十字架を誇る人生

❖聖書個所  ガラテヤ6章12節~16節      ❖説教者:川口 昌英 牧師

 

◆(序)十字架とは

①明治初めに、不平等条約改正のために送られた岩倉使節団の書記がアメリカやヨーロッパの街の中心にある教会に掲げられている十字架を見て、まるで死刑場にいるような寒々とした思いになると記録しています。しかし、現代では、クリスチャンの数が少ないこの日本でも、十字架は美しいものと考えられています。その現われとして十字架のアクセサリーをつけている人を見かけることも珍しくありません。しかし、十字架は、岩倉使節団の書記が感じたように、元々は死刑の方法であり、死刑の中でも、とりわけ残酷で屈辱的な死刑のかたちでした。犯罪人の手足に直接、太い釘を打ち込んで磔にし、長時間に渡って苦痛を与え、最後には失血死させる、重大な犯罪を犯した者を死刑にする方法です。

   死刑制度を残している国がありますが、あまりにも残酷という理由から十字架刑を残している国はありません。決して、十字架は、世界や日本の各地において見られる壮麗な教会堂や大学のキャンパスにおいて高く掲げられているような美しいもの、また多くの人がおしゃれとして首からかけているような格好の良いものではないのです。本来は、だれもが目を背けるほど残忍で恐怖に満ちた死刑であり、特にユダヤ人にとっては神に呪われることを意味する、忌み嫌われるものであったのです。

 

②けれども、そんな十字架をこれは主がかかられた十字架のことですが、その残忍さ、残酷さ、またその霊的意味を人一倍、理解していた初代教会の中心的人物であり、最高の伝道者、牧会者、神学者であるパウロが本日の箇所において何にも代えがたい誇りであると言うのです。

◆(本論)十字架を誇りとする理由

 その理由について、パウロは「この十字架によって、世界は私に対して、十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」と言います。(14節) ここで言う世界とは、人が生きている現実の社会、そしてそれは罪に覆われた世界です。パウロは、もはや私は、十字架によってそういう世界に対して死んだ、世界を覆っている罪による生き方をしないというのです。自分と世界は、これまでは罪、自分中心の生き方、自分が認められること、評価されること、受け入れられることで繋がっていたが、今や世界と私は主の十字架によって繋がるようになったというのです。言い換えれば、十字架を通して、世のすべて、自分や他の人々と繋がるようになった、起きている事柄を見るようになったというのです。主の十字架によって人生を変えられた者として、その十字架という視点を通して世界を見る、十字架という架け橋によって世界と繋がるというのです。主の十字架を知ったことはそれほど私の人生にとって大きな出来事であったというのです。

①何故、パウロはこれほどまでに主の十字架を大切に思うようになったのか。直接にことばで言われていませんが、その理由としてこれからあげることが想像できます。

 第一に、主の十字架のうちにすべてをお造りになり、治めておられる創造主である神の無限の真実な愛を見ることができるからです。十字架は、聖書を曲解する人々が言うように、祭司長や長老たちによって主イエスの計画が失敗した結果ではありません。神の御子が十字架を受けることは旧約聖書の中で繰り返し言われていたことであり(例、詩篇22篇、イザヤ書53章など)、また福音書の中で主ご自身が何度も言われていたように、父なる神、聖霊なる神との深い一体性の中で御子イエスに託された使命であったのです。創世記の始めから幾度も預言されていたように、人の罪を贖うためのどうしても必要な神の側の深いご計画の実現であったのです。罪と死の支配から人を救うために神が犠牲を払って下さった神の愛の究極の現れであったのです。

 父なる神について言うならば、人の罪を贖うために最も尊い愛する一人子さえも惜しまないで与える愛であり、御子について言うならば、神である栄光を捨ててご自分を投げ出す、捨てるほどの愛であるのです。十字架にはことばに出来ないほどの豊かな神の愛が満ちているのです。ですから、最も残酷な死刑のかたちですが、最も慕わしい、また喜びの源となるのです。

②第二に、主の十字架には、私たちの根本問題である罪、またさまざまな具体的行いとしての罪の解決、赦しがあるからです。

   ここでもよく話していますように、本来、人は神によって、神のかたちを持つ者として創造されましたが、サタンの巧みな誘惑によって神に背き、生き方が一変したのです。神との関係が断絶し、神を恐れて身を隠す者、自分中心の生き方をする者となった結果、人同士の関係も壊れ、また与えられた自然環境をも欲望のために貪るようになったのです。何よりも神のかたちとしての本来の生きる喜びや目的を失い、虚しさや孤独、不安を抱き、死に支配されるようになったのです。またそのような罪の性質を持つようになった結果、マルコ7章20節~23節(朗読) にあげられているような罪の行い、罪の実を結ぶようになったのです。義人はいない、一人もいないのです。(ローマ3章)すべての人が生まれながら罪の性質を持ち、罪の行い、実を残しているのです。

 そんな人間に対して、愛なる神はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルを選民とし、律法を与え、神の御心に従う道を示されましたが、限られた者たちに対する限られた救いであり、全ての人に対して向けられた「完全な又永遠の救い」ではありませんでした。愛と恵みの神は、定められた時に、愛する一人子を全世界の人々に対する完全な救い主として、人のかたちを持つ者としてこの地上にお送りくださり、そして御子の十字架刑と復活によって罪を贖う道を開いてくださったのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14章6節)と言われるとおりです。この救いは民族、身分、立場、経験に関係ありません。すべての国の信じる人に対して開かれているのです。主の十字架は、自分のためであったと受け入れるすべての人を罪と死の支配から救いだし、本来の神のもとに買い戻す道を確立してくださいましたから、私たちの誇りなのです。

③第三に主を信ずる者にとって十字架が誇りであるのは、十字架には天国の希望に示され、生きて行く力が与えられるからです。主の十字架は私たちの価値観、生死の意味を根本から変えます。主の十字架を知る以前は、生きていることが善、幸福であり、死ぬことは悪、不幸でした。又、この世での成功こそが幸福であり、評価されない、認められないことは不幸そのものでした。一番の幸福が生きていることであり、成功であり、挫折や失敗、中でも死を迎えることは最大の不幸であったのです。けれども、神の御子が人を罪と死の支配から救うために十字架にかかってくださり、三日目に甦られて罪の贖いを成就してくださったことを知ったことは、私たちの人生観、価値観を新しくしたのです。死の向うに希望がある、また最もすばらしい恵み、神に愛されていることを知ることができたのです。こうして十字架は、私たちに新しい喜び、希望を与え、生き方を根本から変えたのです。見えることばかり追い求める生き方をすることから見えないものの豊かさを知る生き方、神とともに生きることの喜び、天の御国の希望を与えてくださいました。それゆえ、主の十字架は人生において何よりも誇りとなったのです。

 

◆(終わりに)このことは、よく話しますが、世界的に有名な伝道者が同じ日に二人の75才の人に会ったそうです。一人はよく知られている大富豪であり、一人は無名の、宣教師を引退した人であり、質素な生活をしていた人でした。両方とも家族はいない、一人暮らしでした。人間的に言うならば一人は財力、権力を持ち、この世的には大成功者であり、一人はあまり世から顧みられないごく普通の人でした。けれども実際はどうかと言いますと、一人は嘆き続け、一人は心から喜びに溢れているように見えたのです。一人は十字架を知って、その十字架に自分の人生の希望と永遠に対する平安をいただいていたからです。主の十字架は、神が私たちに与えてくださった最高の宝です。クリスチャンとして生きるうえにおいて困難なことが多い私たちの国ですが、すばらしい十字架を心に抱いてこの世を歩んで行こうではないでしょうか。これこそ私たちの宝です。