成し遂げられた計画

■聖書:出エジプト記11-1242節①(朗読は12:29-42)   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:「…あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」(ヨブ記42:2

 

1. はじめに

 松原湖研修会に出席させていただき、気づかされたことがあります。それは、聖書全体から与えられた箇所を読むということの大切さです。もちろんこれまでもそうしたいと願っていましたけれども、改めてそれがとても重要な視点であることを思わされました。そんなことを考えながら出エジプト記を最初から読み直していますと、本日の箇所、いよいよイスラエルの民がエジプトの地を離れるということがあるのですが、その脱出の背景にある様々なものが浮かび上がって参りました。少しだけ振り返りますけれども、たとえば1章、エジプトの地で奴隷になりながらもどんどんと増えて力を増していくイスラエルの民に対して、エジプト王はこのように考えます。10節「…彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側について我々と戦い、この地から出て行くといけないから。」賢く取り扱う、人間の知恵で、神の計画を阻もうとする心が見え隠れしています。当時の王とは違いますが、今私たちが読みすすめております箇所でモーセと対峙するパロもまたこの心を持っていたのでしょう。「主とはいったい何者か、私は主を知らない」という人間は皆そうでしょう。その賢く取り扱う中に、増えたイスラエル人の赤子を殺し、モーセの要求を譲歩し退け拒み続ける姿が生まれてくるのです。しかし神様は、イスラエルの民の泣き叫びを聞いておられました(3:7わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」)叫びを聞き、痛みを知ってくださる神。私たちにとっても多くの慰めあふれる言葉ではないでしょうか。そしてその痛みを知り、叫びを聞かれた神様はモーセを立たせ、自身の知恵で神の民、そして神様さえも制圧しようとするパロに対峙させるのでした。しかしその戦いは、大きな失望から始まりました。いよいよパロの前に立ったモーセとアロンでしたが、パロの「私は主を知らない」という言葉で一蹴されてしまいます。いきなり暗雲立ち込めるスタート。しかしそこでも主は語られるのでした。61節から、「私がパロにしようとしていることは、いまにあなたに分かる。すなわち、強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」いよいよ本日の箇所では、「今にあなたに分かる」と言われた、「今」という時が実現しようとしているのです。出エジプト記の一つの節目と言える箇所について見て参りましょう。

2. 最後の命令「ほんとうに、ひとり残らず、追い出される」

 本日の箇所、11章の全てを見ることはできませんが、この11章が始まる場面は、前回の第9番目の災害、手に触れることのできるほどの深い闇が辺りを覆ったという不思議に続いています。先ほどもみましたように、ここに来てもなおパロは、自分の知恵を働かせてイスラエルの民をそのことば通りに解放することをしませんでした。1027節から読みますと、…。いよいよエジプト、エジプト王との最後の戦いが始まるのでした。そして11章に入ります。1節、主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせる時は、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。ここで神様は明確にモーセに告げます。これまで、どのような不思議なのかは示されましたが、ここまではっきりと、「これで終わり」だとは知らされてきませんでした。しかしここで、「ほんとうに、ひとり残らず、追い出してしまう」と言われています。自分の力で勝利して出て行くならまだしも、「主とは一体何者だ、私は主を知らない」とあざける敵をもこのように用いられてしまう。ここに神様の、私たちの想像もできない力が表されていると言えるでしょう。神なんていない、神様なんて必要ないというこの世の風潮に飲み込まれ、廃れてしまうような神様ではないのであります。そして事実、そのようになった。4節からは念入りに、それがどのように成し遂げられるかをパロに伝えます。モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、私はエジプトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、皆死ぬ。そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、唸りはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください』と言うでしょう。私はその後で出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。もう悔い改めを求めるようにとは言いません。イスラエルの民を行かせれば助かるとも言わない。もう決定事項として、この恐ろしい出来事がすぐ目の前に置かれたのでした。すべての初子が死ぬ。私も小さい頃からこの箇所を読んできましたが、改めて、恐ろしいこと、残酷なことが宣告されていることに気づかされました。思い返せば、エジプト王パロは増え続ける奴隷・イスラエルの民を制圧するために、助産師に男の子を殺すように命じ、さらには生まれた男の子をナイルに捨てるようにと告げました。そこにはイスラエルの民の大きな悲しみ、痛み、恐怖がありました。のちの計画に用いられるため、神様の不思議な御手の中でモーセは救い出されましたが、その背後には大きな痛みがあったこと、イスラエルの民の叫びがあった。神様はその叫びを聞いておられるのです。そしてその声に応えてその悲しみを癒し、解決を与えようとされる。この最後の不思議では、初めて人間の命が直接的に命が扱われます。いよいよさばきのときがきたのでした。言い換えるなら、決定的な脱出の道が開かれようとしているのでした。10章の終わりを考えますと、あくまで頑ななパロに対し、これらの言葉を最後に告げて怒り王宮を後にしたのでしょう。

 

3.「過越の祭について」  

 続く12章は、今後イスラエルの民が守るべき過越の祭について規定されている箇所です。この箇所は次回、改めて詳しく学びたいと思いますが、一点だけ、まだ物事の解決を見る前から神様はこのようにして、その解決の出来事を覚え続けるようにと言われていることを覚えておきたいと思います。神様はパロの元から怒りに燃えて出て行ったモーセとアロンに対して語られます。122節、「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」まだ物事の解決はありません。エジプトでの奴隷状態からの解放が最大の問題の解決でしたが、まだ実現したわけではありませんでした。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない」と言わせるほどにパロは怒っていました。緊張感は高まり続け、不安な状況は続いているのです。夜明け前が一番暗いと言われますけれども、まさにそのような状況だったかもしれない。しかし、夜明け前の暗いときでさえも、その解決はすでに与えられたのだ、新しいイスラエルの歴史は始まっているのだと言わんばかりに神様はお話になっているのでした。新しい人生がもう少しで始まる、とか言わずに、もう始まっているのだと民を励まし、力づける。これまで不思議なわざを続けてこられたお方はそのようにおっしゃるのでした。

 

 続けて語られたのは、傷のない羊をいけにえとしてほふり、その血を定められた日に門柱と鴨居につけよという命令でした。不思議な言葉です。何を急にと思うかもしれません。それをして何になるのだとも思うでしょう。「そんなことよりもっと具体的に、直接的に働いてくださいよ、神様」と思うかもしれない。しかし、これまでの九つの災害を経て、少しずつイスラエルの民たちの心は神様に向けられてきたのではないかと思うのです。これまでの災害で、エジプトの民はイスラエルの民が何か違うということを目の当たりにしてきました。イナゴの大きな被害でも傷つかず、暗闇の中でも光があったイスラエル。イスラエル自身も、このお方の力強さを知ってきていたのでしょう。いや、神様の計画の中で鈍く疑い深い者たちは変えられてきたのです。続けていわれます。12:12-14、その夜、私はエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしが主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。この血がしるしとなる。神の民か神の民でないかを見分けるしるしです。主の言葉を恐れ従うものか、そんなことをして何になるとあざけるものかに分けられる「しるし」です。よく言われることですが、さばきに中間はありません。しかも大抵の場合は、その決断に迫られるときは、すべてが終わった後ではありません。解決前、夜が明ける前の、最も暗い時間、苦しく辛い時期にこそ、決断が迫られます。神様はそのようにイスラエルの民に迫っておられるのでした。

 先ほどもお伝えしましたように、この過越については次回、もう少し詳しく学びたいと思います。それは、わたしたちの主イエスキリストの十字架との密接な関わりがあるからです。次回は11月の最初の日曜日ですから、聖餐式と合わせてこれを覚えたいと願っております。

 さて、そのように告げられた神様の言葉をモーセとアロンは民に伝えます。そして、先ほど司会者の方にお読みいただいた、その結果につながるのです。

 

4. そして計画は成し遂げられた

 日本語の聖書とは違う、すこし変な区切りで読み始めていただきました。しかし、この28節があって、29節以降の結果が生まれたと考えますと、極めて大切な一節ではないでしょうか。28節「こうしてイスラエル人は行って、行った。主がモーセとアロンに命じられた通りに行った。」もう少し言うなら、その前にはモーセとアロンが伝える神様の言葉を聞いて、27節の最後、…すると民はひざまずいて、礼拝した。という言葉が見られます。神の言葉が与えられ、礼拝し、その通りに行う。まさにここにこそわたしたちの信仰生活にも通ずる一連が見られ、そしてその先にこそ神様は祝福と約束の実現を見せてくださるということがわかるのです。いや、実を言いますと、この「ひざまずいて礼拝した」というのは、4章の終わりでもすでになされていました。何度も拒むモーセを立たせ、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの元に遣わした神様。それに対してイスラエルの民はというと、4:31民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。」やはり同じように、神の言葉を聞いてひざまずき礼拝を捧げるのです。しかしその後どうなったかというと、これまで見てきましたように、そのあとパロに弾き返されるやいなや、モーセとアロンに対してなんでそんな余計なことをしたんだ、わたしたちを憎ませ殺すために彼らの手に剣を渡したのだと喜び礼拝していた姿から一転して罵るのでした。

 こういうことをおもいめぐらしますと、これまでの数多くの災害は、エジプトの民にイスラエルの主を知らせると同時に、イスラエルに民に対しても本当に信頼すべき方を教える意味があったのではないかと思うのです。神の言葉を聞き、主に礼拝を捧げる。この基本線にありながら、確かに私たちは多くの過ちを犯します。礼拝を守っていながらも主に頼ることができなくなったり、いつしかかたちだけになっていることもある。この教会を出ると、月曜日が始まると、この世の流れに流されて、「主とは一体何者か」とのつぶやきが満ちる世界へと沈んでいってしまうことがあるかもしれません。しかしこの基本線を離れては、さらに物事は悪くなっていくことでしょう。神の言葉を聞くことさえなかったパロを始めエジプトの民になり、やがての大きな悲しみを落ちていってはならないのです。悔い改め、主に従う思いを新たにさせていただき、祝福の祈りを受けてそれぞれの場所へと遣わされていく。お一人お一人にとってそのような礼拝であってほしいと願います。

 29-31節、真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。一晩のうちにこのことが起こったとわかります。悲しみがエジプトの地に満ちました。大きな悲しみです。あのかたくななパロも言わずにはいられなかった。「お前達もイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。お前達が言う通りに、行って、主に仕えよ。お前達の言う通りに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。エジプトは民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。人々が、「われわれもみな死んでしまう」と言ったからである。「強制的にその国から追い出した」。これはまさしく11章の1節で言われていたこと、そしてこれまでにも言われてきていたことが実現してことを表します。渦中にいるときには想像もできない解決の形でした。もちろん予告なしに素晴らしいものが与えられる恵みもあるでしょう。しかし、神様は、約束を与え、その約束が実現するという形を何度も取られています。しかも人間の想像を超えた形で実現することを何度も教えておられます。この出エジプトの出来事はまさしくそれを表すものでありました。その場その場の困難を解決してくださるだけでなくて、長い約束を絶えず思い出させて、その約束は必ず果たされることを信じて生きるように教えているのではないでしょうか。私たちにとりましても、やはり、イエス様が再び来られる日の約束があり、天国の約束があります。先週は礼拝の後、納骨堂での集会を持ちました。納骨堂に刻まれているみことばは「我らの国籍は天にある」これは目には見えませんし、何かの証明書があるわけでもありません。けれどもこの約束を心から信じて、私たちはこの地上で生きているのです。イエス様も約束を通して平安を与えられました。まさに人生の終わり、闇が深くなるそのときにイエス様に出会った十字架上の男を思い出します。彼は多くの罪を犯し、そのままに死のうとしていましたが、イエス様に出会い、このお方を信じました。するとイエス様は言われた「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」口から出任せと思われても不思議ではありません。

 イスラエルの民達もそのように生きるように召されていました。先ほども触れましたが、しんじていても何度もふらつき、ときに目に見える失敗に心折れ、挫折し、怒ることもあります。神様の助けに対しても、余計なことを腹たってしまうことさえあります。神様を信じていなければ、解決とまではいかなくてももう少しましな道を歩くことができるかもしれない… そのような悪魔の誘惑さえあります。けれども、神の言葉を恐れ、主の礼拝を守り続けることで、私たちはこの約束から離れることなく、その希望を見上げ、主への信頼を足場として歩むことができる。その先にある想像もつかないほどの素晴らしい恵みを受け取ることができる!それを本日の箇所、出エジプトの出来事は教えているのであります。

 

5. かつての成し遂げられた計画を私たちが知る意味

 37節から42節までお読みします。…430年。想像もできない時間が流れました。当然、この間にエジプトの奴隷として生まれ、奴隷のまま死んでいった世代もありました。そのようなことを考えますと、改めてモーセが生まれ、不思議な御手によって主の器として立たせられたことの不思議を思いますし、その時代に生きられることの喜びを思わずに入られません。私たちの国での430年を考えていました。あまり数字にこだわる必要もないのかもしれませんが、430年前、1587年。豊臣秀吉の時代です。この国の宣教に関わる大きな出来事がありました。それは伴天連追放令、いわゆる禁教命令です。海外からの布教を禁じ、さらに一向一揆のような反乱を起こすことを恐れて弾圧が始まっていきます。多くの棄教者があり、殉教者がありました。宣教当初の宣教師たち、フランシスコザビエルをはじめとする人々の書簡を読んだことがありますが、彼らはこの地に大きな期待を持っていました。貪欲にこの教えを求める人々がいたのです。しかしその矢先、大きな壁が作られてしまった。期待していた分、彼らの失望は大きかったことでしょう。またその教えを信じ、神様とともに生きようと願っていた日本のクリスチャンたちにとっても大きなつまずきになったはずです。しかし、思うのです。430年後の今日、決して爆発的に増えたとは言えないにしても、同じ神様を見上げ、同じ神の約束を信じ続ける私たちがあります。神の言葉を信じ、主を礼拝することを第一にするクリスチャンは残されたのです。大きな戦争を経験しました。たくさんの過ちも犯しました。今もなおたくさんの悲しみがあり、不安があり、緊張があります。けれども、このお方は決して私たちを見捨てず、私たちの叫びを取りこぼすことがありません。世に栄える権力者があったとしても、まさにエジプト王パロがそうでしたけれども、すべて滅びる中で、神の言葉は永久に変わることなくたち続けます。そしてその約束もまた変わることはない。

 交読文で詩篇121篇を詠み交わしました。まどろむことなく、眠ることなくおられる神様が私を守られます。天地を創られた主です。昼も夜も、すべての災いから守り、今よりとこしえまでも守られる。

 

6. まとめ

中心聖句をヨブ記の422節にしていただきました。「…あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」(ヨブ記42:2私は、私たちの歩みはこの告白を積み重ねていく人生であると思うのです。先人たちの証を聞きつつ、「私は知りました」を積み重ねていく人生。その歩みの中をこの週も進ませていただきましょう。驚くべき方法でその約束を果たされたお方が、今日も生きて、私たちとともにおられます。神の言葉に立ち、主に捧げる礼拝を、この新しい週も続けて参りましょう。