主を礼拝するために

■聖書:出エジプト記9-10章(朗読は10:1-11)   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたのです。(詩篇443節)

 

1. はじめに

 出エジプト記を読み進めていますが、その際注意したいことは、神様はイエスラエルの民をエジプトから脱出させた理由です。もう少し言えば、出エジプトは主による救いを表すだけでは終わらずに、救われた後に建て上げられた「神の民」についてを教えているのです。それは本日の箇所のような、救いの前段階に位置する出来事でも明らかにされています。

 長い箇所ですので、ポイントをしっかり一つに絞ってお話をしていきたいと思います。それは、なぜ神様はこんな面倒くさい方法でイスラエルの民をエジプトから脱出させたのかということです。本日は5番目から9番目の災害について書かれていますが、実に10もの災害の先に、ようやくイスラエルの民にとってはすぐにでも解決してもらいたい問題、エジプトでの苦しい奴隷生活からの解放があります。彼らにとっては一刻も早い解決、目に見える解決が欲しかったはずです。それは今日も私たちにある思いです。けれども、神様の用意されている解決への道は、実は私たちの想像する形ではないことがある。しかしそれは意味のない回り道ではなく、私たちの願い思い描く解決以上のゴールへの道なのだということを覚えたいと思うのです。同じような不思議な現象が続けざまに起こっているようですが、その一つ一つには意味があり、神様の目的がある。出エジプトの時代も今日にも変わることのない、この世界が作られた時からの目的があるわけです。それを知らなければ、困難は困難のまま私たちを傷つけ苦しめるだけです。本日の箇所から、解決までの途上にある中で見るべき、神様の目的を教えられていきましょう。    

2. 5-7番目の不思議、その特徴と目的 〜神の民とは誰か〜

 はじめに、9章にあります三つの災害について見ていきたいと思います。一つ目は1-7節「野にいる家畜の疫病」、二つ目は8-12節「腫物」、そして三つ目は13-35節の「雹」です。これまで4つの災害を見てきましたが、その度に神様はご自身の目的を変わることなく表されてきました。一方で、何度も約束を破るパロの不誠実な言葉と、主を主と認めないかたくなな心を見せつけられてきたわけであります。パロにとっての問題が片付くと、またすぐに主をないがしろにする人間の姿が映し出されているようでもあります。この9章の災害から、パロのかたくなさとそれに対する神様の働きかけについて絞って見てまいりましょう。本日の箇所もそのように始まっています。

 

5番目「家畜の疫病」

 まずは家畜の疫病です。すぐ前の箇所で、アブの災害によってイスラエルの民を荒野に行かせる約束をしたパロは、その災害がモーセの祈りによって収まると再び強情になり、民を行かせませんでした。行かせることを拒むパロに対して、神様が言われたのは、野にいる家畜が疫病にかかるという第五の災害です。注目したいことは、やはりここでもイスラエルの家畜とエジプトの家畜が区別されているということです。9章の3節からお読みします。見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行う。」区別するという言葉は「特別に扱う」という意味です。誰の目にも明らかに、神様が特別に扱われる人々が示されたのでした。時を定め、どのようになるのかをはっきり示されたその結果は、6節以降。主は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。まさに主の言葉通りのことが起こったのです。しかしパロの強情さは、続く第六の災害では変わってきます。

 

6番目「腫物」

 かまどのすすを撒き散らすと、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物になります。その結果パロはどのように反応するか。12節、しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。

 すでに言われていたことですが、ここで、パロの心のかたくなさは主がされたことであると言われていることに気づきます。しかし注意したいことは、初めからそうであったわけではないということです。こうなるだろうということは7章の3節、モーセがエジプトに向けて出発する前から言われていましたが、実際に神様が心をかたくなにされたと書かれているのは、これが初めてなのです。これまでは「強情になり」とか「強情で」とか言われ、あくまでもパロ自身に責任があったのであります。しかし主はそれをいつまでもそのままにはされない。新約聖書ローマ人への手紙にも「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」(ローマ9:8)とありますように、手遅れということがあるのです。確かにあわれみ深いお方です。赦しと愛に富んでおられるお方です。諦めずに名前を呼び続けてくださるお方でもある。しかし同時に、悪をそのままにされることもない、義なるお方でもあります。裁きの日は必ず来るのであります。やはり悪のはびこる時代、イザヤという預言者は語りました。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(55章)主に心をかたくなにされるとは、主を呼び求めることができず、助けを叫ぶこともできなくなるということです。唯一の救いの道が閉ざされたということになります。そうなってはならないのです。何度も主は語られました。わたしが主である。主を信じよ。また私たちにも、わたしの元に帰ってこいと両手を広げて待っておられる。私たちは今朝、改めてこの緊張感を持った声に耳を傾け、自分自身のこと、また私たちの大切な一人一人、主が愛しておられる一人一人のことを覚えたいと思うのです。

 

7番目「雹」

 そんなかたくななパロとは対照的に、神様の区別、特別に扱われる対象が広げられていることに続く7番目の雹が降ってくる災害で気づかされます。もうすこし言えば、主によって特別に扱われる、区別される人々はイスラエル人にとどまらず、主の言葉に従う人々がエジプト人の中にも起こされ始めているのでした。いや、最初の計画が変わったのではなく、神様の愛の眼差しには初めからこの人々が映っていたと考えたほうが良いでしょう。先の災害でかたくなにされたパロについて、モーセを通して神様は語りかけます。13節後半から、ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を生かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのようなものは地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。

 エジプトにおいて雹というのは極めて珍しかったと考えられます。今日でもよく言われる異常気象、あるいは天変地異のように思う人々もいたでしょう。それがあらかじめ警告されているのでした(19節)。パロの心をかたくなにされた神様は、しかしこの雹を持ってエジプトの民たちを痛めつけることが目的ではありませんでした。この言葉を信じ、避難させよと言っています。あくまでも助かる道を残しておられる。そしてそれに続く言葉が、この七番目の災害の大きなポイントになるかと思います。20節、パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心にとめなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。この災いから逃れたのはイスラエル人だけではありませんでした。25節には、雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべての者を打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。ただイスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。後半の、イスラエルに不思議な守りがあったことはこれまでの出来事からもわかることです。しかし明らかに違うのは、野の全てに打ち付け傷つける雹も、主のことばを恐れる者たちは屋内に避難させていましたから、被害を受けなかったわけです。ここに、神様が守りの手を伸ばされるのは、イスラエル人かどうかではなく、神の言葉を恐れ従う者かどうかであるかがはっきりとするのです。出エジプトというと、何かイスラエルが特別な民として脱出させられる、イスラエルの民だけが寵愛を受け、恵みを受けるというように私たちは思ってしまいます。イスラエルの民自身、選ばれたことを誇り、神様が伸ばされる御手の大きさ、広さを勝手に狭めていました。しかし、正確に言えば違います。この出エジプトは、神の民を選び分けるという意味がありました。神の民を選び分け、助け出し、整えるという意味があったのです。まさに区別があるのですが、それは血によるのではなく、主の言葉に従うか否か。この「信仰」にかかっているのです。この世の者よりも、主のことばを恐れ主に従う民です。現に出エジプトがなされた時、このような記述があります。1237-38節、イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。さらに、多くの入り交じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに登った。多くの入り交じって来た外国人、これはまさしくエジプト人でありながらもパロではなく主のことばを恐れた者であります。エジプトでの安定した生活を捨て、故郷を捨てて、神と共に生きる道を選んだ人々です。確かにイスラエルの民にもたらされる恵みは大きいのですが、しかしこのイスラエルの民を媒体にして、さらに多くの人々を救おうというのが神様のご計画でした。そしてこの神様の人々の想像を超える計画、変わることのない大きな目的において、当時は一人の人として数えられることのなかった幼子たち、子どもや女性も大切な神の民として扱っておられるということが明らかにされます。10章に入り、第八の災害について見ていきましょう。

 

3. 8番目の不思議「いなご大発生」〜神様のみわざを伝え続ける神の民〜

 ここで冒頭の問いを思い出してみたいと思います。なぜ、神様はこのような回りくどい方法をとられたのか。イスラエルの願いは明らかに早く救い出してほしいというものでした。私たちも同じです。問題は早く解決してほしい。もう苦しみたくないと願う。けれども神様は、パロの心をかたくなにされることさえしているのです。解決を与えるどころか、遠ざけているようにさえ思えてしまいます。しかしその理由は、10:1の後半から、…パロのところに行け。私は彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」それは、「この恵み、神様の力強さを、今苦しみにあっているあなたがただけでなく、あなたがたの、のちの子孫たちが知り、誰が主であるのかを知るためなのだ」と言われるのでした。だからパロをかたくなにさえして、しかしそのすべての人間の妨害に打ち勝たれる神様の力、約束の確かさを教えられるのです。のちの時代の神の民が、神はどのようなお方なのかを知り、慰められ励まされるために、主はこれらのことをされているのです。私たちが直面している苦しみや痛みは、私たちだけで終わるのではなく、さらに大きな祝福、恵みとなって、子供たちや周りの人々を潤すためなのだ、と言い換えることもできるでしょう。本日の中心聖句にさせていただいた詩篇443節の御言葉をご覧ください。この詩は、このように始まっています。1,2節。神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。あなたは御手をもって、国々を追い払い、そこに彼らを植え、国民に災いを与え、そこに彼らを送り込まれました。そして、彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたのです。と続くのです。つまり、この歌を歌っている人々は実際に神様の不思議な力、大きな愛を目の当たりにしたわけではなかった。けれども、先祖たちから語り継がれていることを信じ、先祖たちを愛されたお方が、今この時も生きて働かれていることを信じて、主を賛美し、礼拝しているのです。先祖が受けた愛を、特別な取り扱いを知り、その同じ神様が共にいてくださるのだということを喜び歌うのです。いや、そのためにこそ、神様はこの10の災害、そしてパロのかたくなさまでも用意しておられる。私たちが経験している苦しみやそこからの解決も、まさしくそこにつながるのではないでしょうか。理不尽だと思うことがあります。なぜ自分がこんな目にと思うこともあるでしょう。けれども、神様はそれを知らないお方ではありません。知らないどころか、先月の松井姉妹のお証にもありましたように、必ず脱出の道を用意してくださる。そして問題が解決するだけでは終わらないさらなる恵みをも用意してくださる。問題に直面している当事者だけに降り注ぐのではなくて、その人を通して、すべての神の民に祝福が与えられるのであります。いや、私たちもまたそのような神様の素晴らしい恵みを、先人の様々な経験から伝え聞き、証されてきたのではないでしょうか。

 

 いなごや他の災害を用いてこのことをなさろうとする神様、しかしまだかたくななパロは、誰が行くのかとモーセに尋ねます。10節以降のパロの言葉を見ますと、政治家らしく人質を取ることで遠くまで行けないようにしているということがわかります。壮年の男だけで礼拝すればいいじゃないかと言う思いがあったのです。子供や女性は当時人数に数えられていませんでしたから、当時の常識で言えば決して的外れとは言えない提案です。しかし9節、モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」主の祭りというのは、主を礼拝することといってよいでしょう。すべての神のことばを恐れるもので、礼拝を捧げる。神様の特別な扱いを受け、その愛を注がれた人々。それには大人も子供も関係ありません。男も女も関係なく、さらに先ほどのことを言うならイスラエル人も異邦人も関係ない。主の言葉を恐れるものがすべて、この礼拝に招かれているのです。そして神様のくすしいみわざを覚え、感謝し、賛美し、明日を生きる励ましと力を与えられる。それが私たちの礼拝であります。老いも若きも、小さな子供たちでさえも、神様の前で、共に主のなさった素晴らしいことを覚え、その約束を信じて、礼拝を捧げるのです。問題が解決して終わりではありません。もしそうでしたら、天候さえ思い通りにされる力を持ってエジプトを滅ぼせばいいのです。しかしそうはされなかった。苦しみは苦しみで終わらず、解決されて終わるのでもなく、その先にはまことの神様を礼拝するという大きな神様の目的があるからです。さらにその礼拝は時代を超え場所を超えて広がっていくのです。それこそが私たちにとっての本当の幸いであるからです。

 

4. 9番目の不思議「手に触れるほどの深い暗やみ」 〜光とともに生きる神の民〜

 しかし忘れてはなりません。神様は、遠いところからこれをなされているわけではないのです。苦しみを与えられた意味はわかりました。その解決が長引いている理由も主を礼拝するためです。しかしだからといって、神様は私たちをそのような苦しみの中に置かれているだけではない。本日最後の災害、9番目は「暗やみ」でありました。いなごによって国全体が壊滅的な被害を受けたエジプトでしたが、それでも主はなおパロの心をかたくなにされます。そして続く災害として「触れるほどの深い闇」を与えられました。闇というのは、人を孤独にさせます。助けを求める人が見えなくなり、神様さえも感じられなくなり、人々を不安にさせる。エジプト国中がそうなりました。しかし23節、三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住むところには、光があった。エジプトにはなく、イスラエルにはあった光とはなんでしょうか。実際の光・あかりとも考えられますが、そうではないでしょう。言い方を変えれば、主のことばを恐れる者にはあり、恐れない者にはない光です。「光があれ」といって世界を創造されたお方、中心聖句の「御顔の光」がまさにこれであると言えるでしょう。今日の私たちには、すべての人を照らすまことの光として世に来られたイエス様がいつも共にいてくださいます。苦しみは確かにありますけれども、闇に包まれ、解決がどこにあるのかわからなくなる時もあります。けれども主を恐れ、主のことばに信頼するものには光がある。特別な扱いがあり続ける。だからこそ私たちは、光として苦難の時にもいつも共にいてくださった神様を礼拝することができるのです。

 

5. まとめ

 光である神様が共におられるということ、またこのお方の計画は必ず成し遂げられるということは、一つの問題が解決するその時の経験に終わることなく、礼拝すべき方を日々礼拝する生き方へと導き、それから先を力強く歩むための力となります。さらには周りの人々、次の世代への大きな励ましとなります。主がなさることは時にかなって美しい。意味のないことなんてないのです。主が知らないことなんて何一つないのです。すべては主のみ手の中にある。ここに確信を置いて、私たちの歩みを続けてまいりましょう。先が見えなくなる時も、私たちを導いてくださる神様の目的地はぶれることなく存在し続けています。そこにあるのは、私たちが心から喜び、主を恐れる一人一人と共に礼拝を捧げる人生であります。そこにこそ本当の幸いがある。主の手に引かれつつ、歩んでまいりましょう。