聖書の中心

❖聖書箇所 ローマ人への手紙3章21節~26節       ❖説教者:川口 昌英 牧師

 

◆(序)この箇所について

 10月31日は、プロテスタント教会の開始者、マルチン・ルターによって当時の教会を根本から問い、大きく変革を迫った95条の提題がかかげられた日です。

 ルター自身は、腐敗が目立ち、聖書よりも人間中心であった当時の教会でしたが、全否定する思いはなく、免罪符の販売などに対し、ただ改革を求めた思いが強かったと言われていますが、彼が当時のカトリック教会に問いかけたことは、その時代の政治的、経済的、社会的状況もありまた同じように改革を唱える者たちが次々起こされ、教会だけでなく、社会全体を激しく揺さぶり、大きな流れとしてプロテスタント教会が誕生したのです。

①本日の箇所は、その宗教改革のエッセンスとなった信仰義認について、聖書がはっきり言っているところです。旧約、律法を中心とする考えではなく、新約、神の御子、主イエスの福音によって、人の真の問題である罪よりの救いが完全にまた永遠に成就したと告げているところです。再三言っていますが、私は、この箇所は、旧約、新約も含めた聖書全体にとって神の御技の中心を伝えている極めて大切な箇所だと考えています。

②使徒パウロは、御子イエスによって、完全な、永遠の救いである神の義が実現していることを強調します。(21節) その義は、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」であって、旧約、律法の民だけでなく、「すべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」と福音の本質、豊かさを明らかにします。(22節) 更に、今、そのような神の義が与えられた理由について、もう一度、説明します。(23節~26節) 

   このところにおいて、義という言葉が何度も出ていることに気づいたと思います。義、神のかたちを持つ者としていのちが与えられ、生かされていながら、神に背き、自分を善悪の基準とし、神に喜ばれないさまざまな行いを行なっている者の罪が赦され、神から愛する者、神の子として受け入れられ、御国の民とされることです。

 分かりやすく主が放蕩息子の譬で言っているように「罪過と罪の中に死んでいた」(エペソ2章1節) 時とから生き返って神のもとに迎えられていることです。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくされました。」とされている状態です。

 

   なお念のため、神から義とされましたが、完全に罪がない者とされたという意味ではありません。全く罪がない栄光の状態、~栄化~は、終末、復活の時に実現します。義と認められることは神の子とされ、成長、聖化、主と似た者と変えられる、きよめられることのスタートなのです。

◆(本論)義とは何か

①主の福音によって実現した神の義について、もう少し詳しく見て参ります。それは、次のようなものであるとパウロは言います。

❶「律法とは別」の「しかも律法と預言者(旧約聖書のこと) によってあかしされ」ている義(21節)

❷「イエス・キリストを信じる信仰による」「すべての信じる人に与えられ、何の差別も」ない義(22節)

❸(すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず)「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価~対価、見合うもの~なしに認められる」義(24節)

   「旧約の実現として、神の時が満ちて与えられた義」「キリストを信じる信仰によって、すべて信じる人に与えられ、何の差別もない義」「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに認められる義」であると強調します。そして、まとめとして「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、(人の罪のための) なだめの備え物として、公にお示しになりました。」父なる神は、人間の歴史の中で、はっきりと御子による義を実現、成就したというのです。

 その理由として「ご自身の義を現すためです。」と言います。この義は、単なる正しさというよりも、神が人の罪のために犠牲を払うほどに人を愛しておられる方だということです。

②続いて、その義が与えられたのは、「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたから」であり(25節)、すべての人に「神ご自身の義を現すためであり、神ご自身が義であり、(罪の贖いを成し遂げてくださった) イエスを信じる者を義とお認めになるため」であるとその義が示された目的について詳しく語っています。

③難しい表現が続いていますので分かりにくい印象がありますが、私は、この箇所を書いている時、パウロは心からの喜びに溢れて、また心からの感謝に満たされていたのではないかと想像します。何故なら、あらためて、人間の一番の問題、罪に対して、今までの旧約や律法とは違う、想像を超えた神の御子による贖いがなされ、そして、その神の義がすべての人に何の差別もなく、しかも対価なしに、ただ信ずるだけで与えられるということを確認しているからです。救い、義についてコペルニクス的回転が起こったことをあらためて噛み締めているからです。

 イエス様に受け入れられている者たちはこの義を知っていました。例えばルカ7章に出てくる婦人(36節~50節)もその一人です。不義、不道徳な生き方のゆえに知らない者が誰一人いないぐらいの者でした。町の人たちは、特に律法を厳格に遵守することを主張していたパリサイ派の者たちは、このような生き方をしてきた人は、決して神の救い、義と認められることはないと固く思い内心ではひどく蔑んでいました。確かに、彼らが信じていた律法を中心とする信仰生活においては、この女性が、どれだけ、自分の生き方、過去、現在に対して心から悔い改め、主を救い主、罪の贖い主として受け入れたとしても神の義を受けるということはあり得なかったし、あり得ないのです。しかし、時が満ちて、本日の箇所にあるような、豊かな恵みに満ちた神の義が御子によって実現したのです。この新しい、神の義が実現していますから、人々がどのように見ようとも、主が「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカ7章50節) と言われているように、完全なまた永遠の救いを受け、この婦人に新しい人生が実現しているのです。

◆(終わりに) 自分や人を見つめる者から主を見つめる者へ

 自分の罪を認め、主イエスの十字架の死と復活は自分のためであったと信ずる私たちも又、ここで言われている義のゆえに、人が何を言おうと主の救いを受けているのです。

 多くの人々は、神の義について、神から義とされること、救いについて自分の考えを当てはめ、救われる人は、神について知識を持ち、清い神にふさわしい生き方をしている人だと考えます。そして、いい加減な生き方をしている者は、決して神の救いを受けることはないと考えています。

 何と多くの人々が、神が与えておられる救い、義を誤解しているでしょうか。真反対に捉えているのです。神が与えてくださる救いは、法廷における宣告のようなものであり、絶対的なものです。人の意見や感情ではなく、権威ある私たちのすべてを知っておられる神からの公式の宣告なのです。あなたは既に神の愛する子とされています、古いものは過ぎ去って全てが新しく造られているという神の法廷での決定であり、宣言なのです。 

   パリサイ派のような考え、行いのことを取り上げ、それを行なっていない人を責める考えに惑わされてはなりません。人間的に言うならば、彼らの言うことのほうが正しいような感じがするのです。しかし、そのことばかりに注目させる考えは、本当は、神が与えた福音を否定し、人を神から遠ざける考えなのです。

 

 主イエスもはっきり言われています。(ルカ18章9節~14節) 自分や人を見つめる信仰生活を送ってはなりません。ありのままを愛し、義を与えてくださった主を見上げながら、主よ、感謝します。あなたを愛します、あなたを信頼しますと告白し、主が導いてくださる場において喜びを持って歩むことが期待されているのです。それが本来の宗教改革の精神を受け継ぐ信仰生活です。