ほふられた子羊

■聖書:出エジプト記121-14節    ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:…あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

1ペテロ1:18-19

1. はじめに

 出エジプト記を読み進める中、いよいよイスラエルの民がエジプトを脱出したそのところを読んでおります。その際、後のイスラエルにまで大きな影響を与え、まさに彼らの救いとともに覚えられた過越の祭について、本日は見て参りましょう。

 神の裁きを前にして、いわば裁判の判決の場において、無罪と宣告される人は誰もいません。それはすべての人が罪を持っているからです。初めて聴く人は、気分を害されるかもしれません。そんな愉快なことではないことは確かです。けれども、心から自分には後ろ指を指されることはないと言える人がどれほどいるでしょうか。あるいは心がいつも満たされていて、何一つ不自由なく、不満なく生きている人がどれほどいるでしょうか。聖書は、すべての人は罪人であるといいます。気づいているかいないかの違いだけで、人は皆、自力じゃ解決できない不安を抱えているのです。そしてその漠然とした不安を抱えながら、滅びへと向かっていくのです。その自分ではどうしようない問題を解決する道を与えてくださったのが神様でした。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民を救出し、罪の奴隷として苦しみや悲しみになすすべがなかった私たちを救出してくださったのです。それが、本日の箇所にあります過越の祭、そしてそこで犠牲として流された血によっているのでした。

2. 出エジプト記での過越の祭

 その裁きと、そこからの脱出の道が示された最初が本日お読みいただきました箇所です。誰一人、無罪判決を受けることができない裁きを前に助かる道は唯一つ、犠牲を払うことです。身代わりとなる小羊を屠り、その血を塗り、神の怒りを過ぎ越していただく(pass-over)しかないのであります。まず、このことを覚えたいと思うのです。私たちは皆、誰もしもが、自分ではどうにもならない物を抱えています。外からの助けに頼るよりほかなく、しかしその犠牲の先にこそ、本当の喜びの道が開かれるのです。

 本日の箇所でもそうです。イスラエルの民の苦しみを打開し、未来を切り開くのには、この小羊の犠牲がなければならなかったのです。お読みいただいた箇所、1,2節をもう一度お読みします。主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」前回も少しお話ししましたが、新しい月、新しい歴史の始まりについてまず伝えています。まだ出エジプトが果たされる前に、神様がこのように言われている。救われたのちの新しい人生がすでに約束されているようでもあります。これから詳しく見ていきますが、本日の箇所はイエス・キリストの十字架に繋がる大切な箇所であります。この出エジプトの際に制定される新しい暦にしても、イエス様の誕生から新しい歴史が始まったことを思い出させます。A.Dはアンノ・ドミニ、(主の年に)という意味のラテン語です。ある教会では、主の2017年などと、このイエス様から始まった歴史を意識しています。いや、そのような世界史のことを考えるまでもなく、私たち自身の救いのことを思えば、そこからそれぞれにとっての新しい歴史、新しい人生が始まったと言えるのではないでしょうか。

 その新しい歴史の始まりに必要なものが続けて語られます。3-7節をお読みします。3イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。4もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。5あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。6あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、7その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

 まず、家族ごとに羊を用意するよう命じます。ここで覚えたいことは、この段階ではこれが何のためのものなのか明らかにされていないということです。この羊が何のためのものなのか、なぜこんなことをしなければならないのか。なぜここまで厳密に、一歳の「傷のない子羊」を用意しなければならないのか。民達には知らされていないのです。その理由が明かされるのはこのあとです。8-11節では、ほふられた子羊をどのように食するかを細かに伝えたあとで、12-13節。その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

 神々へのさばきがあり、この血がさばきを免れる方法であることが明らかにされるのでした。いけにえの動物によって罪の許しを宣言することについてはレビ記について詳しく書かれています。このようなことを考えますと、神様はさばくこと自体が目的であるのでなく、その罪を認め、悔い改め、神様に助けを求めることで、赦しを与える。神様はこれを求めておられると言えるのです。罪を裁くだけならば、こんなにややこしいことをしなくてもいいのです。しかし神様はあえてこの道を用意された。これを本日は特に覚えたいと思うのです。神様は正しいお方ですから、罪を罪のままうやむやにすることはなさいません。それは厳しく裁かれる方であります。しかし愛のお方であり、一人が滅びることも望まれない神様は、助けの道を用意してくださる。出エジプトの時には、子羊を犠牲にすることでそれをしるしとして通り越すということ。そして何よりも、その独り子をお与えになり、その独り子を十字架にかけることで、私たちに愛を示し、救いの道を示してくださったのです。ここでの羊も同じです。もう良くお分かりでしょうが、これらは民を苦しめるための徴税のようなものではないということです。様々な宗教的儀礼はのちに形骸化して、人々を苦しめるようになります。しかしそもそもは、自分ではどうしようもない滅びからの救いのために用意された神様の恵みであったのです。いや、あのアブラハムがイサクを捧げる場面、主の山でのアドナイ・イルエ、主の山には備えがあると言われ流出来事を思い出せば、ほふれられ、犠牲となる羊さえも神様は用意してくださるのだという、想像を超える恵みに私たちは打ちのめされるのです。どこまでいっても神様の恵み、救おうとされる愛がここには溢れているのであります。

 少し言い換えれば、民族によって救われるのではないということも覚えておきたいと思います。イスラエル人だからといって無条件で救われるわけでもない。やはりこの血を流すということが大切なのでした。モーセを通して神様はこれを示されましたが、それに応答するかどうかは委ねられていたわけです。確かに聴く機会は少なかったかもしれませんが、エジプトの家族であっても、この言葉を信じ応答すれば、つまり子羊をほふりしるしとして門柱とかもいにその血を塗るならば、やはり神様はそこを過ぎこされるのです。

 

 最初にもお話ししましたように、このさばきは、出エジプトのときだけのものではありません、まことの神様以外の神々へのさばきです。まことの神様の元にいないで、他の神々に頼る者があれば、すべてこのさばきを受けなければなりません。そして生まれながらの私たちは、みな、まことの神から離れそれぞれの神を偶像として拝むのです。お金が、地位が、安定が神様となっていることはないでしょうか。自分自身が自分の神だと錯覚している人が少なくはないのです。まことの神を信じ従っているつもりでも、それはいつしか自分が作り上げてしまっている神様になっていることもあります。その奴隷になっていることにも気付かずに、解決のない苦しみや痛みを抱えながら、間違ったところを彷徨い続ける。そんな私たちでした。滅びに向かっていることにも気付かずに、平安やまことの喜びも知らないままに、死に向かって生きている。虚しい生き方を私たちはしていました。虚しいものでは、私たちの虚しさを解決できるはずがありません。

 

 大切なことは、みことばに聞き、謙遜に神を知ることであります。そうしたときに、このなんのためなのかわからないような小羊の血が、本当に私の罪を救う恵みとして輝いてくる。何を馬鹿なことと思われたかもしれません。しかしイスラエルの民にとってはこの声に従うことはまさに命がけだったわけです。命の恵みを受けるか、滅びのわざわいを受けるか。どちらかしかありません。いけにえは提示されていますが、それを信じ受け入れなければ意味はないのです。繰り返しになりますけれども、この神様のさばきを前にして、誰一人、無罪である、あなたは正しいといわれる人間はいません。人はみな間違ったところに生きている。罪を抱えているのです。しかしそのさばきを逃れる道を唯一神様は用意してくださった。それがこの小羊の犠牲であり、そして教会が掲げる十字架でのイエス様の犠牲なのです。

 

 少し脇道にそれるようですが、子どもの羊で「子羊」と書かれている言葉についてお話ししておきたいと思います。新約聖書ではイエス様のことを指す時に小さい羊で小羊と書かれることがありますが、実際に神様が命じておられるものは子どもの羊でした。サイズの大きい小さいではなく、子どもであること、もっと言えば、若くて汚れのない、純粋無垢な羊であることが大切なのです。そうでなければ、人の罪の身代わりになることはできないからです。無罪のものが犠牲になって初めて身代わりの意味があるのです。そしてそれこそが、イエス様が完全な生贄として十字架にかかったことのあらわれであるのでした。この出エジプトの時から、神様の眼差しはこのイエス様の十字架と、その血による救いにあったのでした。

 

3. 新約聖書における十字架の血

 この出エジプトでの出来事は、例祭として、毎年覚えるように定められていました。しかし先ほどもお話ししたように、神様の眼差しはさらに先にある完全な救いを見ておられた。その愛は変わることなく、しかし完成へと向けてさらに素晴らしいものが注がれるのであります。ヘブル人への手紙は、このような旧約時代の出来事とイエス様の十字架の意味を結びつけて私たちに教えてくれます。一箇所、911節からお読みします。しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事柄の大祭司として来られ、手で造った物でない、言い換えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の杯を汚れた人々に注ぎかけると、それがきよめの働きをして肉体を清い物とするならば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの両親を清めて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。少し先には、キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。とイエス様が世に来られた理由がこのいけにえとして罪を取り除くためであったことが言われています。私のためなのです。自分ではどうしようもなかった苦しみ、解決しても回避しても、次から次に湧き上がってくる私を苦しめる問題、悩み、苦しみを本当の意味で解決し、私たちを救い出すために、イエス様は来てくださった。十字架にかかり肉を割かれ血を流し、身代わりとなって死んでくださった。

 「信じるだけで救われる」とよく言われます。それは確かなことです。しかし、この信じるということが何かお手軽なことではなくて、これこそが、イエス様の身代わりとなった血を受け取るために必要不可欠なことであります。自分の罪を認め、それが自分ではどうしようもないほど重く苦しい者であることに打ちのめされたとき、なんとしてでも救おうとされて伸ばされたこの手にすがりつくことができる。これが信じるということです。信頼とも言われます。他の何にもすがりつけない私たち、すがりついても裏切られ、失望し、平安はない私たちが唯一安心して身を委ねることができるお方。それが、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様なのです。

 

 中心聖句にもさせていただきましたが、第一ペテロのみ言葉は、私たちが何によって救われるのかを的確に言い表しています。あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。この箇所、実は「ご承知のように」と始まっています。ペテロが手紙を書いた人々はすでにこのことを知っていた人たちであった。今の私たちも同じです。しかし、ご承知のようにと言われてハッとすることはないでしょうか。こんなにもすばらしい者が与えられていながら、ふとすると忘れてしまうことがある。この血によって生かされているのだという驚くべき恵みが、目の前にある日常で霞んでしまうことがある。一方的に与えられた救いの道、その喜びがいつしか見えなくなってしまうことがある。「ご承知のように」と言われているこの事実に、何度でも立ち返りたいと思うのです。今日は聖餐式がありますが、イエス様の十字架の血と肉を覚える時、私たちは何度でも、この当たり前ではない大きな恵みに気付かされます。感謝をもって受け止めることを続けてまいりたいと思うのです。この出エジプトの際の過越の祭も、のちには様々なルールが勝手に作られ形骸化して行ってしまいますが、出エジプト記に戻り12章の25節以下を読みますとこうあります。また、主が約束通りに与えてくださる地に入る時、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか』と言った時、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打った時、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ』

この恵みをいつも覚えておくために、過越の祭は制定されました。人間の考えを超えて、まさしく見たことも聞いたことも、心に思い浮かんだことのないもの(1コリ2:9)を覚え続けるために守り行うよう命じられたのです。救われることももちろん恵みでありますけれども、その恵みを覚え続けること、言い換えれば、これが弱い私たちにとってはいつの時代にもとても難しいのだということを神様はよくご存知だったのと思うのです。だからこそ、救うだけでなく、その救いの喜びをいつまでも持ち続けることができるように、過越の祭や、聖餐式を備えてくださった。それってすごいことだと思いませんか。感謝をもって、聖餐式に臨みたいと新たに思わされます。

 

4. まとめ  

 さて、もう終わりにしますけれども、この小羊の犠牲によって私たちを救おうとされる神様について、あまりまとまりはなかったかもしれませんがお話ししてきました。出エジプトの過越は、イエス様の十字架の予型としてあらわされたものでした。聖書は最初から最後まで、この犠牲を払ってでも人間を救おうとされる神様の愛を伝えています。儀式的なことなどではなくて、この愛が聖書を貫いているのです。

 創世記3章、最初の人であるアダムとエバは罪を犯しました。最初の罪人です。神様にとっての大きな悲しみでもあったでしょう。彼らは罪ゆえに楽園エデンの園を追放されます。しかし、罪人を排除して終わるような神様ではない。最初から違うのです。楽園を追放されたアダムとエバのために、皮の衣を作り、着せてくださいました(創3:21)。なんとかして救いの道を与えようとしてくださる神様は、皮の衣を着せてくださる、つまりそこに動物の血が流されたのです。弱いもの、敵対するものは排除する世の風潮がありますけれども、それとは全く違う愛を示してくださいます。

 そしてその血は、やがての日の光景にも描かれています。黙示録5章、ヨハネが見たものをそのままに書き記している場面ですが、彼の目には「ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。」これはイエス様を表していると考えられていますが、それは力にあふれた姿ではなく「ほふられたと見える」姿。すなわち、白い羊が血に染まった姿であります。聖書は、そのはじめから終わりまで、血によって私たちが許されるということ、それほどまでに愛されているのだということを教えています。ここにしか救いの道はないのです。この血の犠牲のゆえにいのちがあたえられていること、自分ではどうしようもなかった罪の問題が解決されていること、それほどまでに愛されているのだということを改めて喜び感謝しつつ、新しい月、新しい週の歩みを始めて参りましょう。お祈りします。