扉は開いた

❖聖書箇所 使徒の働き10章34節~48節        ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句  …「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。

                            使徒の働き10章34節~35節

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 前回は、奥義を示す時の神の方法について見た。ユダヤ人の代表であるペテロに対してもまた異邦人の代表であるコルネリオに対しても十分に時間をかけ、それぞれが主の御心を理解し、確信を持つことができるようにしていることを見た。

 

   本日の箇所は、コルネリオからこれまでの経緯を聞いて、ペテロが神は選民や、律法を学び改宗して割礼を受けた者たちだけでなく、「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられる」ことがいよいよ明らかになったと言っているところである。この講壇から再三話している、キリスト教の奥義である、民族や知識や行いによらない、「信仰による義」が全世界に対して扉が開かれたのである。(ローマ3章21節~26節)

◆(本論)

①律法や割礼を知らない異邦人であっても、自分の罪を知り、その罪の贖いのために、神がひとリ子である御子を送り、その御子が身代わりとして十字架の死を受け、三日目に甦り、罪と死に対する勝利を実現したことを信じ、生きる者はすべて、神に受け入れると話しているところであるが、注目すべきことがある。ペテロがその奥義を話す際に律法や預言について少しも話していないことである。

 律法や預言の背景がない異邦人であるコルネリオ相手ということもあるが、それだけでない。話す必要がなかった。話さなくても良かった。なぜなら、律法や預言は、救いや救い主に導くための養育係であり、その一番の奥義であるキリストが実際に、罪の贖いのために十字架の死を受け、甦り、罪と死に対する勝利を実現してくださっているから、もう養育係について触れる必要がなかったのである。キリストのことを話すだけで十分であった。

 それは、使徒の働き16章のピリピにおいて、特別な状況のもとであったが、パウロとシラスが看守から「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか。」と尋ねられた時、端的に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と返答していることと同じである。イエス・キリストのうちに全てが含まれているのである。

 

②そして続いて、この箇所においてもう一つ注目すべきは、キリストについて話すときに、ナザレのイエスと言っていることである。これは3章において、ペテロが40才あまりの生まれつき足萎えの人を癒した時にも強調して言っていることばでもある。

 それについてみる前に、ペテロは、救いの中心であるキリストについて、神はキリストによって「平和を宣べ伝え」たと言う。ここでいう平和とは人が生まれつき持っている根本的不安が解決されている真の平安のことであり、キリストは、この平安が実現することを人々に告げたと言っている。続いて、同じくキリストによって「イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。」と言っている。神の民として選ばれ、用いられてきたイスラエルの民たちに、キリストによって神のみことばの中心、罪よりの救いの完成を示されたという。そして、この方は、民族、国籍関係なく、すべての人の主であると言っている。このように、まず、異邦人コルネリオに対して神の御子キリストによって大きな根本的な救いが実現したと言っている。一言でいうならば、私たちの信仰は聖書知識を得ることでも敬虔な行いを積み重ねることでもなく、ただキリストを知ることであるという。

③そのことを明らかにした後、その救い主とは、異邦人であるあなた方も聞いたことがあるナザレのイエスであると言う。ユダヤ全土を行き巡り、良いわざを行い、悪霊に支配されていた者を解放し、多くの者たちがその言葉を聞き、行いを見て今も証人となっているナザレのイエスであるという。

 ペテロがこのことばで言っているのは、神の御子であり、完全な救い主であるが、遠くにおられる方ではない、一人ひとりと深く関わりを持ち、罪の苦しみ、悲しみを受け止め、そして39節、40節(朗読)のように、預言されていた通りに十字架につけられ、三日目に死より甦られた方、そして信ずる者たちに現れ、ご自分がなしたことを伝え、証しをするように命じた方。本当に人の救いのために、ピリピ2章6節~8節(朗読)にあるように、徹底的にへりくだり、すべてを与えた方という意味である。ペテロは、私たちは、冷たい教理や律法や預言などによって救われたのではない、罪の苦しみ、悲しみを受け止め、そのために全てを犠牲にしたナザレのイエスによって救われたということを強調している。

 大げさなことを言うように聞こえるかも知れないが、私が牧師になりたいという思いが与えられ、道が開かれ、今まで来たのは、他の人々に、このナザレのイエスを伝えたいということであったように思う。聖書知識やキリスト教の教理ではなく、神の栄光を捨てて、人としてお生まれになり、自分たちを善悪の基準とする罪の生き方をして、生きる意味や目的を見出せず、孤独に苦しみ、欲望によってお互いを傷つけ、絶望的になっている人、罪人に寄り添い、罪を贖うために黙々と十字架の死を受け、三日目に死より甦り、罪と死に対して勝利を与えてくださった方を伝えたい、そして諦める必要はない、必ず希望があるということを伝えたいということであった。  

 私自身が、罪人を最高の犠牲を払って愛されたこの方を知ったからである。救い主は輝く栄光に満ちた大理石に輝く場所におられて救いの御技を行われたのではない。暗く汚れた寒い家畜小屋の中で生まれ、大工、石工として汗を流し働き、家計を支え、兄弟たちの世話をし、公生涯を始めてからも、蔑まれ、拒絶されていた者たちを招き、神の愛を伝え、最後には、憎悪と軽蔑の満ちた特別の死刑である十字架刑を受けてくださった方である。どこにも栄光や輝きなどない。罪の中に生きている人々を救うために徹底的にへりくだった姿であった。ペテロは、そのイエスの姿、ナザレのイエスを伝えようとした。

 

③ペテロが神の救い、特にナザレのイエスによる救いのことを語った時に、コルネリオや彼とともに話を聞いていた親族や友人に聖霊がくだり、特別なただ神に語る異言を話し、神を賛美し、彼らが本当に救われたことが分かった。その様子を見て、ペテロは、私たちには何も止める理由がない、彼らも義とされ、神の子、神の国の民とされていることの印として洗礼を施した。律法の背景のない、全くの異邦人も神の教会の一員となることが正式に認められたのである。

 

◆(終わりに) 大変化はナザレのイエスを知ること

 

 キリスト教の中心は、キリストを信じる信仰による義である。今年2017年は宗教改革500年にあたり、プロテスタント教会にとっては記念すべき年であり、自分の信仰を振り返る時である。その宗教改革の扉を開いたマルチン・ルターは、ローマ1章16~17節によって信仰の中心は善行や寄進、寄付などではなく、罪人である私たちがただ福音、神が罪の贖いのために与えてくださった御子キリストの十字架の死と復活を受け入れることであると分かった。その信仰による義、また神の御心は聖書のみによって知りうるという主張は、キリスト教会だけでなく、世界をも変えた。信仰や教会が人の手から取り戻され、神の元に帰ったのである。ただ、神のみをおそれる生き生きとした信仰、教会の道を開いたのである。その大きな歴史の根源は、本日の箇所でも言うように、ナザレのイエスにある。このイエスを知ることによって大きく重い扉が開かれたのである。