準は、国籍や民族、また律法を知り、行うことにあるのではなく、どの国籍、民族の者であろうと神の御子イエスを信じ、受け入れることによって救われる、中心は、信仰による義だということが明らかになった重要なところです。たえず聖書全体の中心であると言っていますローマ3章21節~26節(朗読)が救いの歴史においていよいよはっきりしたという本当に大事な場面です。では内容を見て行きます。(関連箇所、ローマ2章6節~14節参照)

◆(本論)反対した理由と納得した理由

①著者であるルカは、ペテロを糾弾しようとした者たちについて、「割礼を受けていた者たち」、また彼らの非難の理由として「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」と言ったと記しています。この人々は、自分たちが考える信仰者のアイデンティ、信仰者であることの証明として、主の福音を信じることの他に、割礼を受けていることを重視する考えから、ペテロに反対し、彼を責め立てようとしたのです。この人々はユダヤ人クリスチャンたちですが、信仰者であるためには、主イエスを救い主として受け入れることだけでは足りず、割礼、創世記17章9節~11節(朗読) にあるような、 神の民の印として体の一部の皮膚を切り取ること、神のものとされている印、証拠が必要と考えたというのです。    

 皆さんの中には、割礼がそんなに重要であるなら、今までにも問題になったのではないか、しかし、現実に問題になっていなかったことを考えると、彼らの抗議は深刻なことではなくて、特別に気にする人がいたということではないかと思う方がいるかも知れませんが、そうではありません。教会にとってはいづれは突き当たるはずの大きな問題でした。今まで、実際に問題にならなかったのは、主を信じ、洗礼を受けたのは、ほとんど、元々割礼を受けていたユダヤ人たちであったからです。ちなみにピリポの宣教により救われたサマリヤ人たちもイスラエルの信仰と違いましたけれどもやはり割礼を受けていたのです。また信ずるようになった外国人も律法を学び、割礼を受けていたと思われます。ですから、割礼を受けていず、律法を全く知らない者たちが救われるということは、ユダヤ人信仰者にとっては想像もしていなかったようなことだったのです。

   念のため、ここに出ているペテロを非難しようとした者たちは、福音そのものを否定し、迫害したユダヤ人たちではありませんでした。悔い改め、主イエスを信じていたユダヤ人

クリスチャンでした。そんな人々が異邦人も救われ、教会の中心的存在であったペテロが洗礼を授けたと聞いて、抗議、非難をしようしたのです。それほど、全く律法の背景がない者、ことに割礼を受けていない者たちに洗礼を授けたということは、彼ら、ユダヤ人クリスチャンにとって考えられないことだったのです。そのため、強く抗議しようと待ち構えていたのです。

 

②しかし、そのように待ち構えていた者たちでしたが、ペテロが事の次第を順序正しく説明したときに(5節~17節) 人々はその話を聞いて沈黙し、逆に神をほめたたえたというのです。(18節) 

 ここにおいてまず注目すべきは、ペテロの姿勢です。彼は、彼自身が抵抗、葛藤を覚えた異邦人のところに行き、主を信じる異邦人も救われることが神の御心であると信じるようになった経緯を順々と語っています。まさに当事者、渦中の人物でしたが、自分の感情、思いではなく、主がなされたことについて時を追って詳しく語っているのです。

 人は、このような非難をされた時、案外、怒りを感じやすいのです。自分が苦労し、新しい状態が開かれたことをなぜ非難するのかと思うのです。繰り返すように、人間的には、ペテロは「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられる」ということが示されたこれらの一連の出来事の間、特に始めの頃は、彼自身、疑いや迷いの思いがあったのです。その自分が味わった抵抗や葛藤も知らず、結果だけを見て非難することに対し、逆に怒りの思いを持ったとしても不思議ではないのです。しかし、ペテロはそうしなかった。自分を非難する者たちを相手にして、ことの次第を順々に語ったのです。彼自身が心から、これらは神がしてくださったことであるという確信を持つようになっていたからです。

 私は、このペテロの姿勢から、現代の私たちにとっても信仰の証しをすることに対し、大切なことを教えられると思います。自分の思い、感情をまずおいて、出来事を冷静に振り返っていることです。こうなったのは、これがあったから、またその状態はその前にこれがあったから、そして一番始めにこのことがあったからと静かに振り返っていることです。そのように一つひとつ振り返ることによって人々に一番大切なこと、このことは主から出たことである、主の御心であることを伝えることができたのです。人々を説得しようとしているのではないのです。静かに出来事を振り返り、ことの次第を順序よく話すときに、神ご自身がそれを導いておられることが伝わるのです。論争する必要はないのです。経験したことを順序よく話す時に、神ご自身が伝わるのです。

 

◆(終わりに)御心を知る時、讃美が生まれる

   終わりに、この箇所から教えられるもう一つは、最初に反対していた者たちが話を聞いて18節にあるように沈黙し、神をほめたたえるようになっていることです。彼らはペテロが話すことを聞いて沈黙したとあります。これもとても大事なことです。本当に主の御心がわかり、心が揺さぶられて、彼らもことばにならない感動を覚えたのです。沈黙は豊かな時です。うかつに早まってことばにせず、主の恵みを知り、深く味わい、沈黙することから讃美が出てくるのです。

 

 なぜ、彼らは感動し、主を讃美したのでしょうか。話を聞き、一連の出来事は主の御心であることを深く理解したからです。この人々もペテロに対して感情的に反発していたのではなく、神の御心に従いたいという思いを持っていたのです。そういう気持ちを持っていたところに、順々と話され、選びの民に対するだけでなく、すべての民族に対する神の救いの計画を示され、讃美したのです。私は、この箇所は、人が考えることと主が行われることには大きな違いがある。しかし、主の御心がはっきり示される時、全ての信じる者のうちに感動が生まれ、力が与えられることを鮮やかに示している箇所であると思います。ペテロと聞いた者たち、双方にあったのは主に対する従順であり、主のなしたもうことに対する感動でした。それゆえ、すぐ対立が解け、一致することができたのです。皆さん、主の教会において最も必要なのは共に主の御心を求めることです。