主の導きの方法

❖聖書箇所 使徒の働き10章9節~33節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 「……今私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ています。」                   使徒の働き10章33節

 

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 続けて使徒の働きを見ていく。本日の箇所は、引き続き異邦人も救われるという主の御心が明らかにされていく場面である。選びの民、ユダヤ人として決して受け入れることができない幻がペテロに示され、その幻の意味について考えていた時に、コルネリオから送られた使いが到着し、その説明を聞き、ペテロがその使いと共にカイザリヤのコルネリオのところに出かけ、さらに詳細な説明を聞いている場面である。

 ペテロに異様な幻が示され、14節のように受け入れがたいと言ったことが、三度も繰り返されているのは重い意味がある。確かに、ペテロ自身も17節で、この幻はいったいどういうことだろうと言っているように、まだこの段階では異邦人の救いについての幻だと分かっていない。けれども、律法の中に育ち、神にあって生きる者であるならば、決して受け入れることができないような幻を三度も示され、三度も同じように答えているのは、神が重大なことを示していると感じたに違いない。ペテロは、繰り返しその幻が示されたことに神の側の特別な意思、ビジョンを感じたのである。そして、想像であるが、おそらく動揺したと思う。心が騒ぎながら異様な幻について考えたと思う。 

 そのように考えていた時に、「コルネリオ、あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って覚えられています。さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。」と言われ、その通りに送った使いがペテロのところに来た。この時、コルネリオの側も何を思って使いを送ったのか、不明である。しかし、彼もまた、異邦人の救いのこととは思っていなかったようである。エルサレムに教会が誕生した時から中心的存在であり、訊問を受けた議会でもはっきりと神に従うことを宣言し、最近では近くのルダやヨッパで大きな神のわざを行ったペテロを招きなさいということであるから、何か特別の理由があるに違いないと思ったものの、異邦人の救いという教会の大変化のこととは想像していなかったのではないか。

 

 どのような御心が示されるのか分からないが、ペテロは、その使いの話を聞き、何よりも自分自身が見た異様な幻のことがあり、全く知らない異邦人、駐留ローマ軍の百人隊長からの申し出であったが、その使いとともにコルネリオのところへ行った。

◆(本論)御心を示す方法

①大きな御心を示すために、神は、教会側ではペテロ、異邦人側ではコルネリオを選び、彼らを通して働いていることはこれまで見た通りであるが、本日の箇所において注目すべきは、御心を明らかにするその方法である。

 第一に、それぞれに御使いによることばと他方、幻を通して、必要な準備をしていることである。前回のところで見たように、まずコルネリオに御使いを通して語りかけ、ついでペテロに幻によって重大なことを示している。

 主は、たいていの場合、いきなり、中心をぶつけることはしない。ご自分が用いようとしている人に対してどのように行動すべきかを示し、あるいは先に幻を通して、御心を暗示している。言うならば、御心を示すに際して人を道具、機械として利用しない。選んだ人と対話し、その人の心に働きかけている。コルネリオにあなたの祈りは神の前に聞かれていると告げ、さらに深い神のみむねを知るためにヨッパにいるペテロに使いを送りなさいと言っている。また、ペテロに対しては異様な幻を示し、考えさせている。あくまで人が分かるように真理を示そうとしている。

 なぜ、回りくどい、そんな方法をとるのか。それぞれが神の御心を心から受け入れることができるためである。これが、主の方法である。

 私たちがよく知っているのは、イスラエルの民をエジプトから脱出させたモーセの召命の場面である。(出エジプト3章)主は、強力な軍隊を持ち、イスラエル人を奴隷として苦役につかせ、利益を得ていたエジプトから、しかも成人の男子だけでも60万人、総数では優に200万人を超える人々、さらに長年に渡る隷属生活のため、神の民としての自覚を失っていたイスラエル人を脱出させ、約束の地、カナンに導き入れるという大事業に召されるにあたって、機械的に命じていない。ロボットのように用いていない。ただ使命、役割を与えていない。モーセの存在、経験、知識、人格に語りかけている。同胞の苦しみを受けとめ、イスラエルがエジプトから脱出し、神の民として約束の地、カナンに入ることがいかに大切であるかを分からせ、モーセ自身がそれらを理解し、神によって堅く立つように導いている。

 新約ではペテロを再び主の御用に召している場面もそうである。「主よ、ご一緒になら牢であろうと、死であろうと覚悟はできております。」と言いながら、いざ自分の身が危険になると、そんな人は知らないとのろいをかけてまで否定したペテロである。普通なら、そんな男は信用ならないと切り捨てられても少しもおかしくない。しかし、復活された主は、そのペテロの心を受けとめながら、深く語り、私の羊を牧しなさいと彼をご自身の働きのために召している。(ヨハネ21章) こういった例からわかるように、主は、上から一方的に、御心を示し、従うように命じる方ではない。あくまで、御心をその人の人格のうちに示し、理解し、行動するように促している。 この場面でも同じである。ペテロの人格、コルネリオの人格を通して、異邦人も救われるという教会の大変化を伝えている。

②そして、この場面を通して教えられる二番目のことは、今話して来たことと関連するが、御心を示す際において、そのように受け入れた者たちに対して、十分な時間をかけていることである。アブラハムに対する約束をすぐに持ち出し、また主イエスの宣教命令を持ち出し、神の奥義を受け入れよと迫っていない。コルネリオにもペテロにも語る時間を与え、双方が十分に受けとめることができるようにしている。このことも私は信仰生活を送るうえにおいて留意すべきと思う。私たちは、すぐに神が御心を明らかにすることを望む。しかし、多くの場合、神はそのような方法をとらない。人が御心を受けとめることができるような方法をとる。まだろくしく感じることが多いが、それに関する人々が本当に御心を理解し、自分のことばで理解し、そして自分の意思で実行するものとなるためである。

 

◆(終わりに)主の方法は今も同じ

   このような主の方法があって、ペテロもコルネリオも大きな変化を受けとめることができた。そして、自分だけでなく、他の人にも説得力をもって語ることができた。主が丁寧にまた的確に、双方に働いてくださったから、ペテロもコルネリオも異邦人の救いという教会の大変化を理解し、受けとめることができ、そして確信を持って人々に告げることができたのである。

 

 現在でも、主の方法は変わらない。私たちが信仰の決心に導かれた時もそうだったのでないか。あるいは何らかのかたちで、主のために献身した時もそうではなかったか。私たちは決して何も言うことができない状況に置かれて、無理矢理に決心、決断したわけではない。主が一人ひとりと対話し、そして主を受け入れて新しく歩みだすことが大切だと分かったから信じますと告白し、また主の働きに加わるように心の深くに語りかけておられることが分かったから従いますと言ったのではないか。私たちの主は、創造主、贖い主であるが、人と共に歩み、人が理解できるように語り、また時間をかけてくださる方である。その主の方法は今も同じである。今、あなたに主が何か語りかけていることはないだろうか。そう感じることがあるなら、大切にして欲しい。